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雨降りの日曜日

作者: エバンス

    雨降りの日曜日


夢の中で、僕は子供になっている。

 初め、その事は僕をひどく混乱させる。でも僕が子供である、という事実が、僕をだんだんと飲み込んでいく。まるで,ねばねばとした液体が体を包んでいくような気分だ。ゆっくりと、確実に、僕は子供になっていく。まだ言葉も話せないくらい小さな子供に。その事を何処かで喜んでいる自分がいる。

 もう、話さなくて良いんだ。

 もう、伝えなくて良いんだ。

 もう、分かり合う必要なんてないんだ。

 でも、そう考える自分も消え僕は完全に子供になる。

 僕は劇場のようなところにいる。触れると、血が付きそうなほど赤い座席に座っている。辺りを見まわすと、僕と同じくらい小さな子供達が行儀良く座っている。幼稚園の遠足のような感じだけど、大人の姿は一人も見えない。僕以外の子供は何かを楽しみに待っているようだ。彼らの顔つきや、雰囲気からそれが分かる。僕も「何かを楽しみに待つ顔」をつくろうとしたが出来ない。僕は彼らを、うらやましくも、うらめしくも、思う。僕は下を向き、自分の手ばかりを見つめている。

 しばらくすると、暗かった辺り一面がぼぅっと明るくなる。ステージに照明が落ちたせいだ。顔をあげると、ステージ上に一人の男が立っている。男は何万年も前からの夜を集めて固めたような漆黒のスーツを着ている。人工的な明かりの中で、その暗闇が不自然に浮かび上がっている。男の顔は、仮面をつけていると思うほど、表情というものがない。あるいは、本当に仮面をつけているかもしれない。

 男は何処からともなく、色とりどりのボールを取り出しジャグリングを始める。ボールは一定の軌道を描き男の手に吸い寄せられる。子供達は一瞬息を飲んだかと思うと、すぐに「すごい!」とか「うわー!」といった歓声、奇声をあげ始める。男はそんな声が聞こえてないように見える。ただ黙々と自分の仕事を機械的にこなしているように思える。

 子供達の歓声が大きくなるにつれて、逆に僕の心は深く沈んでいく。僕は耳を強く押さえる。

 間違っている。

と僕は思う。何処が間違っているかは分からないけど、男の行為は賞賛すべきものではないと思う。

 どのくらい経っただろう。辺りは夜の森のように静かになっている。それは能動的な静けさだ。少しでも音のするようなものは一瞬で飲み込んでしまうような。

 ステージの上で何かが光を放つ。

 ナイフ。

 男がナイフを持っている。ナイフが照明の光を受け、反射させる。男の漆黒のスーツにナイフの輝きが映える。

 子供達は魅せられた様にナイフをじっと見つめている。何の音も発していない。もちろん僕も含めて。

 男はステージの上からゆっくりと客席を見まわす。自分のナイフがもたらす静けさを確認している様に見える。

 男は少し微笑んだかと思うと、ナイフをいきなり自分の胸に突き刺す。

 ストン。

 という軽い音が響く。血は流れない。まるで男の胸がナイフの納まるべき場所のように見える。

 男が何処からかナイフを取り出し、今度は腕に突き刺す。

 サク。

 痛そうな素振りはまったく見せない。嫌だけど仕事だから仕方なくやっている。そんな感じだ。

 僕達は男から目を離せない。

 男は自分の体中にナイフを刺し続ける。

 しばらく経った後、僕はある変化に気が付く。

 子供の数が明らかに減っている。最初は劇場の客席いっぱいにいたのに、今は半分すら埋まっていない。男が自らを傷つける度に、子供が消えていく。いや、消えるというのは正確な表現じゃない。

 色あせる。

 そう、色あせるといった方が良い。写真が長年をかけてそうなるように。

子供達は、まるで寿命をまっとうした老人のように、まるでそれが当然であるかのように、色あせ死んでいく。

 僕は動くことが出来ない。この奇妙な風景をただ眺める事しか出来ない。僕はだんだん不安になってくる。死ぬことじゃない。

 ちゃんと死ぬことが出来るかどうかだ。

 ふと気付くと男が目の前に立っている。近くだと、男が仮面を付けている事がはっきりと分かる。仮面に彫られた、無機的な瞳と視線がぶつかる。

 目が合う?僕は子供なのに?

