9.初めての船旅①
スオウ、シャギル、ルリ、そして姿を消したシンとアイサは早朝に宿を出た。
フィメル港は霧に包まれて灰色に沈んでいる。深々と沁みる寒さのせいか、船の出入港を見張る兵たちは表情が乏しかった。有難いことに一行が乗り込む船に、見張りの兵たちはさして興味がないようだ。乗り込む者たちに一応目をやるが、それだけだった。
「ここから乗るのはこれだけだな?」
兵の一人がぼそりと聞いた。
年配の船長が微笑む。
「はい」
「わかっているだろうが、ラダティス公の次男シンと、恐らく、一緒に逃げている娘を見たら、必ず拘束して最も近い港の警備兵に知らせるように」
別の兵が機械的に付け加える。
「承知いたしております」
船長が軽く頭を下げる。その間にビャクグン、スオウ、ルリ、シャギル、そしてベールで姿を消したシンとアイサが何事もなく船に乗り込んだ。
一行を乗せた船、ゴッサマー号は港から遠ざかると、どんどん加速した。
一見取り立てて特徴のない中型船だったが、ゴッサマー号は、実は軍艦並みの装備を持つクルドゥリの快速船だ。その船員の国籍は様々だが、全て経験豊富な船長ミルが直接選んだ乗組員で、彼らは船員としても優秀だったが、腕の方も確かだった。
それというのも、ゴッサマー号は表向きはファニの刃物、毛織物、美術工芸品等を運ぶ交易船だが、船長のミルには商売の他にもう一つの重要な仕事、各国の情報収集があったからだ。
外部との接触を絶ってその存在さえ隠し、独自の文化を守っている点ではウィウィップと同じだが、クルドゥリはどの国よりも熱心に各国の事情を知ろうとしていた。
クルドゥリの船長たちは港で仲間と情報交換をし、商売に結びつけ、国のために大きな利益を上げる。国は様々な情報を素早く各地の仲間に知らせ、豊かな資金をつぎ込み、さらに富を増やす。
稼いだ利益の多くは国のものとなるが、あらゆる物資や欲しい情報は迅速に手に入るし、十分な報酬も得られる。そして仕事を終えれば、穏やかな国での生活が待っている。何よりも、彼らは自分たちの国と文化に誇りを持っていたので、その仕事ぶりは見事なものだった。大陸一の富を持って仕事にあたるクルドゥリだ。目立たないとはいえ、船や乗組員の質が格段に高いのも当然だった。既に船長のミルは二人の客の存在を秘密にするよう、船員に徹底している。
今、その船長室に、船長のミルとクルドゥリの四人が入った。
「これは、これは……この目で見ても、なかなか信じられるものではありませんな」
ベールを取って姿を現したシンとアイサを見つめ、ミルは言った。
「誰でも同じですよ」
シャギルが肩をすくめる。
「シン、アイサ、こちらがこの船の船長のミル。クルドゥリ人よ。もう、とっくに引退してもいいのに、まだ頑張っているの」
ビャクグンが微笑んだ。
「お優しいお言葉と受け取ってよいのですかな?」
ミルがおどけた調子で言う。
「もちろんよ」
答えるビャクグンに優雅にお辞儀をすると、ミルは背筋を伸ばした。
「あちこちに仲間がいるというのは、確かに便利ではありますが……それはそれで気がかりでもあります。物騒な火を振り回すオスキュラが、ますます力をつけてきましたからな。こんなご時世では、のんびりと国で過ごすわけにもいきますまい。私は生涯現役のつもりでおりますよ」
「おお、クルドゥリの年寄りは元気がいいからな」
「シャギルったら」
ルリがシャギルを小突いたところで、シンがミルに向かって一歩進んだ。
「ファニのラダティスの息子、シンです。御存知のように、今は兄に追われる身です。この船に乗せて頂いて感謝しています」
「セジュから来たアイサです」
アイサが続ける。
ミルの表情が緩んだ。
「お二人にお目にかかれて光栄です。アイサ様のお国はセジュとおっしゃいますか? 昨夜は眠れませんでした。もう千年以上も昔に地上を去った方々の末裔が、今、こうやって再びこの地を訪れていらっしゃる。しかも、母君はアエル様とは……長生きはするものです。そして、シン様、よくご無事でこちらまでいらっしゃいました。あなたに関するお話はあちこちで囁かれておりますが、今はまだ時が来ていない」
