酒快酒快
深々とした雪空の下、帰路を辿る。
閑散とした途次では、旬の過ぎた電飾が寂しげに光っていた。
そんな中を一人、買い物袋を両手にぶら下げて歩いてゆく。
日頃の喧騒はどこへやら、退廃的にすら映る街の静けさは、しかし春の訪れに向けての睡眠にも感じられた。人も眠らなければ疲れてしまうのだから、街にだって休む権利はあるといえよう。
今冬の雪景色も、いよいよ終わりを迎え、来週からは立春の暖気が出迎えるとのこと。今朝見たばかりの天気予報を思いだしながら、これまた寂れた賃貸住宅の階段を上る。
近年では逆に物珍しい、木造建築の二階建てアパルトメントだ。とはいえ、改装に次ぐ改装を経て白塗りとなった低層住宅にはこれといった風情はなく、かといって目新しさも見当たらなかった。
中途半端、無味乾燥、襤褸屋敷などといった評価を自らの住まい宿に下しつつ、節東風が肌寒い廊下を抜け、二〇六号室の扉の前で鍵を取り出す。鍵穴に鍵を通し、右に回すと、開錠を示す微かな音響の代わりに指先を伝ったのは、空気を攪拌する無音だった。
「あぁ……」
戸締りをせず大学に向かい、こんな夜更けまでわざと留守にしていたことを思い出し、真っ白な吐息と共に声が漏れる。
空き巣泥棒よろしく、こんなご時世では無防備にも程があると常識を疑われるだろうが、我が家に歓迎しているのはコソ泥ではなく、もっと面倒な輩だった。どうせ施錠しておいても水道管から昇ってくるだろうから、その面倒事を未然に避けるため敢えて開放しておいたのだ。
ドアノブを回し、肩や靴に積もった雪を払って薄暗い玄関に入る。
手探りで照明のスイッチを探し、指で弾く。すると、芒……と玄関の灯りが点され、続けて廊下から居間までの照明が続けて点灯していく。
狭い廊下の先に広がっていたのは、1LDKの六畳一間。真っ先に目に映るのは居間の中央に置かれている、実家から持ち込んだ使い古しの卓袱台だった。
そして、
「おう、帰ったか。神酒昂」
畳の上に堂々と座る先客が待ち構えていた。
この部屋の本来の主であり、帰宅したばかりの神酒昂を呼び捨てしたその先客は、卓袱台の上に置いてある木製の杯を口にし、並々と注がれた液体をぐいっと仰いだ。
(酒臭ぇ……)
むっと鼻を摘みたくなるほどの酒気に顔を顰めつつ、神酒昂は鞄を適当に放り捨てて卓袱台の前に座る。
「ほれ、坊主も飲まぬか。ここいらの気は濁を孕んでおるのでな。封を解いた酒は新鮮なうちに平らげるに限ろうぞ」
先客はそう言いつつ、既に半分を切っている酒瓶を傾けて空になったばかりの杯を並々と満たしていく。それは如何にも高級そうで気品のある日本酒であった。
「空気が悪いってんなら、ついて来なけりゃよかっただろ。実家ならいつでも旨い酒が飲めるだろうに」
神酒昂のために用意された空の杯も置いてあったが、日本酒へ手をつける気は毛頭ない。
何故なら、神酒昂は日本酒が飲めないからだ。アルコールに弱いため、度数の高い酒は当然のことながら選択肢にすら入らず、何よりも酒特有の臭気と口に含んだ時の苦味が大の苦手だった。
成人は迎えているため、人付き合いや、未成年の頃に漠然と抱いていた大人の特権への憧れから、飲酒自体はしているものの、専ら飲むのは度数が低く甘ったるい市販の酎ハイであり、ほぼほぼジュース同然といえる代物だ。
そんな神酒昂にとって、酒とは適当に飲み、適度に酔って愉しむものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
「なに、儂の酒が呑めんと言うのか!?」
「親父の真似事かよ、俺が嫌がるの分かってて、わざと言ってんだろ」