 違和感を覚え、自分の体に目を遣ると、僕は今の僕になっている。

 二十歳の本当の、現実の、僕に。

 男がスッと手を伸ばし、僕の心臓にナイフを突き刺す。これ以上ない正確な位置なので、ズブっとナイフが心臓の膜を突き破る音が聞こえる。体から勢い良く血が流れ始める。劇場の赤い床が更に赤く染まる。男のスーツの漆黒が血の赤を吸収するように妖しく蠢く。

 体が軽くなる。ゆっくりと意識が遠ざかり始める。

 なんだ、簡単じゃないか。僕は何を不安に思っていたのだろう。

 膝が折れ、自分の血の海に倒れる。血は暖かく気持ちいい。体が溶け、血と同じドロドロの液体になるような気がする。

 僕の瞳はまだ仮面の男の顔を捉えている。仮面の男は悲しそうに頷く。最愛の女性と別れる若き青年のように。そして男はゆっくりと仮面を外す。そこにあるのは

 僕の顔だった。



 夢から覚めた時、僕は自分がどこにいるか分からなかった。自分がどの世界に属しているかが分からなかったのだ。

 僕はこの世界では何者なんだ。

 小さな子供?

 仮面の男?

 どこからか雨の香りがした。それが僕を少し落ち着かせた。僕は立ち上がり、大きく伸びをした。それだけで頭が幾分かすっきりした。

 世界がゆっくりと、本当にゆっくりと、現実の姿を取り戻し始めた。

 少しくすんだ壁。

 本棚に並ぶ色々な本。

 好きなバンドのポスター。

 見慣れた風景が、もと有るべき形に一つ一つはまっていった。

 僕は洗面所に行き、顔を洗い、ひげを剃り、歯を洗い。簡単な服に着替えた。それだけしてしまうと、もうする事がなくなってしまった。何の予定もない雨降りの日曜日。

 僕はソファーに寝転び、さっきまで見ていた夢の事を思い出してみた。でも思い出そうとすると、まるで霞がかかったみたいに、僕の頭は働かなかった。

 たくさんの子供達。

 仮面の男。

 溢れ出る生暖かい血。

 断片は静物画のように鮮やかなのに、全体のイメージというものはまったくつかめなかった。

 僕は目を堅く閉じた。

 思い出すんじゃない。

 想像するんだ。

 と強く自分に言い聞かせた。僕は自分が小さな子供で、劇場の真っ赤な座席に座っているところを想像した。少しずつ自分の中で「何か」が形を成し始めた。僕は無意識の内に、天井に向かって手を伸ばしていた。閉じ込められた囚人が、光を求めるように。でもどれだけ手を伸ばしても自分の中の「何か」にには、届かなかった。

 僕は手を下ろし、目を開け、苦笑した。

 僕は何をやっているんだ。

 雨降りの日曜日はほんの少し、人をおかしくさせるのかもしれない。

 ソファーに腰掛け、何をしようかと考えていると、携帯電話が鳴った。でも僕には、その着信音が現実の空気を震わしていないように聞こえた。まるで僕の知らない世界を超えてきたように、その音は不自然だった。その不自然さで誰からの電話か、という事が分かった。

