紅葉落ちれば、積日の。
昔のことだ。日常に埋もれてしまいそうなほどに小さな記憶。他のことはぼやけてしまっても、覚えている記憶。
それは冬の夜。空気はとても澄んでいて、嫌になるくらい晴れていた。星は二人を彩るように明るく輝いていた。眩しくて、尊い今が、綺麗な思い出になってしまう気がして、目を逸らした。
隣には彼女がいて、まばゆい空を見上げている。彼女は寒さに赤く染められた指先を、また塗りかえすみたいに白い息を吐きかけて、瞳に宇宙を描いていた。その姿があまりにも完成されていたから、気まずくなって俯いた。
はぁ、と息が漏れるたび、心が跳ねるのを感じる。その鼓動も、もうすぐ感じられなくなるんだと思うと、涙が出そうだった。
「……ねぇ、もし、もしもだよ」
躊躇いがちに、彼女が言った。冬の夜と同じくらい澄んだ声。
何も返すことが出来なくて、ただ黙って、その声を聞いていた。
彼女はこちらに視線もくれず、星を望んで、続ける。
「離れたくない、って。ずっと一緒にいたいって言ったら、どうする?」
そんな、弱音みたいなことを。叶わない願望を口に出すのを、初めて聞いたから驚いて。
――だから。あのとき、咄嗟に言葉が出なかったことを、後悔しているんだ。
「なんて、冗談だよ。お家の都合だから……仕方ないよね」
彼女はすぐに笑顔になったから、心を推し量ることは出来なくて、きっと、星だけがそれを見ていた。
複雑な心境を、まだ幼い二人は曖昧に笑って誤魔化して、無理矢理いい思い出にしようとして。それ以上話すことが出来なかったから、だから、今でも覚えている。
これは、初恋なんかじゃない。ただ、白い指先も星の夜もあの笑顔も。綺麗に終わろうとして、終われなかったあの風景を。全部全部、忘れられなかった。
それだけの話だ。
◇
季節は巡る。雪は溶けて花になり、花は散って命が芽吹く。この高等学校にも、平等に春が来た。とはいえ、五月も後半だ。桜はもう散ってしまった。今、緑は夏に向けて、生きることに精一杯になっている。
この教室もそう。はしゃいだゴールデンウィークを引きずって、夏休みは誰と思い出を作ろうかと、春の陽気に浮かされている。僕以外は。
いつものように自分に溜息を吐いて窓から空を見上げる。視界の端で木々が揺れる。葉擦れの音は聞こえず、耳に届くのは数多の声が合成された、ざわざわとした騒音だけ。僕に話しかける人はいない。当然だ。僕はそうやって、人から逃げるようにして高校生活を過ごしてきたのだから。
小さいころから、人とどう話せばいいのかわからなかった。口に出した言葉は正解なのか、そもそも正解などあるのか。何もかもが僕には理解出来なくて、だから諦めて、意識を空に逃がして生きてきた。
結果として、僕はますます会話が苦手になった。それでいい。元々、僕は人を楽しませることが出来ないのだ。僕の話を聞いて、笑ってくれたのはあの子ぐらいのものだ。
しかし不思議なもので、長くひとりでいると聞き耳を立てるのが上手くなるらしい。勝手にざわめきが分解されて、一つの話題を拾うのだ。今であれば、前の席の生徒たちが言う、転校生の噂とか。職員室に見覚えのない生徒が入って行ったと騒いでいる。
よくそれで盛り上がれるな、と思う。彼らはいつも主観の大いに混じったゴシップを垂れ流す。真偽もわからないうちから、ご苦労なものだ。
僕が聞き流す態勢に移ろうとしたとき、がらり、と教室のドアが開いた。生徒たちは慌てて席へと戻りだし、教室の中は音量を一つ下げられた。八時四十五分のホームルーム。担任はいつも通り、時間を守ることにご執心らしい。
生徒を静める常套句が耳から抜けていく。やっと静かになったから、僕は耳を済ませて、葉擦れの音を拾おうとした。
外は嫌になるぐらい晴れていて、陽射しが少し眩しい。今日もそんな他愛のないことを思いながら、一日を仕方なく過ごすんだと思っていた。
――変化というのは、心構えしていないときに限って始まるのだと、どうして忘れていたのだろう。
