1.ベルル③
「アイサ、見て……きゃっ……」
アイサの脇でレアが小さな悲鳴を上げた。
ドームの向こうに大物の気配がする。
大イカだ。
暗闇の中、じろりとこちらを覗いていく。
海底の暗闇といっても、そこは虚無の世界ではない。
いや、それどころか、思いがけない命に出会う。
こちらに光があるせいで分かりづらいが、闇の中に、かすかに小さな光が見える。
色も、ほの白いもの、青っぽいもの、緑色のもの、赤いもの……静かだ。
「レアは、イカが苦手なの?」
驚いて聞いたアイサに、レアは子供っぽく口をとがらせた。
「あんなのに平気でいられる人が、私には信じられない」
アイサは思わず苦笑し、ぽつりと言った。
「外に出たいな」
レアは呆れた顔をする。
「アイサったら、何を言ってるの? 今は勉強に精を出さなくちゃ。それにあなた、せっかく神殿から世間に出たんだから、もっと、いろいろと楽しみなさいよ」
「楽しんでいるわよ。海に出たって、勉強はできるし」
(ラビス姉様に頼んで、よく出かけたものだ。水圧に体が耐えられるところまで潜水艇で上昇してから、酸素の粒を飲み込み、外に出る。それから、好きなだけ水中を漂うのだ……叶うことなら、この暗黒の海にさえ触れてみたいと思う。自然の息吹に触れられないところでは、神の声も聞こえない。だけど、レアのように考える人も多い。このドームの中で全て事足りてしまうからだ)
「あら」
レアがアイサをつついた。
「エドウハ先生だわ。うるさいって評判の……要注意よ」
神殿育ちとはいえ、自由奔放なところのあるアイサをレアは気遣って耳打ちした。
「おはようございます。エドウハ先生」
プラネタリウムという別名を持つ、瞑想の家のステーションに降りた中年女性に、二人は素早く挨拶をした。
エドウハは背が高く、厳格な雰囲気を持った人だった。
彼女は二人をじっくりと見た。
「おはようございます。アイサ、レア。それにしても、落ち着かないこと。わかっているでしょうが、ここは神聖な場ですよ」
「すみません、先生」
しおらしくレアが答え、アイサも一緒に頭を下げた。
「気をつけるように」
エドウハは頷くと、瞑想の家へ続く一本道を歩き出した。
闇に沈んだその道を、その両脇に一列に並ぶ小さな明かりがわずかに照らし出している。
「もう、目をつけられてしまったわね?」
レアは大げさに溜息をついてみせた。
「レアったら……そんなこと全く気にしていないくせに。そういえば、レアはもっと広い世界を見るために、このゼフィロウにやってきたのだったわね? だったら、こんなところに閉じこもっていていいの? 思っていたのと、違うんじゃない?」
アイサが呆れ顔で言うと、レアはいたずらっぽく微笑んでアイサのエメラルド色の瞳を覗き込んだ。
「私がここで何を得ているか、あなたにはわからないでしょうね? いいわ、教えてあげる。まずは、人脈。ここには各地から様々な人が集まっているわ。あなたなんか、その最たるものよ? 私は運がいいわ」
「そんなものかしら?」
アイサは無関心に答えた。
「ふふ、そう言えば、最初にあなたに目をつけて近づこうとした人たちは、ことごとくあなたの冷たい態度に参っていたわね」
「興味半分の人たちに付き合う気はないから。それより、レア、変わり者の私と一緒にいれば、あなたまで変わり者扱いされるわよ?」
「放って置くわ。言わなかった? 私の家は、商家よ。価値のあるものに投資するの」
アイサは目を丸くした。
「私がレアの商売に役に立つとは、到底思えないけど……ナイを紹介するわ。ナイなら、いつかレアの役に立てるかも知れない」
レアは腰に手を当て、まじまじとアイサを見た。
「アイサったら、いいの? 私、あなたを出し抜いて、ナイの恋人に立候補するかも知れないわよ?」
