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1001A:謹賀新年、事故早々

 これは、実際の論文並びに報告書、関係者や専門家の証言などによって構成されたフィクションの物語です。現実の人物、団体、事象並びに事故などとは一切関係ありません。

 なお、この世界の歴史は、あなたが勉強したそれとは大いに異なっている可能性があります。この場合、彼らにとっては、それが真実なのです。


 また、本邦の鉄道マンは今この瞬間も全力で安全と向き合い、皆様の毎日の為に尽くしています。そしてこの安全は、彼らが払った犠牲のもとに存在します。

「オリンピックまであと2年だというのに、ボクたちは今日もドブさらいか」


 それは八月の暑い日のことだった。井関という名の官僚がスーツ姿のまま、用水路に腰まで浸かりながらそうボヤく。そのすぐそばを、国鉄御自慢の特急電車が駆け抜けていった。


「新幹線の開通まであともうすこし。それまでにこの事件は片付くかね」


「片付くかね、じゃない。片づけるんだよ。ボクらは精神論の国の民だよ?」


 そう強がりを言う井関の足元はどうにもおぼつかない。見かねた農夫が「茶でも呑まんね」と言い出し、井関は渋々作業を中断することになった。


「井関と言ったが、君は国鉄のエリートなんだろう? なぜ、君なんかがこんなところで泥仕事を」


 農夫は井関に麦茶を差し出しながらそんなことを聞いた。


「僕らは官僚だよ? 国民の為に決まっているだろう」


「ウソを言う。お役人は俺たちのために働かん」


 鼻で笑う農夫に、だがそれでも井関は顔を変えなかった。


「だってそれが、ボクら国鉄特殊事故調査掛(トクチョウ)だからね」










 彼らが結成された理由を知りたければ、それは4年前の冬にまでさかのぼることになる。それはすなわち、昭和29年の1月だ。


 この日、正月の三が日も明けてなんとなくまったりとした雰囲気の流れるこの日に。国鉄本庁にとんでもない報告が入った。


「重大事故発生! 樺太管内、奥鈴谷駅で脱線!」


 明けましておめでとう、などと笑いあっていた雰囲気は一瞬にして霧散した。お偉いさんどもが、血相を変えて走り出す。


 なにぶん、重大事故が続いている国鉄のことだ。昭和21年に今の国鉄となってからもう8年になるが、その間に発生した重大事故は9件。隠ぺいしたものも含めれば1年に1.5件は重大事故が発生している計算になる。


 事故の原因は?

 責任の所在は?


 昨年の大事故で大いに虐められた運転局長は泡を吹いて倒れてしまった。慌てて衛生課の職員がやってきて、担架で局長を運んでいく。国鉄は上に下にの大騒ぎ。


 そしてその喧噪は、やがて国鉄のトップ、つまり「鉄道院総裁」の耳にも入ることになった。


「それで、犠牲者は何人出た」


 雅な内装の総裁室に、張り詰めた空気が流れる。この総裁という男は、部下を激しく叱責することで有名だった。


 鉄道総局長は冷や汗を流しながら引きつる笑顔で答える。


「ご安心ください総裁。脱線したのは貨物列車でしたので、旅客の犠牲はありません」


 総裁のご機嫌を損ねないように……。総局長はまるで朗報を伝えるかのようにそう言った。だが総局長の意図とは裏腹に―――そしてそれはある程度予測ができたことなのだが―――総裁はこめかみに青筋を立てて怒った。


「そんな事を聞いとるんじゃない! 乗務員の犠牲について聞いておるのだ!」


 まるで暴風雨のような怒声が、総裁室の優美な空気を震わせる。総局長は泣きだしそうになりながら答えた。


「……ええ、乗務員が一人、犠牲に」


 総局長がそう言うと、打って変わって総裁は号泣し始めた。ポロポロと大粒の涙を流しながら、悔しそうに顔を覆った。


「鉄道員は、ワシの子も同然じゃ」


 総裁は顔を歪めて悔しがる。そんな総裁の荒れ狂う感情に、油を注ぐ愚か者がいた。運転副局長だ。


「総裁。今日は新幹線計画についての記者会見がある日です。事をあまり大きくされますと、新幹線計画にも影響が……」


「そんな話を聞く耳はもっとらん、バカ者!」


 ピシャリ。また雷が落ちた。そして総裁は運転副局長を怒りのまま罵倒し始めた。


「この冷血漢、鬼、悪魔! どうして貴様たちエリートには現場の労苦が……」


 思いつく限りの言葉で、総裁は”息子”たちへの愛と、エリート組の不届きを説き始める。こうなってしまえば、この雷雲はもう止まらない。

 とうとう、二人が恐れていた言葉を口走り始めた。


「我が息子たちを死に追いやった事故を、なんとしてでも究明しなければならない!」


 やっぱり……! 二人は急いで総裁を止めようとしたが、だが止まらない。総裁は勢いそのままに、総裁室を飛び出した。



 この時不幸にも、部屋を飛び出した総裁の目の前を、フラフラと通りかかった青年がいた。

 彼の名は井関次郎。帝国大学卒の若手で、将来を期待されるい”エリート中のエリート候補”だ。


 彼は、まるで腹ペコのヒグマのように怒り狂う総裁の目の前に、ばったりとでくわしてしまった。


「君、たしか車輛局の人間だったね」


 そして悪いことに、このヒグマは人覚えがよかった。車輛局は鉄道車両の技術に関する部署であるから、鉄道事故の解明にはもってこいだ。


「君に命じる。今から樺太へ赴き、事故調査をしてきなさい」


 ガブリ。若者はこの心篤きヒグマに思いっきり噛みつかれた。


「ええと、私は今から隣の部署に新年の挨拶に行くところでして……」


 なんとかその身をくねって逃げようとするが、しかしもう遅い。


「構わん。これは総裁命令だから大丈夫だ。いいか、すべてを解明するまで必ず樺太から帰ってくるんじゃないぞ!」


 総裁命令。その言葉に逆らえるエリートは鉄道院の中には居ない。後ろで総局長と運転副局長が「あ~あ」とおでこに手を当てている。

 井関はというと、その場で絶望に満ちた顔をしながら、へたり込むことしかできなかった。


「井関君。まあこれは、災害みたいなものだから……」


 総局長はそう言って井関の肩に手を置いた。


 この瞬間、井関は本来の職務を外れ、事故調査をしなければならないことになったのである。

 東京オリンピックは昭和30年の世界オリンピック協会の決議に則り、昭和35年に開催することが決定された、スポーツの祭典です。

 足掛け30年に渡る悲願であり、東京市内の熱気は一入(ひとしお)である。

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