 「もしもし。」と女性の声が言った。

 「もしもし。」と僕。

 「アミだよね。」

 「正解。何で分かったの。」

 「声だよ。アミの声で分かった。」

 と僕は言ったが、それは少し違った。声そのものではなく、響き方だった。アミの声はまるで、直接会って言葉を交わしているようだった。

 「今、何してたの?」

 とアミ。アミの声は幼い子供のように、透明に響く。

 「何もしてないよ。ボーっとしてただけさ。」

 「楽しい?」

 「何が?」

 「ボーっとしてるのが。」

 「別に楽しくないよ。予定がないだけで。」

 「じゃあ、少しお話しない?」

 「もちろん良いよ。」

 それからアミといつものように、昔話をした。アミは高校の時の同級生で一、ニ年生の丸二年間付き合っていた。時々電話が掛かってきて、懐かしい思い出を共有する。

 「そうそう。それであの時何の映画を見たんだっけ?」とアミ。

 「覚えてないな。確か恋愛映画だったような気がするけど。」

 「そりゃあ覚えてないでしょうね。だってあなた寝てたんだもん。」

 「そうだったかな。」

 「そうよ。それは覚えてる。あの時は怒りを通りすぎて、私笑っちゃった。」

 と言って、まるでその時の様にアミは笑った。空気の振動がこちらに伝わるような気がした。

 「思い出したよ。きみが帽子を無くして、大泣きした時の話だろ。」と僕。

 アミの帽子は結局見つからなかった。

 「あれー。そうだったかなあー。忘れちゃった。」とわざとらしく言った。

 そうやって、とりとめの無い、でも僕達にとっては大切な、思い出話をしばらく続けた。

 「ねぇ、一つ聞いても良い?」とアミがあらたまった声で言った.

 「なに?」

 「黒野君はあの頃と、今と、何か変わったと思う。」

 アミは僕の事を「黒野君」と呼んでいた。あの頃のように名前を呼ばれると、僕は自分の心が、懐かしさに震えるのを止めることが出来なかった。

 「僕自身がって事?」

 「そう。」

 君はどうなんだ?って聞こうとしたけど、やめた。

 アミは変わっていない。

 それは僕にも、アミ自身にも分かっている事だった。

 「さすがに彼女とデートの時は、寝たりはしなくなったよ。」と僕は言った。

 「そんなんじゃないの。」アミはあきれたというよりは、悲しそうに言った。

 「もっと本質的なことよ。」

 正直言って僕はその時、質問とは全く別のことを考えていた。僕が考えていたのは、自分がどう変わったか、ということではなく、どう言えばアミを悲しませずに済むだろうという事だった。

 いや、全然変わってないよ。

 そうだなぁ、ずいぶん変わったな。

 どちらの答えをアミが求めているか僕には分からなかった。

 「変わった部分もあるし、そのままの部分も有ると思う。」と僕は言った。

 「なんだかそれは一般論の様に聞こえるわね。」

 「性格や考え方は変わってないと思う。でもその表現の仕方は変わったかもしれない。」

 「それってどういう事?」

 「大人になったっていう事さ。この考え方はこの人には合わないだろうな、とか。これを言っちゃマズイことになるな、とか。そう言う事が分かり始めたんだ。」

 「ふーん。」とアミは言った。アミは僕が言った事について、何か考えているようだった。思考の波が揺れているのを僕は感じた。

 暫くの沈黙の後、電話は突然切れた。アミの電話はいつも突然切れた。多分、電話線の番人というのが居て、ストップウォッチで時間を計っているのだ。それで時間がくるとと背中の大きな斧で電話線を切るのだ。

 プツン。

 そんな切れ方だった。

 電話が終わってしまうと、周りの空気には奇妙な沈黙が満ちていた。ドロリとした、無音の液体に体が包まれているような気がした。そこでは雨の音さえも、やけにくぐもって聞こえた。

 僕はさっきアミに言った事について考えていた。

 変わった部分もあれば、そのままの部分もある。

 それは全くの嘘ではなかったが、僕の伝えたかった事はもっと別のことだった。僕が伝えたかった事は

 君が死んでから、僕の心は磨り減り続けているんだ。

 という事だった。自分の感情や考え方を伝えないんじゃない。伝えられないのだ。何故か、伝える人がいないからだ。そうやって僕の気持ちや、思考は死んでいくのだ。そう考えると僕は、たまらなく悲しくなった。

 アミ。

 と僕は言った。

 どうして、君は僕をおいて死んでしまったんだい?