担任が気の抜けた声で、転校生を紹介すると言った。噂を話した生徒たちが、得意げなアイコンタクトを交わした。僕は、あぁ今回は本当だったのか、と感心しながら、開く扉に目を向けた。またうるさくなるんだろうと溜息を吐いて。
でも、そうはならなかった。吐いた息をすぐに呑むことになった。
流れはじめた澄んだ空気に、僕たちは動くことすら許されなかった。消音された舞台で、風さえも触れたくなるような長い髪がふわりと揺れた。
色の薄い、アーモンド型の琥珀の瞳が光を返して、直視出来ないほどに眩しい。
ぱちりと一つ瞬きをすると、ほんのり紅潮した頬を冷ますように深呼吸をした。手にとったチョークが喜んで、黒板に行儀のいい文字列を描いた。
「……桜小路、奏、です。どうぞ気軽に、奏と呼んでください」
心地のよい、清らかな声が響く。それだけで、教室が木漏れ日の降り注ぐ森林になったようだった。桜小路奏と名乗った転校生は、少し緊張しながらも、柔和な、全てを許すような、花の微笑みを浮かべていた。
「よろしく、お願いします」
丁寧な礼に奪われていたのは数秒。担任のわざとらしい咳払いで、全員が思考を取り戻した。それでも担任の口にする、親の都合で、どこそこの高校から、仲良くするように、なんて定型文は全部すり抜けていくようだった。
皆の注目することは、転校生がどこの席に座るのかというただ一つ。促されて席に座るまで、〝桜小路奏〟から視線が外れた生徒はおそらくいなかった。僕だって、少し照れたような笑いを零すのをこの目で見ていた。
でも、僕が見ていた理由は、きっと、皆と違ったものだった。どうしてここに、と、随分動かしていなかった喉が震えた。
桜小路奏――カナ。その名前に、僕はひどく聞き覚えがあった。忘れることなんかない。人生で唯一、親友だったと言える人だ。小学生のときにどこか遠くへ引っ越してから、連絡が取れなかった。取ることが出来なかった。もう会えないと、会わないと思っていた。戻ってきたのか。
座った廊下側の席で、カナは胸を撫で下ろした。連絡事項を聞き流しているうちにチャイムが鳴って、人々が動きを取り戻した。砂糖を見つけたアリのように、人々は転校生を取り囲んだ。
僕はそれを合図に、目を閉じて深く息を吐いた。そして、抱いた心を全て否定するみたいに、窓へ向いた。
桜小路奏が、転校生がカナだったとして、一体なんだというのか。僕の生き方は変わらない。僕が勝手に親友だと思っていただけで、カナからしたら僕はただの同級生だろう。僕のことを覚えてなんかいないだろう。だから、何かが変わるわけでもない。
意識が空に浮かぶ寸前、廊下側から、視線を感じた気がした。きっと、気のせいだ。
◇
五月は遠のいて、緑は恵みの雨を喜びはじめている。梅雨の到来だ。
桜小路奏は、すぐにクラスに馴染んだ。転校生ということもあるだろうが、やはり人柄がいいのだろう。初見の雰囲気とは裏腹に話しやすく、頼みごとにも嫌な顔ひとつ見せようとしない。
話してみれば性格は穏やかで、例えるならば綿菓子のような、あるいはカスミソウのような人なのだ。カナはわずかな期間で、クラスの中心的な存在になっていた。
僕はといえば、同じだ。ときおり耳から入ってくる情報を咀嚼しながら、空模様を眺めている。この時期は淡く本を読む。空が雨雲で染まってしまうから、視覚よりも聴覚で感じた方がいいのだ。
図書室は静かだ。ある音と言えば、せいぜい頁を捲る音と足音くらいで、はしゃいだ音が入ってくることはない。
明日からは何を読もうか。僕は図書室の中で雨音を感じながら書架を見る。特に読むものにこだわりはない。耳を澄ませるための道具だから、視覚を誤魔化せればいい。ただ、静かな文が好みだった。
感覚で抜き取った文学作品をいくつか、窓際の隅の席へ置く。草木に打ちつけ
られた雨粒が、音を奏でている。頁を捲りながら、僕は音に没頭するのだ。
