3 商談の成立
五年が過ぎ、私は十四歳になった。
おませな子供だった私は、やっと年齢的にもほとんど大人になった。でもレース編みの技術はゆっくりとしか進歩しなかった。
私の住む街のあたりは刺繍の方が身近で、レースは遠くから取り寄せる高級品。
助言を求めたいと思っても、レース編みの先生をしてくれる人はいない。
唯一の先生であるジョシュア様は、騎士として忙しく厳しいお勤めに追われているから時々休暇に合わせてきてくれるだけ。その間にどれだけ熱心に習ってもたかが知れている。
切羽詰まった私は、お父様におねだりをしてレース編みの先生を呼び寄せてもらった。
ジョシュア様の遠縁にあたるフライム先生は三十前後の未亡人で、ジョシュア様の髪の色と似たプラチナブロンドだった。笑うとふわりと色っぽい女性だ。
優しいフライム先生に丁寧に根気強く教えてもらったおかげで、本の栞にしかならないものから、実用できるリボンにまで成長することができた。
でも、すっかり上達したと密かに自惚れてかけていたのに、休暇でやってきたジョシュア様は相変わらず魔法のように素晴らしいレース編みの達人で、私なんかとは次元が違った。
普通のものより大きく作られている特別製の糸巻きを無数に使い、大きな手ですいすいと動かしていく。細い針を刺す手つきは正確で、一緒にレース編みをしている私が横で悲鳴をあげたり愚痴を言ったりしていても、手元の動きを乱さない。
レース編みと苦闘する私を笑いながら、作業はどんどん進んでいく。指先にも目がついているのかと本気で疑いたくなった。
「……きっとジョシュア様は特別な人なんだわ」
「特別な人でなくて残念だな。郷里のレース編みをするご婦人方は皆こんなものだよ」
「じゃあ、ジョシュア様も本当は女性なのね!」
「それは面白い新説だな。それでいくと、リィナちゃんは男の子だね」
言い返せなくなって私が黙り込むと、ジョシュア様にまた笑われてしまった。
いつもこうだ。
ジョシュア様は私が何を言っても、面白がる。昔は笑顔が見られて嬉しかったけれど、最近はそれが悔しいし腹立たしい。
「でもやっぱりおかしいわよ。どうしてジョシュア様はそんなにお上手なの?」
「僕には一つ上の姉がいるんだけどね。その姉がとても不器用なんだよ。でもうちは貴族とは名ばかりに近くなった貧乏貴族だから、女たちのレース編みは貴重な産業なんだよ」
「そうでしょうね。北方のレースって、どこの産地のものもとても高価ですもの」
「だから女は子供の頃から編み方を仕込まれるんだけど、姉はリィナちゃんよりも不器用な上に気が短くてね。代わりに僕がさせられた結果がこれだよ」
カタカタと糸巻きを動かしながら、ジョシュア様は苦笑している。
いつ見ても鮮やかな手つきだ。
私には兄弟はいないけれど、押し付けられたからといってこんなに上手になるものなのかと首を傾げた。
「……それで、今は誰のためのレースを作っているの?」
「妹だよ」
「この間結婚したっていう妹様?」
「いや、その子じゃなくて、その下のもうすぐ婚約する妹。結婚式までにはもっと大きな花嫁衣装用のものを作りたいんだけど、最近は忙しいから難しいかもしれないな」
ため息をつくジョシュア様は、確かに私の家に来た時はとても疲れているようだった。
今は顔色は良くなっているけれど、騎士としてのお仕事は激務に次ぐ激務らしい。花形と言われる街道警備がお仕事と聞いてる。でも花形と言われるのは、もっとも人目に付きやすい華やかな騎士だからというだけではなく、若い騎士ばかりだからというのもあるらしい。
つまり、若い人でなければ体力的に厳しいということだ。
ジョシュア様はまだ二十四歳だけれど、もっと歳をとったら絶対に無理だと笑いながら言っていたのを聞いている。
もしかしたら、そのうち騎士をお辞めになるかもしれないと、お父様も独り言のようにつぶやいていた。
私は騎士としてのジョシュア様しか知らない。
だから、騎士を辞めたらどうなるのか、想像もつかない。
ジョシュア様のご実家は子沢山貧乏貴族と言われる類だから、今さらご実家に戻るのも大変らしい。
かと言って、農場経営に励む姿も想像できない。
私が想像できる将来のジョシュア様は、こんな風に明るい窓辺でレース編みをしている姿だけだ。十年後二十年後のお姿も、全く想像できない、というかしたくない。
お父様のように、お腹周りが丸くなったり、叔父様のように髪が薄くなったり、そこまでいかなくてもあのプラチナブロンドを短く刈ったりするだけでも考えたくない。
ついつい、余計な想像を巡らせてしまって、私は慌てて頭を振った。
その時、ジョシュア様は糸巻きを置いて机の端にあったきれいな封筒を私の方に差し出した。
「リィナちゃん。これを見て欲しいんだけれど」
「それは何?」
「君のお母さんにもらったんだよ。レースを使った新作ドレス見本の内覧会らしい。リィナちゃんもドレスには興味あるよね?」
「ドレス?」
「そうだよ。商人のお嬢さん方は、お祭りの時にはきれいなドレスを着るんだろう?」