 もちろん、答えてくれる人なんて、誰一人いなかった。答えを見つけ出せる人といえば、アミを愛していた僕くらいだった。残された僕が見つけ出さないといけなかった。

 僕は首を振った。少し感傷的に成り過ぎているみたいだった。

 僕は、草薙さんに電話をかけ、今からお酒でも飲みませんかと誘ってみた。草薙さんは僕の通っている大学のOBで、フリーのカメラマンをしていた。実家が相当のお金持ちで何の不自由も無く世界中を飛び回っていた。確か今は日本に帰ってきていたはずだ。

 「お前から誘ってくるなんて珍しいな。驚いたぜ。」と草薙さんは言った。日曜日の朝からお酒を飲むことに関しては何も言わなかった。草薙さんはそういう人なのだ。

 「いいぜ、俺も暇だったからな。今から迎えに行ってやるよ。着替えて待ってな。」と言って電話を切った。

 特にお酒を飲みたいという気分ではなかったが、このまま家にいると、少しずつ自分が腐っていく気がした。それに、アミからまた電話がかかってくるのが怖かった。誰かと一緒にいれば、アミから電話がかかってくることは無かった。僕は、アミの死がもたらした変化について、まだ上手く説明することが出来なかった。

 僕は服を着替えて、草薙さんの迎えを待った。心なしか、雨音が前より強くなっているような気がした。

 しばらくすると、アパートの部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けると、草薙さんが立っていた。髪の毛が少し濡れていたが、気にしていないようだった。

 「おう、久しぶりだな。」と草薙さんが言った。

 「そうですね、三ヶ月くらいですかね。」

 「そうだな、あちこち回ってたからな。またその時の話をしてやるよ、お前聞きたいならな。」

 「ぜひ、お願いします。」

 「でも、どうしたんだ、急にお酒が飲みたいなんてお前らしくないぜ。」と言って僕の顔を覗き込んだ。草薙さんの瞳は、黒い杭が一本打ち込んでいる様に、黒く確かだった。まるでこれから自分が見るべき風景が、もうすでに映っているような気がした。

 「別に、ただお酒を飲みたくなっただけですよ、草薙さんの話も聞きたかったし。」と僕は言った。

 「そうか、なら良いんだけどな。」と言って笑った。「駅前にある店で、地下にあるんだが、そこなら朝からお酒を飲んでも嫌な感じはしないぜ。どうだ?」

 「何でも良いですよ、お酒を飲めれば。お任せします。」

 「ますます、お前らしくないな。まさか、別人じゃないよな。」

 「違いますよ。」と僕は言った。少なくとも今は違う。まだ僕は僕だ。

 「なら、行こうぜ。なんか、俺も無性に酒を飲みたくなってきちまった。」

 僕は頷いて、外に出ようとしたが、いつも履いている靴が無いことに気付いた。

 「どうかしたか。」と草薙さんがドアの外から言った。雨が彼を濡らしていた。

 「靴が無いんですよ。昨日まではあったのに。」

 「そんな事は後だって良いだろ、今は酒だ。」

 「そうですね。」と言って、僕は靴箱から別の靴を取り出して履いた。突然靴が無くなることは彼にとってはどうでも良いことなのだ。

 「バイクで来たんだが、良いよな。」と言って、ヘルメットをこちらに投げて寄越した。

 アパートの前にバイクが止めてあった。バイクについてはよく知らないが、それが相当高価な物だという事は分かった。

 草薙さんがエンジンをつけると、ドッドッっと唸り始めた。その姿は僕に洗練された肉食動物を思わせた。

 バイクにまたがると、振動が体を通じて伝わってきた。

 「飛ばすぜ。」草薙さんが格好つけて言ったが、それは本当に格好良かった。雨までもが彼を飾るアクセサリーのように見えた。

 バイクは面白いように加速していった。まだ太陽に触れていない、朝の冷たい空気が肌に気持ち良かった。細かな雨が、降り注ぐもの全ての色を鮮やかに映し変えていた。流れていく風景の中、葉の緑や、花の赤が、際立った映像を僕の中に残していった。