どのくらい経っただろうか。いつのまにか、司書は隣の部屋に引っ込んだようだ。手元の本は読み終わってしまった。最初の数頁だけ読むつもりが、集中し過ぎてしまったらしい。しかし、これは雨と相性がいい。借りて、もう一度読みなおそう。
僕が余韻から解放されて、司書を呼ぼうと立ち上がる寸前、控えめに入り口の扉が開いた。
――入ってきたのは、カナだった。どうしてここに、なんて理不尽な疑問が頭を通り過ぎる前に目が合った。カナはぱちりと瞬きをして、ほっとした顔をした。僕はそれがなぜだかわからなくて、どうしてか冷や汗が流れそうだった。カナが口を開く。
「あの、カズキ……さん、ですよね」
それは確かに僕のことだ。けれど、カナからそう呼ばれると、他人のことのようだった。事務的ではない会話をする脳は錆びついていて、必死に頭を回しても何も出てこない。結局、僕は考えうる限り最悪な肯定を返した。
「そう、だけど」
カナは昔のように微笑んで、冷やかになった返事を受け止めた。
「よかった、話したかったんです。えっと、間違いだったらごめんなさい、わかるかなぁ、小学生のころに」
楽しげに話しかけてくるカナ。そこには懐古と、再会の喜びが浮かんでいる。
覚えて、いたのか。僕は湧き上がる想いと共に、胸のあたりに何か汚泥のようなものが溜まっていくのを感じた。自分でもわからない感情に突き動かされて、息を吸って、早くこの会話を終わらせようと遮った。雨が降っている。
「君のことは知ってるよ。桜小路奏。転校生だろう?」
「あ、はい。いえ、でもあの」
「それ以外は知らない、人違いだと思うよ」
拒絶の意志を込めて声をぶつけると、カナは曖昧に笑って、言葉を探すように指を組んだ。その癖は、傷ついているときに出るものだと僕は知っている。震えそうな指先を押し込めて、誤魔化すものだと知っている。
「えと、忘れ……だとしても話ぐらいは」
心に突き刺さる声でカナは言う。控え目でも意志がある子だと僕は知っているから、非常に面倒だとでもいうように、大きく溜息を吐いた。
「僕は知らないって言ってる、話す気もない。そもそもここは話すための場所じゃない。用があるなら司書は呼べば来るよ。もう遅いから早く帰った方がいいんじゃないかな。僕も帰るから」
矢継ぎ早に捲し立てて、乱暴に鞄へ本を詰める。カナは言葉を無理やり飲まされて、何も言わずに僕を見つめていた。早く空気を吸いたい一心で、僕はカナの横を通り抜けて図書室から出る。
「じゃあね、転校生」
待って、と言われる前に否定の意志を吐き捨てて、僕はその場を逃げるように立ち去った。気分はすでに最悪で、今すぐ消えたいぐらいだった。
去り際、一瞬だけ見えたカナの瞳は、縋りつくような色をしていた。脳裏に焼きつこうとするそれを、振り払うように足を動かした。
僕は、これ以外の生き方を知らない。だから、君のことだって知らない。変わらないし変われない。変わる必要もない。
正面玄関へ近づくたび、雨音は徐々に強さを増していく。同じように、僕の中の汚泥も増していった。
「……あぁ、クソッ」
色んな感情が綯い交ぜになって、水溜りが跳ねるのも気にせず走って。
鞄の中で貸出カードが寂しそうなのは気づいていたけれど、足は止まらなかった。
◇
夏は嫌いだ。どこもかしこも活気に溢れていて、陽射しで潰れそうになる。
次の日に本を返してから、僕は一度も図書室へ入らなかった。少し退屈なものだが、家にも本はあるのだし、雨を感じるのはそれで十分だった。それよりも、カナと話したくなかった。
カナはときおり、何かを言いたげに視線を投げかけてくるけれど、休み時間のたびに誰かに話しかけられるから避けることは難しくなかった。
そうして梅雨が過ぎ、夏が来て、夏季休暇になった。学業から解放された同級生たちは精力的に夏を楽しむらしく、それはカナも例外ではない。教室で、なんども遊びに誘われていた。
だが、まぁ、僕はそれほど外に出る予定もなかった。当たり前だ。友人と呼べるものはいないのだから。
