7.北の港フィメル②
女将が紹介してくれた宿屋は港にほど近い一角にあった。
きつい海風にさらされてあちこち痛んでいたが、この辺りでは一番大きな宿屋だ。主が忙しそうな様子で出て来た。やや太り気味の宿屋の主は、体の割に身軽で感じが良かった。
「出港はいつ?」
主は聞きながら、てきぱきと宿帳を開く。
「今、仲間が掛け合っている。うまくいけば、明日にでも船に乗るつもりだ」
スオウが答えた。
「うまく乗れるといいね」
主はスオウ、ルリ、そしてシャギルを見ながら頷いた。その後ろにはシンとアイサがいるのだが、ベールで姿を消しているので、宿帳に書かれるのはスオウの名と以下二名ということになる。
奥からは食器のぶつかる音や、客たちの話声がし、新しい顔の客を見ようと顔を出す者もいる。
「見ての通り忙しくてね。大した世話もできませんが、くつろいでいってください」
こう言って主は手伝いの女を呼んだ。女は慣れた様子で一行を二階の二間続きの部屋に案内し、忙しそうに別の客の接待に戻って行った。
部屋に入ってスオウが扉を閉めると、シンとアイサはベールを取った。ほっとしたところでアイサは荷物を降ろしたクルドゥリの三人に海の国から持ってきた宝石の話をした。彼らは信用できる(どこまでかは別として)と感じられたので、これからの旅に役立ててもらおうと思ったのだ。シンに相談した時も旅にはお金がかかると言っていたし、追われているのであればなおさらだ。
アイサはポシェットを開け、その中の袋を取り出した。
「持ち主しか開けられないっていうのはどういうことだ? そのベールもそうだが……海の国っていうのは、どこまで進んでいるんだ?」
シャギルは唸った。
「海に入っても彼らはずっと発展し続けたのね。私たちが地上で少しずつ力を落としてきたのと裏腹にね」
部屋の入口にビャクグンが立っていた。
「ビャクグン殿」
「シン、ビャクでいいわ」
確かにシャギルはビャクグンが宿にやって来ると言っていた。だが……それにしてもいきなりだ。気配というものがない。シンもアイサも驚いたが、他の仲間は別に気にする様子もなかった。
「ああ、ビャク、いいところに来たな。金や宝石となると、お前の出番だ」
スオウは宝石入りの袋をちらりと見て、ビャクグンに言った。
「まあね」
ビャクグンが微笑む。
「それにしても、すごいわ。質の良さなら、私にもわかる」
ルリが袋の中の、とりどりの宝石に目を見張った。
「確かにこれからお金が必要になるけど……でも、その前にアイサ、あなたには聞きたいことがあるの。一緒に出かけない?」
ビャクグンがウィンクした。
「外に出るなら、ベールは持って行った方がいい」
用心深くビャクグンを見ながら、シンが言う。
「いざとなった時にそれが必要なのはあなたの方でしょう? アイサ、ちょっとこっちに来て」
「何?」
アイサはそう言いながら、ビャクグンと隣の間に入った。
「港は兵だらけだ。アイサだって追われているんだ。ベールもなしに出かけるなんて……危険すぎやしないか?」
隣の間に目をやってシンは言った。
「ビャクは変装の達人だからな。心配ないよ」
シャギルが保証する。
「昼間は僕らに絶対顔を出すなって言っていたくせに」
シンはシャギルに文句を言った。
「まあ、見てなさいよ。シン」
ルリが笑った。そして……ルリの言う通りだった。しばらくしてビャクグンと一緒に出てきたのは、赤茶色の髪をした少年だった。エメラルドの瞳を隠すのは不可能だったが、どこから見ても男の子だ。
「ビャクは骨格から作るからな」
スオウは呆れているシンを面白そうに見た。
「骨格を作る?」
「即席のコルセットみたいなものよ。髪は鬘だけど、そう見えないでしょう?」
ビャクグンが頷く。
服は古着で、茶色のつりズボンにチェックのシャツ、それにフード付きの厚手の上着だ。
「なかなかの美少年よ」
ルリが感心した声を出す。
「思った通りの出来だわ」
ビャクグンは上機嫌でアイサと一緒に出て行った。
「そう落ち込むなよ。ほとぼりが冷めたら俺がいくらでも好きなところに連れてってやるから」
部屋に取り残されたシンの肩をシャギルがポンと叩いた。
「別にいいよ。僕は何故アイサがあんなに簡単にビャクグン殿……」
シンは眉を寄せ、律儀に言い直した。
「ビャク……を信じられるのか、わからないだけだ」
シンの声には苛立ちが混じっている。