 信号に引っかかると、草薙さんは舌打ちをした。赤色の光が僕らを照らしていた。バイクの表面についた水滴が、赤色の光を受け、薄い血のように僕の目には映った。その事が、僕を少し落ち着かない気分にさせた。

 地下にあるバーに着いた時、僕達はずぶ濡れだった。草薙さんは良いかもしれないが、雨は僕を飾ったりはしてくれない。ただ体温を奪っていくだけだ。店員さんからタオルをもらい、僕はビールを、草薙さんはジントニックを頼んだ。

 簡単なつまみと一緒にお酒が運ばれてきて、乾杯をした。

 「何に乾杯だ?」と草薙さんが言った。

 「何の乾杯でもないですよ。お酒を飲むための、ただの通過儀礼です。」と僕は言った。

 「なるほどな。」と言って草薙さんは笑った。

 しばらく、黙ってお酒を飲んでいたが,突然草薙さんが

 「ジャーナリストってなんだと思う?」と言った。

 「何ですか、いきなり。」

 「良いから言えよ。おまえの意見が聞きたいんだ。」

 「えーと、ちょっと待ってくださいよ。事実に対する現状や意義、展望を報道する専門家って何かに載ってましたね。」

 「俺はお前の言葉で聞きたいんだ。」

 「うーん、世界を自分なりの形に切り取って、それを売る人達ですかね。」

 「自分なりって所が鋭いな。」

 「そうですか。」

 「ああ、決して中立的ではあり得ないからな。中国を批判する人はたくさんいるが、ノルウェーを批判する人はいるか?結局は好き嫌いの問題なのさ。」

 「それに、僕達、大衆は気付いていない。」

 「そういう事だな。」と言うと、草薙さんは美味そうにお酒を飲んだ。

 「でも、ある意味ではそれも必要なんじゃないですか?」と僕は言った。

 「それって何だ?」

 「ジャーナリストの意見を信じることです。それも無条件に。」

 どういう事だ、という風に草薙さんはこちらにグラスを傾けた。

 「ええと、ジャーナリストが好きに情報を伝え、僕達が好きに情報を受け取る。そうすれば、自分の世界は平和ですよ。崩れることは無い。」と僕は言った。

 「まあ、それも一つの考え方だな。」と草薙さんが言った。一つの考え方、というのは彼が良く使う言葉だった。この言葉は別に相手の意見を認めているのではなく、でも俺には俺の考え方がある、という言葉が隠されているのだ。良くも悪くも、草薙さんは自分の考え方を持っている人だった。僕はそんな彼が少しうらやましかった。

 「でもな。」と草薙さんが少し経ってから言った。

 「お前の考え方を完成させるためには一つ条件がある。自分の世界を崩さないための条件がな。」

 「何ですか?」

 「孤独であること。周りに人がいれば、お前の世界は成り立たない。」

 「まあ、そうですね。」と言って僕はビールを飲んだ。ビールはそれほどおいしくなかった。それほどビールが飲みたい訳でもなかったのだ。

 昼前になって、二人組の女性が店に入ってきた。一人は、髪の短い少し太った女性で、もう一人は、髪が長く影のようにほっそりとした女性だった。二人ともきちんとした服装をしていて、昼からお酒を飲むタイプには見えなかった。