特にやることもない長期休暇なんて、煩わしいだけのものだ。余計なことまで考えてしまう。冷房の効いた部屋に篭っていてもなお差し込んでくる光のせいで、なおさら。
天井を見ながら、僕は寝転がったベッドのシーツを握る。階下から音が聞こえないから、両親はすでに仕事へ行ったのだろう。部屋から出なくとも特に心配はされない。満点を取っていれば何も言わないというのを、僕はすでに学んでいる。
彼らが気にすることは世間体と、僕の成績にある五段階評価、それと定期考査の点数だけだ。それが、当たり前だ。
だから、だろうか。僕がとても臆病なのは。百点を褒めもしないくせに、九十九点を執拗に嫌う。なぜ出来ないのか、と訊かれても返す言葉なんてない。出来なかったのが結果で、その理由は全て言いわけになるから。
だから、僕は諦めたんだ。中学生のころまでは、まだ頑張ろうとしていた。でも、ダメだった。波長が合う人物もいたし、友人にもなれたかもしれないけれど。人間関係じゃ僕は失敗続きで、頭を悩ませているうちに知識は抜けて、点が取れずに怒られて。
僕はそうしてわかったはずだ。きちんとした正解のない〝人〟よりも、解答があるテストの方が失敗しない。限られた時間を費やすならば、効率のいい方を選ぶべきだと。
目を閉じて深呼吸をした。瞼を抜けて入り込む光が鬱陶しくて、腕でそれを遮った。
――カナを見ていると、気持ちが揺れるんだ。カナが転校するときだって、僕は選択を間違ったのだと思っている。でも、いつだってカナは笑顔で受け止めるから、赦された気分になるんだ。
諦めたはずのものが手に入る気がして、そのたびに僕には無理だと諦めて、そんな自分が嫌で。
「死にたく、なる……」
冷房から出た風が足先に当たって、寒かった。自分の殻に閉じこもるように、布団を抱きしめて丸くなった。
そう、諦めるんだ。赦されるなんて幻覚だから、僕は完璧になれないのだから、せめて出来ることだけはやらなくちゃいけない。
暗闇が、心のうちにある泥に似ていた。底なし沼に沈んでいくように、僕は微睡みへ落ちていく。
「……だから、夏は嫌いなんだ」
こんなこと、日々をやり過ごしていれば考えないのに。そうだ。最近空を見ていないからダメなんだ。どうせ今夜は眠れない。気分転換に夜空でも見に行けば、いつも通りの、今までの僕に戻れる。
きっと、そのはずだ。
くぐもった呟きは、溺れているように聞こえた。
◇
星はいつも空にあるけど、それに人が気づけるのは夜だけだ。
まだ昼間の熱気を引きずって、纏わりつくような空気があたりを覆っていた。今日は寝苦しい夜なのだろう。外から人の声は消えて、じりじりと虫だけが鳴いている。
僕はそっと家を抜けだして、外に出ていた。こうして誰もいない道を歩いていると、世界に自分ひとりだけみたいだ。家々の灯は消えて、とても静かで、心地がいい。
空を見上げれば、街灯や電線の隙間から星々が顔を覗かせる。自然に、頭の奥から力が抜ける。
夏は嫌いだ。だけどこの夜空だけは、晴れていても僕を落ち着かせてくれる。
清らかな空気を吸いたくて、端に映る人工物が邪魔で、一歩、また一歩と足を進める。星に誘われるように、月に導かれるように。
そうして着く先がどこかというのは知っていた。少しずつ歩く道に草木が増える。そこは特別な場所だ。誰にも邪魔されず、ずっと空へ飛ぶための場所。平坦な道は坂になって、僕はその先の階段を昇る。血がめぐって、呼吸の回数が増える。最後の一段を登って、息を整えた。
そこは、背の高い草が占領する野原だった。木々は少し遠くに追いやられて、遠慮がちに一等星を眺めている。大気はひどく澄んでいて、空は瑠璃色に包まれていた。
服が汚れるのも構わずに草の上に横たわると、視界が全て緑と空に埋め尽くされて、心が穏やかになった。ちくりとした痛みが敷いた草から返ってきたが、それもやがて気にならなくなる。
