9.初めての船旅④
ビャクグンとアイサを乗せた馬車が港を離れて行った。馬車は海産物を扱う店が並ぶ一角を通り、食堂や日用品を扱う店、それからこの港町の中心街を通り過ぎて、港を見下ろす小高い丘に向かっている。
「オスキュラは十数年ほど前からパシパの後ろ盾になって、大々的にパシ教の布教に協力しているの。もちろん、ゲヘナが目当てだけど。私達がこれから行くパシ教の寺院もその頃開かれたものよ」
馬車の窓から景色を眺めている小姓姿のアイサにビャクグンが小声で言った。
アイサの脳裏に幾度となく夢で見た炎と、その前に跪く人の群れが鮮やかに浮かぶ。
ゲヘナがパシ教徒の間では神の雷と呼ばれ、宗教都市パシパから放たれるということは知っていた。だが、実際にゴッサマー号の船員たちからオスキュラ王に逆らった町や村が丸ごと焼かれた様子を聞いてからアイサの胸には苦しいような焦りがせり上がってくるようになっていた。
「しかし、お前様方も熱心だね。船の人から聞いたよ。港に着くたびにパシの寺院に寄って、寄進しているんだって?」
御者の男がのんびりと声をかけた。
「ええ、病弱なお嬢様の希望なのよ」
ビャクグンが答える。
「そうかい。ここの寺院は最近建物が新しく立派になったところだ。今までのものが手狭になったそうでね。貧しい者に食事を出したり、子供に読み書きを教えたりするための建物もできたんだよ」
御者は得意げだ。
「それは素晴らしいわね」
ビャクグンは澄まして言った。
港を見下ろす小高い丘の上に、真新しい白亜の寺院が青空を背にして立つ。目指すパシの寺院だ。寺院からは勉強が終わった子供たちがちょうど家に帰っていくところだった。
「長閑な光景ね」
ビャクグンは呟いた。
「このあたりで待っていてちょうだい」
寺院に続く林を出たところで御者に言うと、アイサを従えたビャクグンは馬車を降り、ゆっくりと景色を楽しみながら寺院を訪ねた。
「あの、こちらの僧侶様にお会いできますでしょうか?」
解放された寺院の門をくぐり、通りかかった僧にアイサが尋ねた。その後ろにビャクグンが立っている。
見たこともないような美しい主従に、声をかけられた若い見習い僧は思わず見とれた。
「あの……」
もう一度尋ねようとするアイサに、ビャクグンが微笑む。
「私たちはパシの信者である主人から、この寺院あての寄付を預かってまいりましたの。コフイ殿にお会いできますか?」
ビャクグンが手にしていた袋を見せる。
「そ、それは、それは……どうぞ、こちらへ」
我に返った見習い僧は、いそいそと二人を奥へ案内した。
「失礼ですが、ご寄付を申し出てくださった方は?」
「王都サッハで布や織物を扱っているトリエ家のお嬢様ですわ。お嬢様は生まれつきご病弱で……ススルニュアの高名なお医者様をお訪ねする道中なのです」
「お嬢様はご自分でこちらにいらっしゃれないほど具合が悪いのですか?」
寺院の通路を歩きながら、見習い僧が二人の主だという富豪の娘のことを聞いた。
「港にもお降りになれず、船の中でお休みになっていらっしゃいますわ」
ビャクグンは病弱な主人を心から心配する風情だ。
「体の弱い方が長い船旅とは、さぞ大変なことでしょう」
見習い僧は気の毒そうに言った。
「ええ、それはもう……でも、ススルニュアにいいお医者様がいらっしゃるとお聞きになった旦那様は、思い切ってお嬢様を診ていただくことにしたのですわ。そうそう、ススルニュアにもパシ教の寺院はたくさんあるのでしょう?」
ビャクグンは目を輝かせた。
「いえ、こちらに比べると数は少なくなるようです。ススルニュア王がパシ教をあまり歓迎してくださらないので」
「まあ」
「ですが、今やススルニュア王の力は落ち、パシの信徒の数は着実に増えているそうです。近いうちにススルニュアにも立派な寺院が建つことでしょう」
気落ちした美しい侍女に見習い僧は明るく言うと、一礼して仕事に戻っていった。
案内された部屋で暫く待つ。やがて、この寺院の責任者のコフイという僧が入って来た。小柄で目つきの鋭いその僧に、ビャクグンは金貨の入った袋を差し出した。
「お嬢様から、こちらの寺院へと」
コフイは袋を受け取りながら、ビャクグンに椅子をすすめた。この寺院と同様に真新しいものだ。アイサがビャクグンのそばに控える。コフイはビャクグンの向かいの椅子に腰をかけた。