 彼女達は入り口近くのテーブルに座った。太った女性の方がこちらをちらちらと見ていると思ったら、僕達のテーブルにやって来て

 「草薙君でしょ。」と言った。

 僕は驚いて草薙さんを見た。草薙さんは、しばらく女性の顔を見ていたが、すぐに

 「ああ。」と驚きとも、ため息ともつかない微妙な声を出し

 「翔子か。」と言った。

 「正解。」と言って彼女は微笑んだ。それはとても素敵な笑顔だった。良く彼女の顔に馴染んでいて、これまで幾度も彼女がその笑顔を繰り返してきたことが分かった。

 「紹介するよ。翔子は俺の・・・・・・」

 「元恋人よ。」と翔子さんは、草薙さんを遮って言った。

 草薙さんは苦笑して見せたが、それは僕に向けられたものではなく、翔子さんに向けられたものだった。翔子さんは悪戯っぽく笑っていた。

 そんな二人の無言の遣り取りを見ていると、この二人が本当に恋人同士だったという事が良く分かった。草薙さんに恋人がいたとは少し驚きだった。草薙さんにはガールフレンドはたくさんいるが、正式な恋人は見た事が無かった。でも、翔子さんなら釣り合いが取れているような気がした。

 でも二人のそんな親密な空気は、僕を居心地悪くさせた。その気持ちは、元恋人同士の再会に居合わせた時に感じる気まずいといった類のものではなかった。この気持ちはもっと別の何かだった。それは憧れに似た気持ちなのかもしれない。二人の放つ雰囲気やエネルギーに嫉妬しているのかもしれない。その雰囲気やエネルギーは一人ではなく、二人で、初めて生まれるものだった。

 草薙さんが何か言おうとしたが、先に翔子さんが

 「そっちの方がありがたいわね。なら私の代わりにあの娘の相手してやってくんない?」と言って、もう一人の女性の方を指差した。

 彼女はお酒には手をつけず、下を向き文庫本を読んでいた。

 「良いですよ。」と言って僕は席を立ち、彼女の居るテーブルに向かった。

 僕が彼女の向かいの席に座ると、彼女は、どうかしたの?いう風に首を傾げた。長い髪が静かに揺れ,彼女の顔にやわらかな影を遺した。

 「君の友達、翔子さんていったかな、が僕の先輩の元恋人だったらしくてさ。僕は邪魔者になっちゃったんだ。」と僕は言った。

 彼女はゆっくりと頷き、二人の居るテーブルの方を眺めた。

 二人は熱心に何かを語り合っていた。まるで恋愛映画のワンシーンを見ているような気分 「席外した方が良いですかね。」と僕は言った。

になった。

 「名前はなんていうの?」と僕は尋ねた。

 「亜季。」と彼女は言った。

 彼女の声はとても不思議な響き方をした。まるで僕の見えない何かに濾し取られたように、小さく聞き取りづらかった。

 彼女はそれだけ言うと、再び手の中に収まっている小さな文庫本に目を落とした。その文庫本は、良く着込まれた服のようにきれいに色あせ、彼女にぴったりとはまっていた。

 僕は目を閉じ、店に流れるジャズに耳を傾けた。

 彼女の前では沈黙は気詰まりなものではなかった。むしろ不用意に言葉をころがす必要がなく、気楽だった。

 まるで何かを確かめるように強く奏でられるピアノの音を聞いていると、僕は久しぶりに安らかな気持ちになることが出来た。それが彼女の側に居ることから来るものなのか、それともジャズのおかげなのか、僕には分からなかった。

 僕は音楽に集中した。流れていくメロディーを一つ一つ、自分の中に吸収していった。ピアノ、トランペット、サキソフォンの躍動的なリズムに隠された、奏者の表現イメージを掴もうとした。でもそれは簡単な事ではなかった。手で触れそうになる度、意地悪くスウィングが変わり、また最初から流れを追っていかなければならなかった。

 どのくらいそうしていただろう。僕は彼女に話し掛けられた事に気付かなかった。

 「ごめん、もう一回言ってくれないかな。」と僕はいった。

 「死ぬってどういう事だと思う?」と彼女は言った。

 僕は驚いて彼女を見つめた。彼女は真っ直ぐ僕の瞳を見ていた。彼女の瞳は非現実的な程澄んでいた。彼女の瞳を通して、彼女の内面の世界が覗けるような気がするほどだった。でもそれと同時に、彼女が僕からとても遠くの場所に在るのだという事が分かった。まるで空の上から見つめられているような気がした。

