第一話 旅の始まり
「風が気持ちいいな」
思わず独り言を呟いてしまった。ただこの周辺には誰も居ないので恥ずかしがる必要はない。自宅からこの山まで二時間。さらに十五分かけて歩いていくとようやくテニスコート程の広さがある開けたこの場所に出る。その中央にテントを建て、その前のキャンプ椅子に腰を下ろしのんびりと夕刻の中でコーヒーを飲んでいる。
三年間本気で貯金をし、ようやくこの山を買ったのが半年前、休みの度にここに訪れ車の駐車スペースからここまで道らしいものを作りこの場所の整地が今日やっとひと段落ついた。
何でここまで必死になってやったのかは自分でもよく覚えていない。別に一人が好きと言う訳でもなくコミュ障でも無いと思う。残念ながら二十五歳だというのに彼女はいない。あくまでも現在はだ。
あまり趣味の無かった俺(水澤 仁)だが、五年前に同僚のソロキャンパーにキャンプを叩き込まれて何とか一人前になったと思えるようになったとき、運悪くキャンプブームが始まり、キャンプ場が騒がしくなってきたので自分の城ではなく、自分の山が欲しくなった。
コーヒーを飲み終えた頃には完全に日没となり灯りといえばテントの前の焚火と月明かり、風の無い今は聞こえてくる音はこの場所から少し離れた小川からの水の流れる音ぐらいだ。誰も居ない、誰にも邪魔されない、決して町では味わえない贅沢だろう。キャンプ椅子をリクライニングして夜空を眺めていると何かがおかしい。
「何だ、何あれ」
思わず声に出してしまうほど不思議な月の色だ。何せ暗い夜空に青い月が輝いている。今迄生きてきた中で見たことも聞いたことも無い。ただただ圧倒されてしまう。
暫く見ていると夜空に雲がかかり星も月も見えにくくなってきた。雲がどんどん降りてきたのか、それとも霧が出てきたせいなのかは不明だが視界が悪くなる一方だ。
先程までかろうじて見えていた焚火の火すら今は見えず、ただ暖かさのみが焚火の存在を証明する。
流石に怖くなり、ただ下手に動くと危ないのでもう少し様子を見るしかないのだが、身体中にもやのように不安が広がる。
「ブォーン、ブォーン」
何か聞きなれない音がしたと思ったらかなり強烈な風が吹いてきた。
「いたっ」
凄まじい風の力で椅子から転げ落ちて地面に叩きつけられた。
「ブォーン、ブォーン」
耳をつんざくほど音が大きくなり、少し経つと何の音もしなくなった。先程まで夜であったはずなのに今は昼間のように明るい。
周辺には大木が辺り一面そびえ立っていて、それに細い木やツルが絡んでいる。まるでジャングルのようだ。
「おーい誰かいますか」
絶対に誰もいないのは分かっているのだが声を出さずにいられない。ほんの少しだけ額に脂汗がにじみ出る。
身体は多少お尻が痛いだけであとは問題ない。骨でも折れていればやっかいな事になるが行動に差し障りは全くない。
持ち物を確認するが何も持っていなかった。一番頼りになるナイフも無いし、それどころか財布やスマホも無い。全部テントの中に置きっぱなしだ。こんなことになるとは想像もしていなかった。
「誰かー助けてくださーい」
どうしようもなくなった俺は大きな声で何度も叫んでみる。すると森の中から微かに声がした。
「ぐぎゃ、ぐぎゃぐぎゃ」
何だろう、何かが近づいてくる気配がある。熊か猪なのだろうか、こんな状態で遭遇したら死ぬだけだ。何か武器になるものはないのか素早く地面を探すと一m程の木の枝が落ちていた。
素手よりましだがこれで何が出来るのか、あまりにも恐ろしくて全身が震え始め歯がガチガチ噛み合う。
「ぐぎゃ、ぐぎゃ」
前方から声が段々と大きく聞こえてくる。それに伴い異質な匂いが漂ってきた。流石に単なる動物とは思えない。恐怖が身体を突き抜ける。いつまで俺は精神を保っていられるのか分からない。
「ガサガサッ」
目の前の森から出てきたのはやはり動物ではなく、小学生ぐらいの大きさで緑色をした人間のような化け物が姿を現した。俺はあまりの恐怖で目を塞ぐことさえできずに化け物と目が合った。
「いーやぁーあづじゃーらー」
全く言葉にはなっていないが、喉が崩壊しそうな程大声を出してその場から逃げ出した。
第一話を読んでくれてありがとうございます。
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