僕はしばらく、そのままぼうっと夜空を眺めていた。さらさらと、草木の揺れる音がする。
そう、これでいいんだ。ひとりで、自然に包まれて、穏やかで、静かで。隣に誰かがいなくとも、星は綺麗なんだから。天の川と夏の大三角が僕を覗き込んでいた。ちょうど、あのころのように。
「鷲座が織姫で、こと座が彦星なんだっけ」
投げられた声に、僕は苦笑しながら答えた。
「違うよ、それじゃおかしいだろう。織姫はこと座のベガ。彦星は鷲座のアルタイル――」
今、僕は誰と喋ったのだろうか。隣に気配を感じて、ばっと起き上がる。ちぎれた草の先端が落ちた。
「やっぱり、知らないことないじゃない、ですか」
――淡い光に照らされて、カナの瞳が僕を映していた。そよ風が揺らしたと思った音は、どうやらカナが鳴らしたらしい。今すぐにでも逃げだしたかったけど、カナの瞳がそれを許してくれなかった。僕は目をそらして言葉を零す。
「どうして、ここにいるの」
聞きたいことではないだろう、明らかに話題をそらすためだけのそれを、カナは仕方なさそうに拾った。
「通ってれば、いつか来るかなと思ったんです。小学校のころは、何かあれば二人でここに来たから」
「通う、って……いつから?」
何を言っているのかわからなくて疑問を返せば、曖昧に笑って、髪の毛を指先で弄ぶのが見えた。あれは、気まずいときの癖だ。胸が締めつけられる。
「図書館で話してから。夏休みは毎日……それぐらいしないと会えないかなぁって。間違ってなくて、よかった」
馬鹿らしいと思った。僕なんかに会うためにそんなことをするなんて、到底理解が出来なかった。でも、カナはそういう子供だった気がする。
間違ってないよね、と確認してくるカナに、僕は俯いて、下唇を噛んだ。それが答えになった。カナは少しほっとして力を抜いて、それと同じに、心配そうに僕を見た。夜風が髪に触れた。
「……ねぇ、何かしたかなぁ」
昔みたいに、間延びした口調。懐かしくて懐かしくて、死にそうになる。
カナが悪いことなんて、何一つない。そう言おうとしたけど、言葉にしてしまえばせき止めている何かが決壊してしまいそうで、何も言えなかった。一つ語らうそのたびに、心に淡い光が差し込むようだった。星に手が届くことなどないのに。
口を閉ざした僕に、カナは笑う。心臓を、指先で探られる感覚。カナはふと真剣な顔をして口を開く。瞳には星が映り込んで、眩く煌めいていた。
「ねぇ、あのさ、もし。もしも」
星が僕を見つめる。真正面から、きらきらと。
「もう離れたくない、って。昔みたいに、ずっと一緒にいたいって言ったら、どうする?」
――それは、聞き覚えのある言葉で。自分の喉から、ぁ、と小さな声が出た。それをきっかけに、箱が割れるような感覚がして、僕の心は決壊した。
「……でき、ない」
僕には余裕がなくて、光と濁流が胸の中をかき回していて、僕の決めた〝僕〟が何かに塗りかえてしまわれそうで。
「昔とは、違うんだよ。僕らはもう子供じゃないし、役割も進む道もすぐに別れるんだ。だから」
そんなことは出来ない。無理だ、と必死に自分を保とうとして、でも、見つめる瞳にそれ以上は言えなかった。カナは少しもそらさずに、瞳を僕に向けて言う。
「それでも、だよ」
「ッ……」
声が突き刺さって、瞳に見透かされて、ぐちゃぐちゃになって、逃げられなくて、逃げたくて。僕は。僕は。
「今の僕を知りもしないくせに! 都合のいいことを言わないで!」
舌を噛みちぎりそうな衝動をそのままに、心が泣き叫んだ。呼吸するのが嫌になる。苦しくて仕方がなくて、今すぐに肺を吐き出したくて、自分のことしか見えなくて。
だから、手を握られるまで、カナの手が震えていることに気づかなかった。風が吹く。
「俺は、知ってるよ、〝沙夜〟」
――カナが、僕の、〝香月沙夜〟の名前を呼んだ。昔のような笑顔と、優しい声で。
「沙夜は嫌なことがあると空を見てるんだ」
震える手からぬくもりを感じる。
「冷たく見えるけど実は寂しがり屋で、人の話をよく聞いてる」