 「さあ、わからないな。僕は死んだことがないからね。」と言って僕は笑おうとしたが、上手く笑えなかった。

 彼女はまだ僕の瞳を見つめていた。まるで僕の中にある答えを見つけ出そうとするように。

 「死ぬってことがどういう事かは分からない。でも死後の世界なら分かるっていうか、想像がつく。」と僕は言った。

 「死後の世界?」と彼女は繰り返した。それは詩の一編のように静かに響いた。

 「そう。死んだ人が行く世界は、この世界と全く同じだと思うんだ。パラレルワールドみたいにね。」

 「全く同じなの?」

 「いや、一つだけ違う所がある。じゃないと自分が死んだ事が分からないからね。違う所は一つだけ。」と言って僕は指を一本立てた。

 彼女は僕の指を珍しいものでも見るかのように、見つめていた。

 「自分の愛した人がいないんだ。自分が一番いて欲しい人がその世界にはいない。つまり、死んだ人も、残された人もいる世界は同じなんだ。まあ、これは相思相愛の場合だけだけどね。」

 僕は話が終わった事を示すためにお酒を飲んだ。

 彼女は何かを確認するかのように、ゆっくりと頷いた。僕の言った事について、何か考えているようだった。

 死後の世界。

 死んだ人々。

 遺された人々。

 そういった事に思いを馳せているようだった。

 「君はどう思うの?死ぬって事。」僕は知りたかった。彼女がその澄んだ瞳で何を見てきたのかを。

 「分からないわ。だって私は死んだことがないもの。」と言って彼女は、困ったように小さく笑った。美しくそれ以上に儚い笑顔だった。まるで今にもきえてしまいそうなほどだった。

 僕は悲しくなった。彼女の笑顔は僕に今まで失ってきた美しいものたちを思い出させた。

 やさしい笑顔。

 親密な感情。

 触れる事の出来る暖かさ。

 僕は本当に大事なものを失ってきたのだ。

 気が付くと僕は泣いていた。泣いたのはアミがこの世界からいなくなった時以来だった。不思議と暖かい涙が頬を伝い流れた。

 彼女はゆっくりと手を伸ばし、僕の頬に触れ涙を拭いた。僕は反射的に彼女の手を握り締めていた。彼女の手は暖かかった。僕はそこに流れている血の事を思った。

 彼女は生きているのだ。

 彼女は瞳を閉じ、小さく首を傾げた。まるで僕の手から何かを読み取ろうとしているようだった。

 僕も彼女と同じように目を閉じてみた。まぶたの裏では、光が不可解な模様を刻んでいた。次々に変化する光の図形を眺めていると、心がゆっくりと落ち着きを取り戻した。

 僕は彼女の手を離し、

 「ごめん。」と言った。

 彼女は気にしないで、という風に首を振った。

 僕は彼女の瞳を覗きこんだ。彼女の瞳からは最初ほど非現実的な透明さは感じられなかった。代わりに、親密な輝きが浮かんでいるような気がした。

 手に触れたからだろうか。

 流れる血を感じたからだろうか。

 初めより彼女を近くに感じることが出来た。

 彼女は僕に何かを言おうとしているように見えた。でも少し迷った後、文庫本に目を落とした。

 僕は音楽を聞きながら、外を降る雨について考えていた。

 僕らの間に、優しく、穏やかな沈黙が戻ってきた。

 しばらくの間そうしていると、翔子さんが戻ってきて

 「ごめんね。すっかり邪魔しちゃったわね。」と言った。

 亜季はは母の帰りを待ち侘びていた子供のように、翔子さんの顔を見上げた。翔子さんは子供にするように、亜季の頭をぽんぽんと撫でて

 「この娘、全然喋らないからつまらなかったでしょ。」と言った。

 「いえ。」と僕は言った。

 「全然そんな事ないですよ。僕は十分・・・・・・」

 楽しかったです、と言おうとして辞めた。彼女と一緒に居る時、僕が感じていたのはそんな事じゃなかった。僕が感じていたのは懐かしさに良く似た気持ちだった。昔良く聞いていた音楽を聴き直すと当時の事を思い出すかのような、奇妙な感覚だった。でも僕はそんな感覚を言葉にすることが出来ず、

