6 優しい笑顔と醜い心
花嫁が婚礼の日に着るドレスは、一生で一番美しいドレスだ。
貴族の令嬢なら、夫婦揃って出かける舞踏会などでもっと美しいドレスを着ることがあるかもしれない。
でも庶民の娘は、婚礼の日に一生のうち一番美しく装う。
財布事情が許す最上の布地を買い、夫となる人から贈られたレースや宝石を飾り、普段着では制約されてしまう贅沢を心ゆくまで楽しむ。
一生に一度だけの贅沢だ。
そんな贅沢の極みである婚礼衣装ばかりが並ぶ店内は、正直に言って別世界のようだった。
「きれい……」
さっきから同じ言葉ばかりをつぶやいてしまう。
それにため息が何度も何度ももれてしまって、ジョシュア様に笑われてしまった。
「きれい以外の感想は?」
「他の言葉なんて思いつかないわ」
「それは困ったな。全く参考にならないね。これが好きとか、こんなドレスが着たいとか、そう言う言葉が聞きたかったんだけど」
笑いながらの言葉は、いつも通りにも聞こえるし、とても意味深にも聞こえる。
胸が痛むのに、つい高鳴ってしまう心を誤魔化そうと、私は何か言い返そうとした。でも口を開きかけた時、近くから女の人の甘い笑い声が聞こえてとっさに言葉を飲み込んでしまった。
「ジョシュア様。お若いお嬢さんに無理を言ってはいけませんわよ」
「おや、ミアリーナ……ではなくて、ここではフライム先生か。あなたも来ていたんだね」
「私の末の弟の結婚式の参考にさせてもらおうと思いまして。ああ、でもジョシュア様、本家にはまだ内緒にしていてくださいな。弟はまだプロポーズを成功させていませんのよ」
いつの間にか近くにいたフライム先生は、私に軽く会釈をしてからジョシュア様ににっこりと笑いかけた。
私のレース編みの先生で、未亡人のフライム先生は今日もとてもおきれいだ。もう三十代半ばくらいと思うけれど、少し首を傾げながら唇に指を当てる仕草は可愛らしく、その上とても色っぽい。
そんなフライム先生に、ジョシュア様は大袈裟に眉を動かして悩むふりをしてみせ、それから笑った。
笑い合うジョシュア様とフライム先生は幼馴染でもあるらしいけれど、並んで立っているとよく似ている。二人のプラチナブロンドの色合いがそっくりだから、特にそう見える。
やはり、同じ血が流れているのだ。
そう思うと同時に、二人で並んで立っている姿に全く違和感がないことに気づいてしまう。
二人ともすらりと背が高くて、年頃も近い。
フライム先生の方が少し年上だけれど、ジョシュア様も三十歳の立派な大人の男性だからちょうどいい。
フライム先生だけではない。
ジョシュア様は三十歳前後の女性と一緒にいることが多いのは、やはり年齢が近いからだろう。
そんな二人に店員さんが近付いてきて、ジョシュア様に何事かを耳打ちした。
ジョシュア様の耳元で囁き、ジョシュア様も何か囁き返している。店員さんは何度か頷いていたけれど、私の方へちらりと目を向けた。それから足先から頭までを覚えていくように見る。
しばらく無言で目を動かして店員は、やがて笑いながら何かを小声で言ったようだ。
すると、ジョシュア様はとても優しい顔で笑った。隣にいたフライム先生もくすくすと笑う。
トクンと胸が鳴る。
そのまま、胸がズキズキと痛み始めた。
私にだけ向けられると思ってきた、寛いだお顔。
あの笑顔を、他の女性に向けて欲しくない。
ずっと妹でいるから。
子供扱いされてもいいから。
……あの笑顔が、私だけのものだったらいいのに……!
「……先に、店の外に出ているわ」
「リィナちゃん?」
「フライム先生がいらっしゃれば、変な目で見られる心配はないでしょう? 店の外に、今日限定の果物ジュースを売っている出店があったのが気になっているのよ。椅子もあったし、飲みながら待っているわね」
嵐のような感情を押し殺し、私は手をひらひらと振って、そのまま店の外へと向かう。
花嫁衣装がずらりと並んでいる広い部屋から出て、広い階段を降りて、店の外へと繋がる立派なドアをくぐる。
途端に祭り特有の喧騒に包まれて、私は一瞬足を止めた。
きらびやかで、品の良い静寂の満ちた贅沢な空間から出てきたから、いろいろな人々が行き交う通りの熱気に圧倒される。でも、今の私にはそんな雑踏がありがたい。
余計なことを考えてしまわないように、私は一番人が集まっているところへと足を踏み出した。
でも気がつくと人の流れに押されてしまい、口実に使った果実ジュースの店が遠のいてしまった。
本当に少し気になっていた私は、しまったと慌ててしまった。でも人の流れに体を押され、引き返すことも、流れから逃れることもできなくなった。
この流れはどこに向かうのだろう。
私は肩を押されながら、少し伸び上がった。
どうやら、祭りで集まった芸人たちのステージに向かっているようだ。ジョシュア様と一緒に行きたいと思っていた方向だった。
一人で行って、楽しいだろうか。
気晴らしにはなるだろうか。
……せっかく、こんなきれいなドレスを着ているのに、一人になってしまうなんて馬鹿みたい。
はぁっとため息をついた私は、向かいから歩いてきた人と腕が当たって睨まれてしまった。
これはいけないと気を取り直した時、突然肩を掴まれた。
びくりとして振り返ると、柔らかな色合いのプラチナブロンドが見えた。
「リィナちゃん。一人でどこに向かうつもりかな?」
「……あ、ジョシュア様」
「こちらへ」
ジョシュア様は私の肩を抱くように、雑踏の波をかき分けて進む。
私一人では流されるしかなかったのに、ジョシュア様は魔法のようにすり抜け、人の壁を押しのけ、通りの端へとたどり着いた。
むせかえるような熱気から少し離れ、私はほっと息を吐く。
その間にジョシュア様は近くに用意されている簡易椅子を持ってきて、私を無理矢理座らせた。
「この街は治安はいいとはいえ、祭りの日に一人でいるのは感心しない。君はきれいな若いお嬢さんなんだから、もっと気をつけなさい」
「……あら、私のことをきれいだって言ってくれるの? 嬉しいわ」
「リィナ」
動揺を隠して、面白い冗談を聞いたかのように笑ったのに、ジョシュア様はにこりともせずに私の言葉を遮った。
「リィナ。僕は、本当に心配したんだよ」
「あの、ジョシュア様?」
「気がついていなかったようだけど、君の後を追っている不審な男たちがいたんだよ。君によからぬことをしようと企んでいたのだろう」
いつも私には優しい目を向けてくれるのに、今のジョシュア様はとても厳しい顔をしている。
その真剣な顔を見ていると、今さらだんだん怖くなってきて、私は目を伏せた。
「心配をかけてごめんなさい」
「……わかってくれたのなら、それでいい」
おそるおそる見上げると、ジョシュア様は少しだけ表情を緩めていた。
でも、いつもの笑顔ではない。なぜか私をじっと見つめている。
もしかして、人混みに揉まれてしまったから、ドレスが汚れてしまったのだろうか。襟につけたレースが歪んでしまったのだろうか。
少し慌ててスカートの裾をまっすぐに直したり、襟元に手を当ててみたりしても、まだジョシュア様の視線は動かなかった。
顔を見ているように感じるから、髪につけていたリボンかもしれない。
そう考えて頭に手を当てた。