乱雑に頭を掻きながら、スーパーで買ってきた缶酎ハイを徐に取り出し、テーブルに置こうとする。
ところが、プルトップに手をつけようとした直前、いきなり飛び出してきた尻尾にするりと掠め取られ、宙を泳ぐようにして卓袱台を横断する缶酎ハイを目で追った神酒昂は眉根を寄せた。
「斯様な生気の薄い飲み物のどこが美味いのやら。器からして魂が篭もっとらんではないか」
取り返す気にもなれず、溜め息混じりに客人のしかめっ面を神酒昂は仰ぎ見た。
端的に客人の容姿を説明するならば、全長おおよそ三メートルの大蛇が、なんとか尻尾の先までを器用に丸めて六畳一間という狭い空間に屯していた。
しかし、その顎先からは立派な鬣が生えており、頭頂部には鹿のような雄々しい角、胴体から伸びる四肢の先にある爪は猛禽類を彷彿とさせる鋭さを見せつけている。
伝承上の存在でしかなく、誰の目にもまず触れない龍こそが、神酒昂の客人なのだ。
そして、そんな異形の偉容を見上げながらも、神酒昂は顔色一つ変えずに肩を竦めるだけだった。
「俺はそれが好きなんだよ」
「てんで分からぬ」
心底から理解できないといった感情が、鐘の音に似た龍の声音から発せられる。
「分からなくて結構」
龍との付き合いも長く、特に必要ともしていない金属類に手を出したがる蒐集癖は予測済みである。予備で買っておいた二本目の缶酎ハイを取り出し、何が面白いのか真剣そうにアルミ缶のラベルを凝視している龍の隙を狙ってプルトップを開ける。
炭酸の小気味良い音が響き、神酒昂は空の杯にゆっくりと酒を注いでゆく。泡が吹き零れないよう気をつけながら、慎重に、慎重に……そして、溢れる直前で缶を垂直に戻した。
僅かに香る化学薬品混じりの柑橘の香りが、鼻孔を擦る。確かに上等な酒とは欠片も呼べない代物だろうが、元より生粋の甘党であり、繊細な酒の芳香に強い拘りがあるわけでもない神酒昂にとっては、充分に馨しい一品といえた。
まずは、一口。
両手で左右対称に杯を握るその姿は、丁重を通り越して儀礼的といえたが、杯の中に注がれている酒が市販の安酒であるため、蓋を開ければ滑稽の極みともいえた。
だが、神酒昂はそんな些細なことは気にせず、口に触れた杯からゆっくりと酒を仰いでゆく。喉を伝う柑橘の爽やかな甘味と炭酸の刺激を味わうにつれ、一日の疲れをも腹の底へと洗い流してくれるかのような心地となる。
かたや、お神酒を。かたや、缶酎ハイを。
同じ木の杯を仰ぎながらも、卓袱台を境に向かい合う一人と一匹の趣は真逆であり、珍妙な様相を呈していた。しかし、無言で酒を啜るだけの間に険悪な雰囲気は無く、どちらかといえば静謐としたひと時を共に興じていた。
「のう、神酒昂」
ふと、龍が大きな口を開けた。
「これは、どう開ければよいのだ?」
龍の三本指の爪の先には、ついさっき神酒昂から奪取していた缶酎ハイが握られていた。神様として祀られている龍に老いの概念があるのかは分からないが、所縁のある純正の米と純水から作ったお神酒しか好まない筈の龍が、とうとう長年の時を経て耄碌したのかと神酒昂は胡乱な視線で見上げた。
「あんたの爪じゃ、缶ごと突き破るのが関の山だよ。貸して」
ぐい、と長い腕が伸びてきて缶酎ハイを手渡された神酒昂は、プルトップを丁寧に開けて取り外し、龍の杯へと注いでやった。先ほどとは異なる葡萄の酎ハイだ。
どうせ何かの冗談だろうと思っていた神酒昂は、並々と酎ハイが注がれた杯を龍が一目散に掴み、一気に飲み干したのを見て目を丸くした。
……そんなに、酎ハイを飲みたがっていたのだろうか?