「時が、来ていない?」
「どういうことですか?」
アイサは首を傾げ、シンは目の前の男を見つめた。
長身で白髪、そしてきちんと刈り込んだ白い口髭のミルは、船長というより外交官といった感じだ。
「年寄りはこれだからいけませんね。ついつい余計なことを言ってしまう。何事も時を得てこそ花開くものを」
こんな人物が意味ありげに仄めかしたことを話術で引き出すなど無理だと判断してシンは尋ねた。
「各国の事情にお詳しいとお聞きしました。今、クイヴルはどのような状況なのでしょうか? 兄はどのような立場に立っているのでしょう?」
ミルはシンの率直な質問を聞いて一つ頷き、微笑んだ。
「はて、物事の見方は一通りではありませんからな? しかし……まずは、エモン殿は、上々にやっていらしゃると言えましょうか。クイヴルは各領がばらばらで協調性がない。それをまとめる力が、すでに王家にはなくなっていた。そこをかねてからクイヴルを狙っていたオスキュラに突かれた。強国オスキュラに攻められるよりはと、エモン殿はオスキュラと通じ、国をまとめ上げ、機会を待つ方をお選びになった。そして、今やエモン殿は国の柱となり、領主や貴族の中にも、エモン殿に従う者が続出しています。エモン殿は現在宰相のルステリ殿とともに、クイヴルの事実上の支配者、もしくは……オスキュラという支配者の名代となったわけです。その点では、エモン殿のねらい通りではありませんか?」
シンは黙っていた。
「ですが、この中で見過ごされたものもあります。何だとお思いですか、シン様?」
ミルはシンを見つめた。
シンの脳裏にセグル、チュリ、カヌの姿が浮かぶ。
「クイヴルの民の力……です。兄上はこの機会を利用して、自らが国の高みに上ってやると言った……ですが、神の雷によってオスキュラに押さえつけられれば、人々は怯え、絶望する。搾取され、抑圧されれば、民の心は疲弊します。不満の種が国内に根付き、それによって引き起こされる争いは人の心を狭くし、互いの溝を深くする。民の心はすさむでしょう」
「なるほど、オスキュラと戦えば負ける。戦わずに屈服すれば、国内に内乱の火種が生まれる。エモン殿は強国オスキュラとは戦わず、自らがオスキュラのもとでクイヴルの支配者になることを選んだが、民の心はそれで満足するか、と……こう仰るわけですな?」
「はい」
確認するように、ゆっくりと言うミルに、シンは少し俯いて答えた。
「それでは、シン様でしたら、どのようになされましたか?」
「私……ですか?」
思いがけないミルの問いにシンは顔を上げ、それから黙り込んだ。ビャクグン、スオウ、ルリ、そしてシャギルがシンを窺う。
それぞれが冷徹な目だった。
(クルドゥリは……甘くない)
アイサはミルに厳しい視線を向けた。
気付いたミルが苦笑する。
「これは酷な問いでしたか。エモン殿は国の高みに登られたが、オスキュラに支えられたその権威でどこまでクイヴル国をまとめられるか……あのルステリという宰相では力不足です。この先すべての重荷がエモン殿おひとりにかかってくるでしょうな。まあ、エモン殿ならそれも十分わかっていらっしゃるはずだが。おっと、私としたことが、お客様にくつろいでいただくことが先でしたな。さあ、こちらへ。これから滞在いただく船室にご案内いたしましょう」
自分の発した問いのことなどすっかり忘れたように、ミルはシンとアイサを促し、二人を連れて船長室を出た。
甲板を歩きながら、シンは兄の前に伸びる険しい道を思った。
(父を殺したことは許せない。でも、あの時兄上は、兄上にとっても、そしてクイヴルにとっても、最善と思われる道を選んだのだろう……人の上に立つということは孤独なことだ)
海に目をやれば、いつの間にか霧が晴れていた。