 「ええと、とにかくつまらなくなかったです。」としか言えなかった。

 「ふむ。」と翔子さんは言って、にっこりと笑った。あなたの言いたい事は分かるわ

 という風な微笑だった。

 「私達はもう帰るけど、あんたたち、これから女の子を引っ掛けようとしたって無駄だからね。」と翔子さんが言った。

 「どうしてですか。」

 「だって、私、草薙君ともう一回付き合う事にしたから。」

 「えっ。」と僕は驚いて草薙さんを見た。草薙さんはいつもと同じように、クールに首をすぼめて見せたが、顔は完全に引きつっていた。

「そういうことだから。」と翔子さんは言って店を出た。亜季は店を出る時、亜季は僕に向かって小さくお辞儀をした。

 さよなら、また会おうも言えず、僕も同じ様に小さく頭を下げた。

 彼女達が店を出ていってしまうと、店の雰囲気がガラっと変わってしまったような気がした。

 「参ったな。」と草薙さんが近づいてきて言った。

 「そうですね。」と言って僕は頷いた。

 「で、これからどうする?俺は場所を変えて飲むことにするぜ。全然飲んだ気がしないからな。」

 「僕は遠慮しときます。何だかそんな気分じゃなくなったんで。」

 草薙さんは僕の顔を覗き込んで

 「ああ、やっぱりな。」と言った。

 「やっぱり?」と僕は聞き返した。

 「翔子のせいだよ。」

 「翔子さんがどうかしたんですか?」さっぱり訳がわからなかった。

 「翔子さんは他人のエネルギーを吸い取ってしまうんだ。本人は全く気付いてないみたいだがな。」

 僕は草薙さんがそんな馬鹿らしい事を言うとは思っていなかったので、笑ってしまった。草薙さんは笑わなかった。

 「じゃあ、なんで草薙さんは大丈夫なんですか?長い間喋ってたじゃないですか。」

 「俺は免疫が出来てるからな。効かないんだ。」

 「そうですか。」と僕は納得した降りをして言った。

 僕が自分の分の代金を払おうとすると、草薙さんが

 「俺が払ってやるよ。」と言った。

 「送っていけないんだ、せめて奢らせろよな。」と言って笑った。

 僕は礼を言って店を出た。

外ではまだ雨が降っていた。外を歩く人々は皆例外なく傘を差していた。僕はその顔のない人々の間を縫う様にして、駅まで行った。雨が僕の服を濡らし、僕の体を重くしていった。

 僕は亜季に言った事について考えていた。

 死後の世界。

 最も愛する人のいないパラレルワールド。

 もし、そんな世界がこの空の上にあるなら、アミは色とりどりの魂の中、僕の灰色の魂を見つけ出すことが出来るだろうか。

 駅に着き、ベンチに座っていると駅員さんがやって来てタオルをくれた。

 「余ってんだ、持ってけよ。」と彼は言った。

 「ありがとう。」

 「えっ。」彼は聞き返した。

 「ありがとう。助かりました。」僕はさっきより大きな声で言った。

 電車は思ったより空いていた。僕の向かい側の席に若い男女がいて、楽しそうにお喋りをしていた。まるで二人にしか分からない言語で、二人にしか分からない話題を楽しんでいるようだった。

 駅で傘を買おうとしたが辞めた。ここまで濡れていたらもう同じだと思ったからだ。

 家に着くと、シャワーを浴びて少し眠った。その後、いつもの日曜日にすることをした。忙しくて読めなかった本を読み、大学での講義をまとめ、部屋の掃除をした。雨に濡れて、少し疲れていたせいかいつもより早く眠った。

 その夜、アミから電話はかかってこなかった。




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