「ええ、庶民が堂々と贅沢なドレスを着ることが許される貴重な機会だから、毎年とても華やかなものを着るわ」
「そうなんだってね。リィナちゃんもきれいなドレスを着るんだろうね」
「え? ええ、そうね。十五歳になったらそうすると思うけど……」
お母様がよく使う高級洋服店からの招待状を見ながら、私は首を傾げた。
「ジョシュア様。何が言いたいのか、そろそろ教えて」
「うん。リィナちゃん、僕と一緒にこれに行ってくれる?」
「……えっ?」
私は顔を上げた。
にこにこと笑っているジョシュア様は、いつもと同じように華やかで端正で、とても楽しそうに目を輝かせていた。
私と内覧会に行くことを、本当に楽しみにしているのだと言っているように見えた。
なぜか急に胸がドキドキしてきた。
でもそれを隠して、私はそっぽを向いた。
「私のドレスを選んでくれるつもり? 次の日から、ジョシュア様は子供好みの変態的趣味のお方だって有名になってしまうわよ?」
「え? どうして? 僕は君の付き添いだよ?」
「私は行きたいなんて言ってないわよ。……あ、もしかして、お貴族様にはそう言う習慣ってないの?」
「習慣?」
「恋人に、どんなレースが好きかとか聞いたり、特別なドレスを選んだりするのは、プロポーズってこと」
ジョシュア様はびっくりしたように目を大きく見開いた。
その顔を見て、ジョシュア様は全く知らなかったのだと確信した。だから気軽に私にどんなドレスが好きかなんて聞いたのだろうし、私をドレスの内覧会に誘ったのだ。
「なんだ。やっぱりご存知なかったのね」
落ち着いて考えれば、当然のことだ。
ジョシュア様は二十四歳の立派な貴族様で騎士様。まだ成人もしていない庶民の小娘にプロポーズなんてするはずがない。
一瞬でも早とちりしてしまって、バカみたい。
さっきドキドキした胸が、今度はきゅっと痛んだ。
……私はどうしてしまったのだろう?
「そ、そうか。危なかった。リィナちゃんに教えてもらわなかったら、別のお嬢さんを誘って大変なことになるところだったよ。……そうか、それは誘えないなぁ。しかし残念だな。きっと素晴らしいレースが見られるだろうから、参考になるかもしれないとちょっと気軽に考えすぎていたよ」
「もしかして、妹様用のレースの参考にするつもりだったの?」
「もちろんそうだよ。僕は武人だし、殺風景な物しか見ていないから、若い女の子の好みを探る参考にしたかったんだけど。諦めるかな」
ジョシュア様はがっくりと肩を落とし、はぁっとため息をついた。
どうやら、本当に楽しみにしていたようだ。そう言えば、私を誘った時の目は本当にキラキラ輝いていた。
立派な大人の男性なのに、なんだか叱られた仔犬のようだ。
まだ未成年の子供のくせに、私はついそんな風に考えてこっそり笑った。
「ん? もしかして笑われてしまった?」
「ごめんなさい。でも、あんまり可哀想に見えちゃって」
「やれやれ。リィナちゃんに同情されてしまったよ」
「……ねぇ、ジョシュア様。本当はすごく内覧会に行きたいんでしょう?」
「うん」
「だったら、一緒に行きましょう。私はまだ子供で、ジョシュア様は立派な大人だから、普通にしていれば誰も変な誤解はしないわ。ジョシュア様に妹様がいらっしゃることもみんな知っているでしょうし」
「本当に一緒に行ってくれる?」
ジョシュア様はぱっと顔を輝かせた。
その嬉しそうな顔を見て、この立派な騎士様に恩を売るのも悪くないと思った。
「その代わり、見返りも要求しますからね。私は商人の娘ですから」
「怖いなぁ。お手を柔らかに。あ、何かを買って欲しいというのは無理だよ。僕は騎士の収入を全て実家に送っている貧乏貴族だからね」
「知ってます。だから、そうねぇ……ドレスを見た後に、美味しいお菓子のお店に付き合ってもらおうかな」
「もしかして並ぶ店かな? まあ、体力はあるから前日から並べって言われても平気だけど」
「うーん、たぶんそんなに混まないわ。でも、子供だけでは入りにくいお店なの。だから、一緒に入ってくれると嬉しいわ」
「よし、その条件ならいいよ」
「では商談成立ね」
私が手を差し出すと、ジョシュア様は真面目な顔で手を握った。
でもすぐに笑いはじめ、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
出会った頃と変わらない、少し乱暴で優しい手だ。きっとジョシュア様はたくさんいらっしゃる妹様たちにもこうやって接してきたのだろう。
そして妹様たちからは、「髪が乱れる」と文句を言われてきたはずだ。でも妹様たちは今の私のように、乱暴だけど優しいお兄様のことは嫌えないでいたのだろう。
私も、ジョシュア様のことは好きだ。
正直に言えば、大好きだ。
……でも、時々、胸がちくりと痛くなる。
変な私。
どうしてこんなに胸が痛むのだろう。
ジョシュア様がお貴族様で、十歳も年上の立派な大人で、この家でくつろいでいるのは一時的なことなんだと考えるのが辛いなんて、本当に馬鹿みたい。