1.ベルル⑤
集団で受ける授業、初めてできた友だち、時折届くナイからの手紙。
何もかもが珍しく、夢中で過ごす時間の中で、炎とそれに命をささげよと促す男が繰り返しアイサの眠りを妨げる。
ここでの生活が楽しいと思う反面、得体の知れない不安が一層アイサを苦しめていた。
そんなある日。
再び大巫女が学園を訪れ、アイサを呼んだ。
(あの夢から逃れる方法が分かるかもしれない)
ガルバヌムの待つ学長室に向かうアイサの歩調が自然と早くなる。
アイサは学長室の扉の前に立つと呼吸を整えた。
「お入り」
ガルバヌムは一人でアイサを待っていた。
椅子に掛けているガルバヌムの後ろの窓からは相変わらず丁寧に手入れのされた庭が見える。だが、以前見えた庭の鉄線やバラの花々が、いつの間にか椿やサザンカに主役の座を譲っていた。
「しばらくだね、アイサ。もう少し早くここに来られると思ったのだが」
「お出でをお待ちしていました。早くお会いしたくて」
アイサはガルバヌムを見つめた。
ガルバヌムの深い皺はいつもの英知よりも、前回ここで別れてから今までの疲れを思わせた。
「元気がないようだ。相変わらず、同じ夢を見るのだね?」
「はい」
アイサの様子を窺うガルバヌムにアイサは頷いた。
「そうか……わしはお前の夢の話を聞いてから、レンとお前の父の城、そして神殿の間を行き来してきた。事情を知る者の間でどうするのが最善かを考えるためにな」
「レンと……父? おばば様はあの夢のことを母の縁とおっしゃっていました」
「ああ。長い話になるが……まずは、これから話すことを聞いておくれ」
ガルバヌムは手を組み、目を細めた。
「アイサ、お前はエアが初めてアエルを見つけた時の話を聞いておるな?」
「はい」
「では、そもそも何故アエルが海中に沈んでいくことになったかは?」
「嵐に遭い、船が沈んだのだと聞いていますが……それ以上のことは何も」
「そうであろう。アエルを失ったエアは、お前に詳しいことなど話したくはなかっただろうからな」
「どういうことです?」
「アイサ、アエルは不思議な火のことを調べていたのじゃ。その火を持つ者は恐ろしい力で村々を焼き、多くの命を奪った。それだけではない。その火から生き残った者も一様に重い病気に罹ったそうじゃ」
「まさか……」
アイサの頭に古い歌が浮かび、アイサはガルバヌムを見つめた。
ガルバヌムはゆっくりと頷いた。
「ああ。地上人とはいいながら、アエルには優れた医学の知識があった。焼かれた村を訪ねて回り、病に罹った者たちを見たアエルは、遙か昔に地上を焼いたゲヘナが復活したのだと確信したそうじゃ。そこでアエルはゲヘナを再び葬るために各地を巡っていたのだが、船上で大嵐に遭い、海に投げ出され……それからは皆の知る通りじゃ。この地にやって来たアエルは再び地上に戻ることは許されず、エアの妻となった。アエルの心はエアと地上との間で引き裂かれたのじゃ」
「神殿の奥の間でお母様は……」
「ああ、地上の人々の身を案じていたアエルは、よく神殿を訪れては地上へと思いを凝らしていたよ。そんなある日のことだ。先読みの能力があるアエルは、自分の死がそう遠くないことを知ったのじゃ。それと同時に、誰かが自分の代わりに、しかるべき時に地上を訪れるだろうという直感が浮かんだのだそうだ。自分の、かけがえのない誰かがな。そして、間もなくお前が生まれたというわけさ」
「それが父上の気がかりだったのか……地上の話になると父の心がざわめくので、きっと何かあるのだろうと思ってはいましたが」
「お前のことを心配していたのはエアばかりではなかった。それはアエルも同様だった。アエルは心底エアを愛していたし、お前のことを何より大事に思っていたからな。アエルが苦しんでいたのはわしにも分かった。だが、自分の先読みの能力が誤ったことがないのを知っていたアエルは、お前を連れて頻繁に神殿を訪れ、お前にできるだけの力を与えようと決心したのだ。気丈なアエルらしいな。アエルがあの事故で死んだ後、わしはお前を神殿に預けるよう、エアに申し入れた。お前を慎重に育てねばならなかったからな」
