3.ソーヴの長い旅⑩
「しっかりして下さい。起きられますか?」
アイサは馬車の中で蹲る男に囁いた。
目を閉じていた男はびくりとして声のした方に目をやる。だが、そこに声の主は見えない。
「気のせいか」
だが、呟いた男は目を見開いた。アイサがベールを取ったのだ。
「アエル様か? 何故、ここに……?」
男が体を起こそうとして呻く。
「あなたがソーヴなのね? 私はアエルの娘のアイサです。ソーヴさん、ああ、酷い」
男の服には血がこびりついていた。
身を起こそうとする男をアイサが抱き起す。
「アエル様の娘? では、アエル様は生きていたのか……アイサ……あなたの名前はアイサと、おっしゃるのか? アイサ、アイサ、とはな」
「ソーヴさん、私の名前が何か?」
ソーヴはただ優しく頷いて何度かアイサの名を呟いた。が、急に眼をしばたかせた。
「ああ、許してくれ、どうか、私のしたことを。とんでもないことをしてしまった。どうか、アエル様に……」
ソーヴの声は掠れ、息が荒くなった。
(こんなところにいてはだめだ)
アイサは馬車の外を窺った。幸い兵たちは戦いに気を取られている。アイサはそっとソーヴを揺すった。
「ソーヴさん、ここを出ましょう」
「ここを、出る? これは……私を誘う夢、ではないか?」
「夢ではありません。見張りの兵に見つからないうちに、早く」
「夢ではない? 夢でないなら、私は……もう、十分だ」
「ソーヴさん?」
「ここからは逃げられない」
ソーヴは苦痛に耐えながら服を開き、体の傷をアイサに見せた。
「バラホアの場所を、言えと言われた……たとえ場所がわかっても、バラホアに入ることはできない、のに」
新しい傷口からは血がにじみ、古い傷口は化膿している。
遠のく意識を手放さないよう、ソーヴは必死にアイサにすがり、その瞳を見つめた。熱に浮かされたソーヴの体が熱かった。
「逃げるのは、無理だ……私が、生きていたのは……」
ソーヴが声を絞り出した時だった。
「おい、鍵が壊されているぞ?」
「何だと? どういうことだ?」
兵たちの荒々しい足音が近づいて来た。
アイサはベールを被って姿を消した。
「中に異常はないぞ?」
「いや、よく調べるんだ」
「嫌なにおいだ」
乱暴にドアが開かれ、一人の兵が中に入ろうとした。しかし、その兵は中に入るどころか、いきなり尻餅をつくことになった。アイサが外へ蹴り飛ばしたのだ。
蹴り飛ばされた本人も、周りに集まって来た兵たちも、何が起こったのかわからない。
彼らが狐につままれたような顔をしているところでアイサは馬車から飛び出して剣を振るうには邪魔なベールを取った。
「誰だ、何をしている?」
「いきなり現れたぞ?」
「トシュ族の者か?」
見張りに残された兵たちがアイサを見て叫んだが、アイサにはそんな問いに答えている余裕はなかった。ソーヴは今まさに死にかけているのだ。
(歩かせることはできない。馬を使うしかない)
アイサは見張りの兵に次々に剣を振るって気絶させ、近くにつながれていた馬にソーヴを乗せた。そして自分もその馬に乗ってソーヴをしっかりと押さえ、馬ごとすっぽりベールを被って姿を消す。
(他の兵が集まってくる前に。急がなくては)
アイサはソーヴの体ができるだけ揺れないようにと気を配ったが、目の前は今まさに両軍がぶつかる戦場となっている。
「薬を使おう。少しは痛みも和らぐ」
アイサはポシェットから小瓶を取り出して、苦しそうに息をいているソーヴに嗅がせた。
「これは、助かる……」
ソーヴはほっと息をつくと、体をかがめ、自分のベルトの中に隠し持っていた数枚の紙切れを出した。
「これは……私がバラホアから持ち出したもの……決して外に知られてはならぬと言われた、薬の製法の数々……これを、お返し、したかった……後は、どうか……私を置いて、早く、逃げて下さい」
ソーヴの意識が途絶えた。だが、呼吸は落ち着いている。
「必ず館に連れて帰るわ。しばらく我慢して」
アイサは用心深く馬を進めた。
「おい、バラホアの男が逃げたぞ」
「見張りがやられたぞ」
「誰の仕業だ?」
「まだ近くにいるはずだ」
「探せ、探せ」
「ソーヴはあんな状態だ。あいつを連れて遠くに行けるはずがない」
後方では、姿を消したソーヴとソーヴを連れ去った侵入者を探して兵たちが騒然とし、前方では、ルテール軍とトシュの軍がぶつかっている。
ルテール軍は追っ手を出させるシンの策でその騎馬兵の数を大幅に減らしている。また、歩兵の中には進軍の途中で脱落して、トシュの捕虜となった者も多い。だが、それらを除いても、一万余りの兵力がある。一方、トシュの兵力はその半数。しかし、全員が騎馬兵だ。
両者がぶつかる。
轟く叫び声、剣のぶつかり合う音。
大地が揺れ動くような振動と音の中で、アイサとソーヴを乗せた馬が怯えた。
「ごめんね、少し辛抱しておくれ」
アイサは馬の首をそっとたたく。
「アイサ様……」
ソーヴの意識が戻った。
「私は、もう、長くはない……私のことは、もう構わないで……早く、お逃げください」
「これ以上うるさく言わないで」
厳しい語調とは裏腹に、アイサの温かい思念がソーヴを包む。
(人が死んでいく。殺し合うこの場の空気は、人の正気を奪う……多くの兵が苦しみ、傷つき、死んでいくというのに私にはなすすべがない)
ロアの館がはるか遠くに感じる。
ソーヴの呼吸がまた荒くなった。
(ああ、早く、少しでも早くここから離れなくては)
アイサは焦った。
しかし……
「おい、見ろ」
「あれは何だ?」
トシュ族の操る馬に狙いを定めて切りかかろうとしていたルテールの歩兵たちが声を上げた。
姿を消すベールから馬の脚が見えてしまったのだ。
「あのあたりに矢を射てみろ」
「おう」
答えた兵が矢を向ける。
(しまった)
アイサは近くの岩山に身をひそめようと、馬を翻そうとした。が、ソーヴを抱え、ベールを被っていたのでは動きが悪い。
射かけられる矢の数が増す。
(このまま逃げられるとは思えない。ならば、仕方がない)
アイサは被っていたベールをしまい、猛然と馬を駆った。