「お預かりいたします。パシの教えのために役立てさせていただきましょう。ところで、ご寄付を申し出てくださった方はご病気だとか?」
これを聞いてビャクグンの繊細な顔が曇る。
「はい、お小さいころから。そのせいで外にお出になることなど無かったのです。ですから、いくらご自分の病を治すためとはいえ、最初はこの船旅にもお気が進まない御様子でした。でも、今では、このように寄港するたびにパシの寺院に寄進され、私どもから港の様子や、そこにあるパシ教の寺院の様子などをお聞きになるのを楽しみになさっています。幸い、多くの港にパシの寺院があって……本当に心強いですわ」
これを聞いてコフイは相好を崩した。
「その通りなのですよ。どんな小さな村にも寺院を置きたいというのが我々の思いなのです。お互いのことを思いやり、助け合っていくことは、パシ教の大切な教えでもありますからな。それはどの国であっても変わってはならない」
コフイは得意になって胸を張った。
「その通りですわね」
ビャクグンが頷く。
コフイはビャクグンの手に触れんばかりに身を乗り出した。
「お嬢様のお気持ちが届き、助け合いの気持ちが広がりますように。お嬢様の心が、どうか穏やかで、神のご加護がありますように」
「有り難うございます。ところで、一つお伺いしたいことがございますの。実は……お嬢様が心配していらっしゃることがございまして」
「はて、何でしょうか?」
不安な表情で言葉を濁すビャクグンをコフイは促した。
「パシ教の唯一神ギレ様は慈悲深くいらっしゃる反面、大変厳しい面もお持ちのようですわね? 神の雷をふるって、いくつかの村を焼いたと聞き及びました。お嬢様はそこを心配していらっしゃるのです。不信心なことをすると、大きな罰を受けるのかと」
「ああ、そのようなことですか」
コフイは安心させるように主人思いの侍女を見て微笑んだ。
「病弱な方を心配させてしまって、こちらも辛いことです。しかし、焼き払われた地はオスキュラに対して陰謀を企てる輩の根城だったと聞いております。当然の報いですよ。あの火はオスキュラや我々信徒を守るために使われるのです」
「では、ススルニュアは……安全でしょうか? まだ、一部ではオスキュラに抵抗している勢力があると聞いておりますわ」
「はい。ススルニュアは今、オスキュラに抵抗している。私にも詳しいことはわかりませんが、また、あの神の雷が振るわれるかもしれない。あまりススルニュアに長居するのは感心いたしませんな」
「わかりました。気を付けますわ。ありがとうございます」
ビャクグンは丁寧に礼を述べて、立ち上がった。
「ああ、私は残念ながら本山の方から直々に送られた仕事が残っておりますのでこれで失礼致しますが、先ほどの者にここを案内させましょう。どうぞごゆっくりご覧下さい。それでは、お嬢様の回復とみなさまの道中の無事をお祈りしております」
コフイは残念そうに二人を部屋の外まで送った。
「うんざりするわ」
きびきびとした足取りで小さくなるコフイに目をやって、ビャクグンは苦々しく言った。
一通り寺院を見て回り、アイサとビャクグンは馬車に戻った。が、御者の姿が見えない。
「ビャク、あれ」
アイサが木陰に向かって不機嫌な声を出した。それを制して、ビャクグンは木陰から現れた、たちの悪そうな男たちに聞いた。
「御者はどこ?」
「こいつ、慌てた様子も見せないぜ?」
一人が驚いたように言った。
「御者なら、あっちに転がってるよ」
もう一人が、にやにやして言った。
「死んだの?」
相変わらずビャクグンは落ち着き払っていた。それどころか、有無も言わさぬ迫力がある。
「いや、気を失っているだけさ。それよりあんた、自分の心配をしたらどうだ? いいところの侍女なんだろう? 金目のものはみんな……」
男がナイフをちらつかせた時だった。
「それだけ聞けば十分」
その男に全部言い終える時間はなかった。
素早く動いたビャクグンの指が男の首に触れ、えぐるように動いたと見えた。そのまま意識を失った男をビャクグンが離す。男がどさっと倒れた。唖然とする仲間にビャクグンは男のナイフを向けた。
「こいつ、何をした?」
「生意気なまねを」
男たちが恐ろしい形相で剣を抜く。
しかし、ビャクグンに気を取られていた彼らは、後ろにいたアイサの一撃であっけなく昏倒させられた。林に入ったビャクグンにアイサが続く。