荷物を点検していたスオウが手を止め、シャギルがにやりと笑った。
「お前って、つくづく放っておけない奴だな」
「どういうことだよ?」
思わずシンは突っかかった。しかし、シャギルは気にもせず、腕を組み、大袈裟に頷いた。
「シン、お前はアイサのことが好きなんだな?」
「お前には関係ない」
シンがシャギルを睨む。
「関係ないかもしれないが……ひとこと言わせてくれ。これは、おおごとだぞ? 何しろ、アイサは海の国の住人だ。しかも、大きな荷物を背負っている。その上、あれだけの人物だ。並の女の子じゃない。お前の知ってる女の子とはわけが違う。何かと……経験ありだろ? 何しろ、実の親子でないにしろ、ファニ領主の息子だ」
シンは憮然とした。
シャギルは面白がって続けた。
「それに、あのビャクだが……見た通りの人物じゃないぜ?」
「シャギル、やめなさいよ」
ルリが口を挟んだ。
「ちぇ、ビャクのことを心配したこいつの男の勘に免じて忠告しておいてやろう思ったのにな」
「それが余計なのだ」
スオウが溜息をつく。
「どういうことだ?」
厳しい目をしたシンにシャギルは肩をすくめて見せた。
「シャギル、私たちもその辺をぶらぶらしてきましょうよ」
笑いをこらえてルリが言った。
「おお、いいねえ。ルリ、久しぶりに羽を伸ばそう」
素早くシャギルが腰を上げる。
賑やかなシャギルがルリと出かけると、部屋が急に静かになった。
所在なさそうにうろうろしていたハビロがシンの隣に座る。
「ビャクが、どうしたというんだ?」
シンは呟き、スオウを見た。
「さあな。そう何でも聞きたがるな」
スオウは出会った時から物静かで落ち着いており、シンは密かに彼に信頼を寄せていた。そのスオウが話す気がないのがわかって、シンは俯いた。
「あなたたちに会って……僕は改めて自分がどんなにものを知らないか、わかった気がする……こんなことではアイサの役に立てない」
スオウは荷物を片づけると、シンに向き合った。
「シン、俺たちクルドゥリの者は幼い頃から鍛えられる。ある年齢以上になると、仕事を与えられ、各地で働く。情報を集め、商売をし、宮廷に入り込み、時には……人を殺すこともある」
スオウはシンを見つめながらゆっくりと言った。
「人を、殺す? スオウも……」
シンの顔が緊張する。
「そうだ、俺たちのやっていることは遊びじゃない。それが、お前との違いだ」
スオウはあくまでも穏やかだ。
「きれい事ではないと?」
シンはまっすぐな瞳をスオウに向けた。
「その通りだ」
「それでも、僕は強くなりたい」
スオウは目の前の、寄る辺ない、オスキュラという大国からも、クイヴルの主となったの義兄からも追われている天涯孤独の少年から目が離せなかった。
スオウにとって、シンはいつも警戒し、考えをめぐらせてばかりいるような少年だったので、この時シンの見せた澄んだ真剣さに内心驚いたのだ。
「船に乗ったら時間ができる。鍛えてやろう」
スオウは言った。
「ありがとう、スオウ」
「ところで……お前は海からやって来たアイサとどんなふうに出会ったんだ?」
「あの、春祭の日に会ったんだ。アイサはラル川のほとりで夕日を見ていた」
ポツリポツリと話し始めたシンは、いつの間にかスオウに初めてアイサと出会った時のことや、クロシュの春祭の日に城で起こった出来事、ラダティスの城で暮らしていた日々のことを語っていた。
やがて階段を上がる元気な足音がしてドアが開き、どう見ても少年にしか見えないアイサが入って来た。腕には大きな紙袋を抱えている。
「シン、食料の調達をしたの。とりあえず明日の朝の分まであるわ」
意気揚々と言うアイサにハビロがじゃれ付く。
外はすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、俺は下で食事にしてくるが、いいか?」
スオウが腰を上げた。
「ええ、どうぞごゆっくり。この宿もファニの人だけじゃなく、いろいろなところの人がいるのね」
アイサは楽しそうだった。
「宿の主に見られたの?」
咎めるようにシンは聞いた。
「ええ。だけど、大丈夫よ、シン。ちゃんと挨拶してきたから。この荷物をここのお客さんに届けるように頼まれたって言っておいたわ」
アイサが堂々と答える。
「あとは俺が適当に言っておく」
スオウは面白そうに二人を見て食堂に降りて行った。