「何故です?」
「お前には力があるからじゃ」
ガルバヌムの視線がアイサを捕える。アイサはそれを真っ向から受け止め、それから首をかしげた。
「ですが……私は神殿の扉を開くことはできますが、他に取り立てて人より優れているものはありません。それに……慎重に育てたのですか? 神殿で暮らしていても、おばば様は修行はおろか、何をしろとも言わなかったのに」
「それでも、お前はあの神殿で多くのものを吸収した。あそこにいれば、誰も無為に時を過ごすことなどできはしない。ましてお前はその胸にアエルの思いを宿している。その思いはお前を不安にし、苦しめはしただろうが、同時にお前を深く成長させもしたはずじゃ。お前の見る夢はアエルのものだが、それはすでにお前のものでもある。アエルは死に、時は流れた。そして今、何も知らないはずのお前が、あの火を夢に見るようになった。アエルの直感通りだな。時が来たのじゃ」
「あの夢……炎と、狂気……」
「そうじゃ。それがアエルの恐れていた禍だ。お前の話を聞いて、わしはすぐレンに行き、レンの者達と地上の様子を覗いた。そこでわしらが見たものは、その数を増やし、再び力を自分のものにしつつある地上の人々の姿だった。何という生命力だろう。そのたくましさといったら、まばゆいほどだ。しかし、思った通り、地上には最近、ゲヘナが使われた痕跡があった。戦いの絶えない彼の地は不安定だ。そんな彼らが再びあれを手に入れたのじゃ。『また、同じことを繰り返すのか? ゲヘナを持って我々と覇を競った彼らは、神の罰とも思える仕打ちを受け、互いに争いながら死んでいったというのに』これを見ていたひとりが溜息をついたよ。『所詮、彼らは滅びる運命なのだ』と言った者もいた……」
「何故、彼らは同じことを繰り返そうとするのでしょう?」
「これはひとつの人の性だ。それはわしらの中にも確かにある。我々の祖先はその愚を避けようと、彼の地を去った。その時以来、我々は地上に介入していない。これが建国当初からのセジュの立場だったからじゃ。しかし、こうして違う道を選んだとはいえ、我らの目に映った彼らは紛れもなくわしらの兄弟だった。そして、その彼らをただ愚かだと片づけ、彼らと決別したつもりでおったわしらのもとへ、アエルはやって来たのじゃ。そこにはなにがしかの大きな意味があるとわしには思えた。そこでわしはそう告げ、アエルが予知したようにお前を地上に送るべきだと言った。これは随分もめたが、最終的にはレンの連中もこのセジュから地上へお前というきっかけを送ってもよいと、そんな結論に達した」
「私が……地上へ……?」
アイサはガルバヌムの向こうに見える庭園に目を移した。
アイサはここに来て、この世界が自分を守り、慈しむ人たちばかりではないと改めて知った。地上人である母を持つアイサに対して軽蔑の心を隠しながら愛想笑いする人々にも、ここベルルにやって来てからずっと自分に注がれる好奇の視線にも辟易してはいたが……
「半分は地上人の血が流れる私にその火を何とかして来いと……レンも……都合のいい厄介払いにも聞こえますね?」
ガルバヌムはアイサにしては珍しい皮肉なものの言いように苦笑した。だが、確かにセジュに住む人々にとって、地上とは敢えて行きたがる者など誰もいない、野蛮で恐ろしい場所なのだ。
「厄介払いか……そう見えなくもないな。レンがこれを承知したと聞いて、エアは烈火のごとく怒ったからのう」
「父上が?」
「ああ。だが、エアも心の底ではわかっているはずじゃ。このままではお前の胸に巣食う不安はますます大きくなり、お前を苦しめることになる。お前がそれから救われるには、地上に行き、あの火、ゲヘナと対決するしかない。レンが今までの方針を曲げてお前の地上行きを認めたということは、お前のためにはいいことなのじゃ。まあ、この話は……あくまでもお前が望めばの話だが」