「しっかりしてちょうだい」
ビャクグンの声に、蹲っていた御者はうっすらと目を開けて呻いた。
「あいつらは?」
「あそこに倒れてるわ」
「どうして……」
御者は耳を疑って身を起こし、他に誰もいないことを見て取ると、倒れているごろつきと自分を覗き込む二人を見比べた。
「まさか……お前さんたちがやったのかい?」
「まあね。そのくらいできないと仕事にならないわ」
ビャクグンは澄まして言った。
「何てこった……」
御者が無事なのを確認したビャクグンは、信じられないように自分を見ている御者に多めの金を渡した。
「その怪我では御者台は無理ね。寺院の人に知らせて来るから、後のことは任せていいかしら? こんな恐ろしいことに巻き込まれたとお知りになったらお嬢様を心配させてしまうから。それに、私たち、町でちょっとした用事もあるし……」
「そりゃあ、いいが……町までは距離があるよ?」
「馬車の馬がある。あれを借して」
「乗れるのかい?」
「ええ」
ビャクグンはそう言うと、アイサを見た。アイサが頷き、さっき来た道を寺院に向かって走る。
ビャクグンが二頭の馬を馬車から外して待つと寺院に駆けて行ったアイサが戻ってきた。
「寺院からすぐに迎えが来ます。それまでここで待っていてください。馬は返しておきます。お怪我が早く治りますように」
丁寧に御者に言って、アイサはビャクグンの用意した馬にまたがった。
ビャクグンがアイサに馬を並べる。
二人を乗せた馬が軽々と丘を下って行った。
港に戻るとビャクグンは港の顔役に賊に襲われた事を話し、御者に馬を返すよう頼んでから繁華街に向かった。
通りを歩くビャクグンは美しかった。
アイサは自分たちをちらちらと窺う通りの人々の視線が気になったが、ビャクグンは全く気にしていなかった。
見られることに慣れている。
「よりによって寄進の帰りにごろつきに襲われるなんてね。御利益のない寺院だこと」
ビャクグンはおかしそうに笑った。
そんなビャクグンをアイサはじっと見つめた。この時、アイサはビャクグンについてずっと抱いていた疑問をどうしても押さえることができなくなっていたのだ。
「どうかした?」
ビャクグンが聞いた。
「あの、ビャクって本当に女性? どこから見ても女性に見えるのに、どこか不思議なの。ビャクって男の人でしょ。目を裏切って、心がそう言うのよ」
ビャクグンは目を見張って、それから愉快そうに言った。
「私は自分が女性だと言った覚えはありませんよ。それにしても、あなたって人は……あなたは第三の目でもお持ちですか? それともオオカミ並みに鼻がきくのかな? 今まで見破られたことなどなかったのに」
「セジュにも女性のように美しい男性がいるわ。でも、ビャクのように美しくて強い人は初めて」
「そう言って頂けると嬉しいわ。クルドゥリには私のような者がいるの。相手を欺くには便利でしょ? でも、これはシンには内緒にしておいて。いい?」
「どうして?」
「人の秘密は軽々しく口にしないものよ」
「シンは……ビャクのこと、何か底が知れないものがあると言っていたわ」
「やっぱり、シンはおもしろいわね」
ビャクグンは少し考える風だった。
そんなビャクグンも衣料品や装飾品を扱う店がある賑やかな通りにくると、そんなことは忘れて買い物に熱中した。
「用事って買い物のことだったの?」
「もちろんそうよ」
ビャクグンは目を輝かせている。久しぶりに港へ降りて、珍しいものを物色する女そのものだ。
「あなた、私のことを美しいって言ってくれるけど、自分が目立っているって気づかないのかしら?」
「だったら、今度はあの老婆に変装させてよ」
「何言ってるの? 無理に決まっているじゃないの。あれは高等技術なのよ? それに、いくら見た目が完璧でも、声や仕草、身体の動きがとても難しいの」
ビャクグンにきっぱりと断られてアイサはがっかりしたが、ビャクグンはそんなアイサにお構いなくアクセサリーの店に入り込み、熱心に品定めを始めた。
やはり、とても男性とは思えない。
別の店では主と交渉し、南方の布や髪飾り、ベルトやサンダルまで買っている。いつの間にかアイサもはしゃいでいた。
こんな風に買い物をするのは初めてなのだ。
じきに二人はすっかり意気投合し、大荷物を持って船に戻った。