「不味い。甘いにも程があろう」
しかし、開口一番に龍の口から紡がれた評価に神酒昂は面食らった。
「だったら、飲むなよな」
ただでさえ厳つい顔を更に険しくする龍に神酒昂は嘆息を吐いた。
嫌がらせにしては度が過ぎている。神酒昂は酔いもまだ半ばだというのに頭痛を覚えた。
「さっきも言ったけどさ。元居た場所に帰ればいいだろ。そしたら、いつでも美味い酒が飲めるし、樹木も水も都会よりずっと豊かだろうに」
神酒昂は故郷である田舎に辟易して上京してきた、よくいる大学生の一人だった。しかし、彼が辟易した理由は特異であり、自分の血筋が古式ゆかしい神社の社家であったことに起因していた。
降雨と稲を司る辰川神社は代々、その恵みを齎してくれる神様を祀っており、神様が好むとされるお神酒を酒造しては、季節の折り目に奉納をして豊穣祈願を行っていた。そして、辰川神社の神職を代々務めていた権現家は時代を経るにつれ、神社を維持する生計を立てる為にと酒造の知識を商売へも流用するようになり、明治初期に突入してからは半々で神職の道を選ばなかった子孫達の手によって、日本酒を売り出す工場をも経営するまでに発展していった。
そして、酒を巡る血筋は現代へも引き継がれてゆき、現神主である神酒昂の父親、権現神酒和が辰川神社の神主を務め、母親の権現美紀子が工場の社長を任されているといった次第。
つまり、生まれてこの方、息を吸うのと同じぐらい神酒昂は酒と縁のある生活を送ってきていたのだ。ところが酒に強い血筋を受け継いでいる筈の神酒昂は、あろうことかアルコールに非常に弱かった。
日本酒の酒造現場を遠巻きに眺めているだけでも、仄かに漂ってくる酒気に参ってしまう程で、父の神酒和は酒に強い男に育て上げようと不出来な息子に対して何度も矯正を試みたが、思春期の反抗心故に、更に神酒昂の日本酒への拒否感は増すばかりであった。
そんな神酒昂は不出来の息子として権現家の中で最も肩身が狭く、結局は長男の神酒耶が神主の跡継ぎ候補に、長女の神酒恵も母親を師匠に若くから工場務めをすることとなり、跡継ぎ問題に関しては事なきを得た。だが、余り物は腫れ物でもある。
神酒昂が成人を迎えた日、祝辞という名の最終通告としてとびきり高級且つ度数の高いお神酒を宴会の間で飲まされることとなった神酒昂は、たった一口目で拒否反応を示し、木の杯を放ると共に父の怒声を背に受けながら出家を決意したのであった。
かくして、わざわざ地元の大学を辞めてまで上京し、改めて大学生活を再開した神酒昂は平凡な一人暮らしを享受している。ところが、これまた不思議なことに酒との相性は絶望的に悪い反面、神酒昂には神職としての類稀なる素養があったのだ。
他の人には“視えない”者達が“視える”のだ。
神使から妖の類、果てには霊魂までもが視える神酒昂は、それを自分にとっての日常として受け入れながらも、物心ついた時点で自分が周りと違うということを自覚し、自分の才覚を隠して生きてきた。
ずっと昔、仏にせよ八百万にせよ、もっと人々の信心が根強かった頃は自分のような存在も多く居たとされているが、それも事実かどうかは判然とせず、逆に自然との共存の放棄や無神論者が増えたが故に視える者達が減ったのだという説にも神酒昂は懐疑的であった。
確たる証拠として、神酒昂は自然豊かな故郷を捨てるどころか、所縁ある寺院を去るような不届き者である。そんな自分に視えてしまうのだから、視えるかどうかの資質なんてくよくよ考えたところで埒が明かないといえよう。
権現家での疎外や、他の者に視えないものが視えるが故に霊感の強い変わった子という印象を学内で受けながら思春期を乗り越えてきた神酒昂は、答えを求めて懊悩するよりも、むしろ明日は明日の風が吹くを心情とする、さばさばとした青年へと成長していた。
しかし、それでも辰川神社の龍が神使としての役目を放棄してまで、自分についてきたことには頭を抱えたものだった。
『旅の伴になる方が愉快であろうし、坊主を一人にするというのも些か心配であるからな』