アイサはちょっと想像してみた。
自分には、ナイを独占したいという思いも、レアを妬ましく思う気持ちも湧かない。
ナイには温かい感情を持つが、それは感謝という気持ちに近かった。
「いいんじゃない? 私達はレアの言うような関係じゃないし……」
「本当? じゃ、遠慮なくお願いするわ。さっきも言ったとおり、人脈は大事よ。でも、私、恋人選びは、もう少し冒険するつもり」
「冒険? 大イカに大騒ぎする人が?」
アイサは笑い出した。
「私の冒険の場は、ここゼフィロウ、相手は人間よ。私はね、父の商売は他の兄弟に任せて、自分の商売を始めたいの」
「商売?」
「ええ、まだ、何をするか決めていないけど、ここで勉強しながら考えるつもり」
「それは、たいしたものね」
アイサは感心して、この伸び伸びとした友人を見た。
「そう、その私が言うんだから、間違いないわ。あなたは自分がどんなに光り輝いているか知るべきよ。いつもあなたのいるところは、ぽっと明るいの。どんなに暗い所にいてもね」
「まるで、フィラルクね」
アイサはしかめ面をした。
フィラルクとは、もっと上の海底に見られる生き物で、イソギンチャクに似ている。
だが、その長い触手は発光し、二つの目も持っている。
よく見るとユーモラスな生き物だ。
「フィラルク?」
思わずレアは笑い出し、アイサもつられて笑った。
それから、二人は慌ててあたりを見回した。
エドウハは、もうすっかり闇の中に姿を消している。
アイサは隣で笑うレアを見た。
(大人は自分を見守り、導こうとする。その温かさは知っている。だけど……)
すぐ側から伝わる友の何気ない熱や、屈託のない声が、アイサの心に沁みた。
二人は瞑想の家に続く一本道を歩き出した。
ドームの透明な壁の向こうは深海。
ステーションから瞑想の家を結ぶ道の両側には、点々と明かりがあるが、暗い。
だが、歩き続ければその闇の先に光が見え始める。
瞑想の家からこぼれる光だ。
「ここは暗くて、足下も覚束なくて、最初は正直怖かったわ。今でも、あの光が近づくとほっとする」
自然に歩くアイサの横で、用心しながら歩いていたレアが言った。
瞑想の家。
その前に立つ者には、その建物全体が柔らかい光に包まれているように見える。
それは建物の周りに敷き詰められた珊瑚の石のせいだ。
かつて太陽の光が届く温かい海で育ち、死んだ珊瑚がセジュの技術で加工され、磨き上げられて、きれいな石となり、それが建物から漏れた光を受けて柔らかい輝きを放つのだ。
建物は石造りの荘厳なものだ。
その床はすり減り、梁や柱には香が染み込んで、古さ故の光沢があった。
掃除当番だったアイサとレアは箒を取りに行き、白い珊瑚の庭を掃き清めた。建物の中は上級生の担当だ。
そこへ、やはり掃除当番だった娘が二人を見つけて駆けてきた。
「ねえねえ、知ってる? さっき上級生の人から聞いたのだけれど、今日は大巫女様がいらっしゃるそうよ」
「ここへ? ミクリ、それ、本当なの?」
レアは大きく目を見開いた。
「間違いないと思うわ。今、上級生の方が言っているのを聞いたんだもの。ああ、大巫女様がこちらにいらっしゃるのは、入学式以来のことね?」
小柄なミクリは楽しそうに続けた。
「かなりのお年でありながら、かくしゃくとしていらっしゃったわね?」
「歴代の大巫女様の中でも、特に知識の深い方だとお聞きしたけれど?」
レアも言って、それから二人はアイサの方を窺った。
「ええ……深い目をしていらっしゃる、どうやっても、嘘がつけないような」
「まあ、アイサったら、大巫女様に嘘だなんて。あら、そろそろみんな集まってきたわね。私たちも行きましょう。掃除は終了よ」
さっさと掃除の終了を宣言し、箒をしまいに行ったレアを、アイサとミクリが慌てて追った。