春の風景
もし、この斎場に煙突があれば、北森 鴻の短編の冒頭にあるような描写が相応しいだろうと、深瀨 聡美は思った。しかし、澄み切った春の青空にたなびきながら昇ってゆく命の残滓を眺め、かの人の魂が天に召されてゆく姿を想像させてくれるような光景はここにない。
ただ最新の装置が冷徹にかつての友人を骨の残骸と化すまで焼き尽くし、匂いも煙も空に漂わせることを拒否していた。
待合室に居る人々に、故人の親類縁者はいない、主に仕事絡みの知人ばかりである。深く関わった人が少ないため、長い沈黙の時間とその間隙を埋めるだけの一言二言で終わるような会話は空気をさらに重くさせるばかりだった。
その重圧に耐えかねてか、深瀨は外の空気を吸うために外に出ていた。斎場の至るところには、桜が植えられ、それはまさに満開の時期を迎えていた。
-桜庭さん、貴女の名にふさわしい最後の日になりましたね。-深瀨は、桜の淡い花の色が、空の明るさにハレーションを起こしている様子に目を細めた。
すえたような匂いにふと目を待合室の陰に送ると、そこに一人のホームレスが座って、カップ酒を飲んで彼女と同じように空を見上げていた。
「野原さん、来ていただけたのですね」深瀨は、声を掛けたが、野原と呼ばれた男は、軽く頷いただけで、また空を見上げただけだった。
やがて、案内放送が桜庭 柊子の火葬が終わった事を告げると、彼女は建物の中に戻った。寝台の上に残された灰色の骨を、桜庭の上司である遠山と伴に骨壺と分骨用の小さい骨壺に入れ、最後に印が押された埋葬許可証を骨壺に入れ蓋を閉めた。
深瀨は骨壺を入れた箱を抱くようにして、遠山が用意した車に乗り込んだ。身よりが分らないため桜庭 柊子の葬儀は、彼女が死を前にして残した遺言により執り行われ無かった。
ただ樹木葬にして欲しいとの事で、納骨については、これから彼女の期待に沿う様な墓地を探しその日程を予約をするつもりでいた。できれば桜の樹の下に、彼女はそう言っていた。
深瀨は一人住まいの古びたマンションに戻り、サイドボードの上に骨壺が入った箱と分骨が入った小さな容器を置いた。その横には、自分の父親の遺影と桜庭が入院中にもしもの時に使ってと渡された分厚い封筒がある。
「結局、貴女は誰だったの?」と深瀨は、骨壺に対峙するように立った。
そして、彼女との出会いからを、思い出そうとした。
桜庭は、雨の降りしきる春の日に公園で暴行に遭い救急車で運ばれた。検査では、特に大きな異常は見つからなかったが、彼女は、記憶喪失を起こしていた、事件発生時の記憶は希に海馬の機能が低下するなどからして残らない事はあるが、彼女は自分の名さえ言えない状態であったという。
症状が安定した後、退院しても行く宛ての無い彼女の為に、深瀨が所属しているNPOに相談が入ってきた。主に、ホームレスの為の支援やシェルターの提供をしている団体であり、入院時の彼女の身なりからしても、それが妥当と思われたようだった。
桜庭をNPOが管理するシェルターに保護しつつ、時々彼女の身の回りを世話を、深瀨は行った。特に何かを良く話したという感じはしなかった。本業もあるため、彼女への対応は、土日や夜間にしか出来なかったからだった。
過去の喪失の不安、という病に冒された彼女の目は何時も伏せがちで、天気の話、テレビの話をして会話の糸口を掴もうとしても、彼女はたった一言でその糸を切ってしまったものだった。
「そうですね」彼女が返す言葉は、どんな話題でも常に肯定だけだった。
-暗い女だ-未だ名も無かった桜庭に対する印象は、その一言に尽きた。
料理を与え、服を与え備品を与えるだけの世話が続いた。メンタル的なサポートには一切反応を示さない彼女は、ひょっとしたら、何も言わずに、そのシェルターから出て行ってもおかしくはなさそうな気配を何時も持っていた。
平日でもNPOの仕事ができる別の担当が、彼女を警察に連れて行き捜索願や犯罪者のデータベースとの照会を依頼したが、回答は10年近く経った今でも皆無だった。
身許が分らないままでは困るため、弁護士に相談をし戸籍取得の為に、就籍の手続きを開始し、一年ほど経ってから、ようやく彼女は、桜庭 柊子という名を得た。
年齢は外見から適当に20代中頃とし、誕生日は公園で発見された日が選ばれた。名は発見された場所に桜が咲いていたから、柊子は柊の花言葉から、NPOの代表が付けた。
保護、そして先見の明、そしてかたくな彼女の態度がその木の葉の棘がやがて丸くなるように、そして何時かは、自分を取り戻せるようにとの願いからだった。
そして、ようやく生活保護を得る事もできた。
しばらく後に彼女は、バイトから仕事を始めた。それからだろうか、笑みを浮かべるようになったのは。貯金が貯まり始めると、自分でアパートを探し、自立をするようになった。
バイト先の倒産で、ハローワークに行き、次の仕事が見つからないという彼女に、ハローワークの担当から職業訓練を勧められ、PCの操作等の授業を受けた彼女は、不思議と頭角を現わし始めた。まるで天賦の才能が花開いたのか、記憶を失う前にそういう仕事に就いていたのだろうと思ったが、彼女の記憶には影響を及ぼす事は無かった。
しかし、踏ん切りが付いたように、桜庭はこれからの生き方を考えるようになったように、深瀨は思えたものだった。
「今度、コンピュータの会社にお試しで入社する事になりました」と彼女の元気の良い声を深瀨は良く覚えていた。やがてその会社で、ホームページの制作やグラフィックデザインを担当する社員にまでなった。その会社が偶然にも深瀨の会社から、よく仕事を依頼していたため、仕事の関係で顔を良く会わす場面も発生したものだった。
そして、会社には内緒で、自作のデジタルアートやアイコン、スタンプを制作して山鍋 楓花というハンドル名で公開、販売をしていた。彼女にしてみれば、良いお小遣いになったのよと笑っていた。
しかし、そんな生活が7年ほど続いたものの、彼女は突然病魔に倒れた。膵臓癌だった。見た目からすれば、まだ若い部類だったせいか、病魔は一気に広がり入院後あっという間に痩せ細り、そして桜庭 柊子と言う名は、10年も経たずに消えた。
「貴方はどこから来たの?どこへ行きたかったの」骨壺が入った質素な木の箱に囁いても当然返事はない。
今更だが、もう一度彼女の素性を探してみるべきだろうか、深瀨は既に陽が暮れた部屋の中で考えた。警察の手を借りてさえ不明だった桜庭 柊子の素性。
分骨が入った小さな容器は、もし彼女の素性が分った時の為に取っておいたものだったが、それは無駄になりそうな気もしていた。
いや、私一人が動いても分ることはあるまい。ただでさえ、仕事で忙しく土日にやっと体を休めるこの状況で、最近はNPOにも最近顔を出していないというのに。
深瀨は、ため息を付くとノートPCの電源を入れて樹木葬ができる近場の墓地を探した。
翌日、メモをした墓地のいくつかに電話をいれると、埋葬の予約を、翌月の土曜日にとる事ができたので、少ない関係者にメールで伝えた。
そうして、桜庭 柊子の名は、個々の記憶の中に収められたまま、もう現世に出てくる筈は無かった。むしろ、完全に忘れ去られるべきであったのかも知れない。