ガルバヌムの言葉には何の飾りもなかった。
それがアイサには好ましく思えた。
「思えば、今まで幾度となく、どうにも抑えられない不安に駆られることがありました。お母様の不安が時が来てあの夢になったというわけか……」
「アイサ、考える時間をやろう。わしとて、お前に無理強いしているわけではない」
ガルバヌムの小さな後ろ姿が扉に向かってのろのろと動きだした。
「地上か……」
その時ガルバヌムは爽やかな緑の風が吹いたと思った。
大巫女のガルバヌムでさえ、今まで感じたことのない風だ。
「行きます。おばば様、ゲヘナを封じる方法を教えて下さい」
アイサはガルバヌムの背に向かってはっきりと言った。
「考える時間を与えたはずじゃが」
ガルバヌムは振り返ってアイサを見、アイサは輝く瞳でガルバヌムを見返した。
「この不安を胸に宿したまま生きていくなんてごめんです。地上は母の生まれ育ったところです。地上に行くことが私の生まれる前から決まっていて、そのために母が私に多くのものを授けたというなら、行かせてください」
「アイサ……」
(わしがこの子とあの神殿で過ごした時間は、果たして長かったのか、短かったのか……アイサ、お前は頓着していなかったが、あの神殿に住むということ自体が修行なのだ。お前にとっては遊び場としか見えなくとも、あそこは心と体を研ぎ澄ます要素には事欠かないのだ。しかし……何を言っても、お前の前では全てが霞むな)
「また、エアに恨まれる」
目を伏せた大巫女にアイサは微笑んだ。
「父も……母の思いを晴らしに行くというなら、わかってくれるでしょう」
「ああ、そうじゃ」
ガルバヌムはほっと息を吐き、懐から二つの指輪を取り出した。
「見てごらん。これはレンの研究所で作られたものだ。これを用意するのに今まで手間取ってしまったのさ」
ガルバヌムの皺くちゃな手のひらには、金の指輪と銀の指輪が乗っていた。
ガルバヌムはまず銀色に輝く指輪を示した。
「これはお前の思念に応じて、お前の周りにシールドを作る。そしてあらゆる攻撃からお前を守るだろう。その中にいる限り、お前はゲヘナの炎の前でさえ、無事なのじゃ。また、一度限りではあるが、お前を地上に運び、ここに帰すこともできる」
「そして、もう一つ……」
大巫女はアイサにもう一つ、金色の指輪を見せた。
「こちらはゲヘナを封じるためのものだ。この指輪はお前が念じたものを閉じこめる。永久にな。これでゲヘナを包み込むことに成功すれば、誰もゲヘナに近づくことはできない。ゲヘナの炎はそのエネルギーを使い果たした後に消えるだろう」
アイサは目を丸くした。
「こんなものまで用意していらしたとは……やはり、私の返事がわかっていましたか?」
「どうだかな? だが、お前の力になる算段ができぬうちは、こんな話は持ちかけられなかったのでな」
ガルバヌムは笑った。
「わしは神殿にこもり、何度も問うてみた。答えはいつも同じじゃった。お前一人を送れと」
「荷物をまとめてきます」
「さすがはファマシュじゃな。とびきり思い切りがいい。学園の方には、都合で一時神殿に戻ると伝えておこう。さあ、これからお前はわしとともにゼフィロウの城へ行くのじゃ」
「城へ?」
アイサの顔に不安の影がさした。
「でも……父に会ったら……父は……」
「何も言わずに行こうというのなら、それこそ薄情者と言うべきだろうよ。エアも覚悟ができているはずじゃ。それに、地上で過ごすには準備もいるだろう。何が起こるかわからない旅だ。だが、なんとしてもお前には帰って来てほしい。お前なら、偽りのないわしの心が見えるはずじゃ」
大巫女の本心が温もりとともにアイサを包み……アイサはしっかりと頷いた。