「それにしても……」
「ああ、そうね。ちょっと待ってて」
まじまじと自分を見るシンに断ってアイサが隣の間に入った。あの変装はどうなっているのか興味津々のシンだったが、まさか覗くわけにもいかない。あれこれ考えているうちに、着替えを済ませたアイサが隣の間から出てきた。
「さあ、食べましょうよ」
緩く波打つ銀の髪はいつものように束ねられ、すっかりもとのアイサだ。
感心するシンの前でアイサは袋から小さな骨付き肉を出すと、目を輝かすハビロにやり、せっせとテーブルの上に買い込んだ食べ物を広げ始めた。
果物やおかずの入った何種類かのパイ、それにリンゴ酒まである。
「ビャクとは、どんな話をしたんだい?」
アイサの様子を眺めながらシンは聞いた。
「私の指輪のことよ。ビャクは私の指からこの指輪を抜き取って見せた」
アイサは目を丸くして笑ったが、シンは難しい顔をした。
「君の指から指輪を抜き取るなんて……余程の腕の持ち主だ。浮雲亭で君にナイフを放った時も、君に飛びかかった時も、その動きは信じられないほど速かった」
「ええ」
アイサはリンゴ酒を注いだグラスをシンに渡し、自分も一口飲んだ。
「で、君、どうしたの?」
シンはグラスを受け取りながらも、緊張してアイサを見た。
「驚いたわ、すごい早業だったから」
アイサはパイをほおばると、シンにも一つ渡す。
「でも、君の指輪は君の思念によって働く……」
「そう、私以外の人は使えない。このポシェットと同じにね」
アイサは言い、シンは頷いた。
「それでビャクも納得したわ。私が行くしかないんだって」
「そうか……」
シンは渡されたパイを置くと、カーテン越しに外を眺めた。
「シン、せっかく買ってきたんだから、少しは食べたらどう? それから、ねえ、外に出てみない?」
アイサはベールを取り出して言った。
「でも……いいのかい?」
「平気よ」
アイサはいたずらっぽく笑って頷いた。
いつの間にか、外は霧雨になっていた。
これと言って目的のないままに宿を出たシンとアイサは、ベールを被って姿を消したまま、ぶらぶらと海まで歩いた。
フィメルの港に泊まる船の灯りがぼんやりと見える。
二人は黙って港を一回りして、それから宿へ戻る通りを行く。宿の近くの酒場からはまだ客たちの声が聞こえていた。
店の灯りが天から落ちてくる雨を浮かび上がらせる。シンは立ち止まって、柔らかい灯りが照らし出す、細かな雨を見上げた。
あとからあとから落ちてくる雨をぼんやり眺めていると、シンはまるで自分が深い水の底にでもいるようだと思った。
「シン?」
アイサは黙りこんでいるシンを呼んだ。
「海の底って……こんな感じなのかな?」
シンは霧雨を見上げながら呟いた。
「似ているかもしれない」
アイサは少し笑った。
「海の底にあるドームの中は、ここと同じで昼も夜も季節もあるわ。そのようにコントロールされているの。でも、ドームの外は真っ暗。それでもね、そこには無数の命や……命のかけらがあるのよ。その真っ暗な海を、潜水艇が航行し、潜水艇を連ねたような乗り物がステーションの間をつないでいるわ」
「僕も……そこに行ってみたい」
シンはそう言ってアイサを見つめ、アイサの返事を待った。
「シン、それは無理だわ」
アイサは答えた。
「何故?」
「それは……私だって、シンにセジュやゼフィロウを見せたい。私の父や、姉や、ヴァンにもシンを紹介したいわ。でも、私でさえ、ここにやってくるのに王と大巫女の許可が必要だった。セジュは地上とかかわらない。それが建国以来の方針なのよ」
アイサの声が少しずつ小さくなる。
「だけど、君の母上は地上の人だったんだろう? だったら不可能って決まったわけじゃない」
シンの灰色がかった黒い瞳がアイサを捕らえた。だが、この時のアイサの脳裏に浮かんだのは、神殿の奥の間でたった一人、地上に思いを凝らしていた母の姿だった。
その姿とシンが重なる。
(やはり……シンと一緒にいられるのは、今だけだ)
アイサはゆっくり首を振った。
「君と一緒にいたい。今だけだって、君は思っているかもしれないけれど、でも、それはきっと、ずっと続く」
心の中を見透かされて、アイサは不思議な気持ちだった。
「シン、どうしてそんなことが言えるのよ?」
「そんな気がするんだ」
シンは微笑んだ。
「今までこんなこと言われたことはなかった」
アイサは目を丸くした。




