1.ベルル④
セジュの人たちは神を擬人化しない。これは歴代の大巫女たちが、かたくなに守ってきたことだった。
だから、神の像も、絵も存在しない。だからといって、セジュの人にとって、神が無に等しいわけではない。神は人間には捉えられないものではあるが、人は神に問い、その声を聞くために耳を澄ませる。その声は聞こえず、その姿は見えなくとも、ただひたすら問い、心を澄ます。
それがセジュのやり方だ。
瞑想の家では、瞑想の前にまず皆で神に感謝し、自分たちの奢りを戒める。それから古い歌が歌われるのだが、今朝はこの国の建国のいわれを語った歌だった。古いオルガンが室内に鳴り、学生たちが歌い出す。
昔、一つの国が忌まわしい炎を手に入れた。
その名はゲヘナ、それは大地の神々をも破壊する力を持ち、
人の手で御するのは難しかった。
放たれたその火は山を焼き、川を焼き、命を焼く。
だが我々は見つけた、その火を通さない技を。
それはどんな熱も力も跳ね返す盾。
ゲヘナを持つオスキュラ王は我らからその盾を奪おうとした。
我らとオスキュラの争いは長く続き、
戦いに飽いた我らの王は決めた、
海の底に新しい国を造ることを。
守りの盾は地上から失われ、
地上の人々は強大なオスキュラの前にひれ伏した。
だが、オスキュラが三人の息子たちの代になり、争いの時代に入ると、
ゲヘナは解き放たれ、地上は焼き尽くされた。
生き残った人々は、栄えていた遠い祖先のことを忘れていった。
一日一日を生き抜くのに精一杯だったから。
オルガンの響きが消え、静かに歌が終わった。
(今では地上は緑が蘇り、川も生き返っているという。質素な暮らしの中に、少しずつ余裕が生まれ、国々も次第にその力を取り戻しているとお母様は仰っていた……)
アイサは母の声の中にしばし身を置き、やがて瞑想の時間となった。
それぞれが目を閉じ、アイサも目を閉じる。
とたんに今朝の夢の断片が現れ、アイサは思わず目を開けた。
(また……これはどういうことだろう……ああ、おばば様に気付かれたな)
アイサは大巫女が自分に向ける気配をはっきりと感じた。
教室に入ったアイサに担当の教授が声をかけた。
「アイサ、大巫女様がお呼びです。すぐに学長室へお行きなさい」
クラスメートがどよめいた。
ゼフィロウが誇るここベルル学園は、いったん入学が許されればその身分も、生活も、学資金も完全に保証される。入学に際して年令、出身地、出自、家族背景などが問われることは一切ない。
そのため、レアが言う通り様々な生徒が集まるのだが、中でもアイサはその生まれのせいで生徒たちの特別な関心を集めていた。
アイサの母親は遙か昔、彼らの祖先が去った地上で生き残った野蛮な人々の末裔だ。その地上人がここセジュで、しかも、その領主と結婚するなど、セジュの歴史上始まって以来の椿事なのだ。
その輝く容貌と相まってアイサは格好の噂の対象となり、ベルルのどこに行っても好奇心に満ちた視線がアイサを掠める。
「早く行ってらしゃいよ。授業の方はあとで教えてあげるから」
レアが言い、ミクリが頷く。
二人の気遣いに感謝しつつ、自分を追う生徒の視線の中、アイサは教室を出た。
学長室の窓からはきちんと手入れされた庭が見えた。
紫と白の鉄線が咲き、とりどりの色のバラの花が配された庭だ。地上から持ってこられた種は大切に保存され、セジュの人々の心と五感を楽しませている。
ベルルの学長は席を外していた。
アイサの目の前にいるのは、大巫女ガルバヌムと彼女に従う三人の巫女だけ。巫女たちは久しぶりに会うアイサにこっそり目くばせした。懐かしい気持ちがこみ上げる。さっきまでの固かった表情も緩んでアイサはガルバヌムに向かい合った。
「アイサ、ここの生活にはもう慣れたかな?」
学長室の大きな椅子にちょこんと納まってガルバヌムは聞いた。
「はい、まあ……」
大巫女といってもアイサにとっては身内のようなものだったので、アイサは気楽に答えた。そんなアイサをガルバヌムは楽しそうに眺めた。
「それにしても、改めてお前を見ると……お前の母アエルを思い出すな。初めは妬みや軽蔑ばかりであったその中で、シェキの洞窟に入り、堂々とエアと結婚した。あの、たおやかで美しい見た目とは大違いの大胆さよのう。元々、すばらしい才能を持っていたが、シェキの洞窟から出てきてからはその能力に一層の磨きがかかっていた。わしは後をアエルに託したいと思っておったのに……あの事故が返す返すも残念だよ」
「ですが、母は地上人です。それを大巫女様の後になど、セジュの人々が許したでしょうか?」
自分に向けられる生徒たちの視線を思い出して、アイサは思わず不機嫌に言った。
ガルバヌムが愉快そうに笑う。
「アイサ、忘れてはいかん。ここはセジュだよ。その力のある者が必ず選ばれなくてはならない。あの事故でアエルが死んでいなかったら、必ず次の大巫女にと請われていただろう。アエルがそれを受けたかどうかは別の話だがな」
ガルバヌムの目は遠い日に思いを馳せているように見えた。
それが再びアイサに注がれる。
「それにしても、ファマシュ家は変わり者揃いじゃのう。気まぐれで、思いこんだら一歩も引かない頑固者の家系じゃ。エアはもちろん、レンでの高位の役職を断り、ゼフィロウの治安の要として働くラビスミーナも、あの発明が生き甲斐のそなたのいとこヴァンも、そして、そなたも、な」
「私もですか?」
アイサは笑った。
「ああ。お前のことはよくわかっているつもりだ。アイサ、どうだ、神殿を離れてみて……最近、何か変わったことはないか?」
ガルバヌムは目を細めた。
深いしわに埋もれたその目がさらに細くなって、まるで眠っているかのようだ。
しかし、こんな時はガルバヌムが一層気持ちを集中し、何一つ見逃すまいとしているのをアイサは知っている。
「神殿を出て……前にも増して心がざわつきます。そう言えば、今朝見た夢は夢ともいえないほどはっきりとしていました」
アイサは慎重に答えた。
「ふむ、そうか……詳しく話しておくれ」
ガルバヌムの真剣な様子に促され、アイサは夢の話をした。
「冷たい目をした男が人々に言っているのです。火の洗礼を受けろと。あの炎はとても嫌な感じがするのに」
アイサが思わず唇をかむ。
「やはりな」
ガルバヌムは頷いた。
「やはり? おばば様はあの夢にお心当たりがあるのですか?」
「ああ。それはお前の母の縁じゃな」
「母の縁? どういうことです?」
「それを話す前に、少しすることができた。近いうちにまた会おう」
ガルバヌムはその見た目に似合わず、機敏に立ち上がった。
側にいた巫女のひとりが慌てて学長室の扉を開く。
巫女たちは心配そうにアイサを振り返ったが、ガルバヌムは彼女たちを伴い、アイサをひとり残して部屋を出て行った。
(ずいぶん急いでいらした……)
アイサはさりげなく気持ちを隠して出て行ったガルバヌムを珍しいと思った。