そう言って、頑なについてきた龍もまた、生まれ故郷を離れたに等しい。それ故、神酒昂には物心ついた頃からの付き合いである龍の同伴を拒もうにも拒む気になれず、こうして今も居候させているのだ。
とはいえ、こうして飛び出すように上京し、右も左も分からない状況で我が家に話し相手が居るというのは満更でもなかった。世間知らずはお互い様で、龍の語る話が私生活や勉学の役に立ったことは滅多に無いが、それでも他愛のない言の葉を交わすだけでも神酒昂は充足していた。
しかし、たった一つだけ分からずじまいで思い煩っていることがある。それは、龍が自らの社を抜け出した真の理由だった。
「儂はな、坊主。知りたいのだよ」
「え?」
不貞腐れ気味に放った神酒昂の問いに対し、髭を撫でつけながら龍は静かに語った。
「人の心が神から離れていったのだと、多くの者は語りよる。だが、何がしかを失ったのは短命の者達だけではなかろう。同様に、神もまた現世から離れつつあるのかもしれぬとな」
不味いと評しながらも飲み干した酎ハイの空き缶を、龍は爪に引っ掛けて弄ぶ。
「短命であるからこそ、人は変わってゆくのだ。しかし、儂がお仕えしておる龍神殿は、永い時を生きるが故に不変であらせられる。それは好いことでもあるが、社を支えてくれる人々の心までは留めておけぬ。だから、神の使いとして儂は此度の旅に同伴した。現世を知る為にな」
龍の言葉を斟酌した神酒昂は、やがて小さな溜め息を吐いた。お互い、相手の酒への好みに憎まれ口を叩いていても、考えていることが一緒だったからだ。
「なんだ、そういうことなら話が早い」
ふっと笑みを浮かべ、缶酎ハイが入っていた買い物袋とは別なもう一方の買い物袋に手を突っ込み、神酒昂は今日の為にと仕入れた代物を取り出す。
「はい、これ」
瑞々しい梨のラベルが張られた酒瓶を掲げる神酒昂に、龍は目を丸くした。
「あんた、梨好きだっただろ。だから、大学の最寄りにある酒屋さんに頼んでさ。リキュールを仕入れてきてもらったんだ」
「りきゅうる?」
「……お酒に梨を混ぜてある」
「つまり、坊主が普段飲んでおる、ちゅうはいの同類ということか?」
未だに片仮名の言葉に不慣れな龍へ苦笑しつつ、神酒昂は酒瓶の封を解く。
「まあ、同じといえば同じだけれど、これはれっきとした日本酒だから安心しなよ」
開け放たれた酒瓶から漂う酒気には、梨の芳香も仄かに混ざっていた。
「まこと、酔狂な代物であるな」
鼻孔をひくつかせる龍は、梨の匂いに惹かれている様子だ。
辰川神社の龍が酒を好むのは皆知っていても、同じぐらい梨が大好物であることを知っているのは、少なくとも権現家の中では神酒昂だけだった。必ず、お神酒と一緒に梨をお供えする神酒昂の素行を家族は訝しみ、時には気味悪がったが、それでも神酒昂は見ている此方まで微笑ましくなるほど美味しそうに梨を食らう龍の姿が気に入っていた。
「たまには、純米と純水だけの日本酒以外を飲んでみるのも悪くないだろ。それに、これぐらいなら俺にも飲めそうだし」
お神酒しか好まない癖に、神酒昂が好んで飲む安酒の缶酎ハイを飲んでみる気になった龍と同じく、神酒昂もまた興を惹かれていたのだ。あれだけ嬉しそうに梨を食い、お神酒を飲む姿を幼き日から見せられてしまっては、幾ら日本酒に不得手であろうとも好奇心が勝ってしまう。
はたして、その飲み物は美味しいのだろうかと。
喜色とはよく言ったものだと神酒昂は思う。喜びの感情にも色彩があり、他人の笑顔とは絵画であり鏡。ひとたび感化されれば、次は此方にも絵の具の筆先が奔る。
晩冬は春の芽吹きを待ち侘びて、皆が一休みをする時分だ。年度の境目でもあり、立春を過ぎれば窓を叩く冷たい節東風も、晴れやかな雲雀東風へと変わってゆく。季節の巡りはかくも早く、ともすれば龍が言わんとしている人の移り変わりもまた、渓流の川の流れに等しいのかもしれない。
元はといえば、酒を悪因として出家した神酒昂であったが、まさしく荒波に流されるようにして上京し、てんやわんやと過ごしてきた生活は地方民にとって全てが未知数であり、渡ってきた川を振り返る暇すら無かった。そんな中でも、神酒昂が舵を見失わずに済んだのは、偏に酒を奇縁として巡り合った龍にある。