心に溜まったものが全て押し流されて、ひとつになろうとしている。
「俺が知らないようなこといっぱい知ってて、だから溜め込んで、吐き出せなくなってね」
カナが言う。真剣に、真面目に、恥ずかしくなるようなことを、僕に言い聞かせるみたいに。
「知ってる? 沙夜は思いの代わりに息を吐くんだ。俺は知ってる」
その顔を星が照らしている。
「沙夜には誰かが必要だと思うんだ。だから、だからね」
草木が揺れる。
「それを俺が出来るなら。今更だけど、俺も沙夜と離れたくないから」
目の端についた水滴が光を反射して、言葉の端々が震えはじめた。
「一緒に、いようよ。昔みたいに、一緒に」
暖かい涙が、僕とカナの頬を伝う。それは星屑みたいに落ちて散って、何も言えない僕は答えの代わりに抱き着いて、二人は再会した。
◇
冬は春へ移り、夏が過ぎれば秋が来る。しかし、人は季節のようにそう簡単には変われない。逆の立場で問いかけられて、数年越しに馬鹿げた問いの答えを見つけても。
けれど、変われない、変わらないからこそ、得られるものもあるのだろう。人はそうして何かを得て、変われないことを受け入れたときに、はじめて変化が訪れるのだと思う。
「あのさぁ、カナ」
夕暮れどき。僕は秋の寒さが入ってこないように教室の窓を閉めて、隣のカナに話しかける。
「何、どうしたの沙夜」
カナは読んでいた本から視線を上げて、笑顔で僕を見る。
「大したことじゃないけどさ。君、僕なんかに構ってて何も言われないの」
あの日からカナは僕と一緒にいる時間が増えた。四六時中と言っても過言ではなく、それは春の様子からは想像出来ないものだっただろう。
カナは、んー、と数秒考えて、にっこり笑って言った。
「大丈夫だよ。説明してあるから。沙夜と俺は幼なじみで、最近仲直りして、ずっと一緒にいることにした、って」
不安で仕方がない。カナは人気者だし、顔も整っているから要らぬ嫉妬を招くんじゃないだろうか。思わず溜息を吐く。
「大丈夫ならいいんだけどさ。……それにしてもそこだけ聞くと」
プロポーズしたみたいだな、と口の中で呟いたら、なぜだかすごく恥ずかしくなった。頬も耳も熱を持って、聞いたことのない鼓動が鳴っている。
カナが、心配そうにこちらを覗き込んだ。
「どうしたの? 風邪?」
「い、や……なんでもないよ」
深呼吸して、外を見る。これは一体、どういうものなのだろう。なんだか僕が僕じゃなくなるような予感がするのに、それが案外悪くないんじゃないかと思っている。これは一体、なんと呼んだらいいのだろう。
窓の外では、紅葉が秋風に攫われていた。落ちて積もった葉と共に、少しの距離を前へ進んだ。
次の冬が来る前に、この気持ちの名は見つかるだろうか。
夏に生き抜き、秋に死にゆく。それは、嫌いな自分も同じのようで。
・香月沙夜
僕っ娘。本編の視点主。自己肯定感が低く、自分が嫌い。
すぐに虚勢を張ってしまう、不器用な寂しがり屋。
完璧主義の両親の影響で、人付き合いを諦めていた。
一人称は人避けと、両親へのささやかな抵抗。
転校してしまう奏に弱音を吐いてしまったことを気にしている。
再会してからは少しだけ険が取れ、人と話すようになった。
最近は奏のことを凄く意識してしまうのが悩み。
・桜小路奏
プロローグの視点主。中性的な顔立ちで、男の子にしては髪が長い。
少し抜けたところのある、けれど一途で、必死で、頑固な青年。人好きのする性格。
一人称は俺だが、あまり一人称を使わない。
初対面の人とは砕けた敬語で喋るが、素は間延びした子供っぽい口調。
沙夜とは幼馴染。小学校のときに親の都合で転校して、高校で地元に帰って来た。
転校前日、沙夜の言葉に何も返せなかったことを気にしている。
再会してからは会えなかった時間を埋めるように、沙夜にべったりくっついている。
沙夜のことを何よりも大切に思っているが、恋愛感情は無い。あるいは、まったく意識していない。