だから、折を見て飲み交わそうと決めていたのだ。たまには急流から離れ、旅の伴と湖畔に揺蕩ってみるのも悪くはないと。
「さ、飲もう」
龍の杯にほんのり緑色がかった日本酒を注ぎ、視線で促す。ごくり、と生唾を呑む音が響き、果実酒の芳香を充分に堪能していた龍は、その杯を前腕で掴んだ。
対する神酒昂もまた、自分の杯へ日本酒をゆっくりと注いだ。
そして、互いの木の杯を軽く打ちつける。
――こつん。
六畳一間の一室に響いた乾杯の音は橦木を連想させ、辰川神社の鐘の音を思い出し、ふと望郷の念が過ぎる。酒気につられて、社の木々と金属とお香の匂いが胸中に蘇るかのようだった。
柄にもない、という苦笑と共に過去を引き連れ、神酒昂は日本酒を仰ぐ。
まずは、恐る恐ると一口含み、吟味する。神酒昂が苦手とする舌がひりつく辛さは梨の甘味によって中和されており、喉を焼くしつこさも感じられなかった。代わりに、梨だけではまず引き出せないであろう不思議な風味が舌を下って喉を伝い、ゆるりゆるりと浸透していった。
――美味い。
思わず、頬が蕩けそうになるような柔らかな味がお気に召した神酒昂は、日本酒への抵抗感を忘れて二口、三口と続けて口をつけていった。酒瓶の底には磨り潰した梨の果肉がぎっしりと沈んでおり、芳醇な日本酒と共に新鮮な果肉を頂くのも乙なものだった。
龍の方を見やると、あちらもまた大層嬉しそうに破顔して杯を傾けていた。
喉越し豊かな梨の果実酒は非常に飲みやすく、みるみるうちに無くなっていく。そこに口数は皆無であり、神酒昂と龍はただ酒を飲み交わすのみだった。
しかし、声にして語らずとも充分に好い宴だと、龍の表情がしかと物語っていた。
神酒昂にとって、酒とは適当に飲み、適度に酔って愉しむものである。故に、お供え物として捧げるお神酒に対しても、畏敬や祈願の念は二の次三の次であり、第一に飲酒を愉しめているかどうかが肝要であった。いくら良い品を贈呈しようとも、相手が喜んでくれなければどんな我楽多よりも劣るといえよう。
そんな、幼少から抱いていたお神酒への素朴な疑念を神酒昂は思い出す。
『酒は当然、好きに決まっておろう』
振り返ってみれば、あれが初めて視えた日だったかもしれない。
『とはいえ、日頃同じものだけ嗜むのも飽く。つまみの一品でもあれば、儂も、龍神殿もお喜びになられるのだがのう』
だから、神酒昂は聞いたのだった。龍に他の好物は無いのかと。
『久しく食うてないが、梨が好きだ。龍は梨が好きと相場が決まっておるのだよ』
それから、神酒昂はお神酒のつまみに梨を渡すようになり、龍と縁を結ぶこととなった。
懐かしく、遠き日の思い出。だが、眼前に座す龍の姿は今も昔も変わらない。そして自分もまた、姿は変われど根っこは変わっていない。酒は愉しむものという確たる心根は、あの日あの時に刻まれたのだろう。ともすれば、酒が好きで在り続けられたのも、そのおかげといえる。
自分の好みを知らねば酒は愉しめず、また、相手の好みを知らねば酒で他者を愉しませることもできない。であれば、時にはこうして普段嗜まない酒と接してみるのも悪くないと神酒昂は頬を緩めた。もしも好奇心を働かせていなければ、こうして自分でも味わえる日本酒に巡り合うことも、純水純米の日本酒以外で笑む龍の面貌を拝むことも決して無かっただろうから。
しかし、日本酒はどう足掻いても日本酒である。
後日、爽やかな味が災いし、自分の許容量を理解しなかった神酒昂が二日酔いになったのは言うまでもない。
挑戦には、大なり小なり火傷も付き物である。次からは気をつけようと、肝に銘じる神酒昂なのであった。
注:
作中に登場する梨には新高を利用。収穫時期は秋頃とやや遅い代わりに日持ちがよい品種であり、旬の時期でなくとも美味しく頂ける。また、『東遊記』によれば、信州の戸隠山の洞穴に住む九頭竜権現は梨が大好物であり、願いごとのある者は洞穴へ梨を投じて祈念していたという。しかし、なぜ梨が好きなのか具体的な理由は謎である。