2.北の村ロア③
翌朝気持ちよく目を覚まし、散歩から戻ったアイサはシンに声をかけた。
「何も起こらなかったわね」
「うん。それにしてもアイサ、よく眠っていたね? その度胸にはいつも感心するよ」
荷物の点検をしていたシンが答えた。
「シンはよく眠れなかったの?」
「まあね……この先のこともあるから」
曖昧なシンの返事を聞いて、ビャクグンは笑い出した。
「シンは損な性分ね。何事も納得しなければ休めないんだから」
天幕に村の長が顔を出した。
「さあ、皆さん食事にして下さい。それから、早く出かけられた方がよいようだ。一つ山を越えると天候が変わる。あちらは雪かもしれません」
「まあ、ありがとうございます。そうさせていただきますわ」
ビャクグンが答え、三人は長とともに朝食を済ませると朝日の中、村を出た。
山々が近く見える。
風は昨日ほどきつくはなかった。
太陽が冷えた大地を暖める。
「距離は稼げたわね」
アイサは目の前に迫った山々を見ながら言った。
「早めに一つ目の山を越えてしまいましょう」
心なしかビャクグンは焦っているように見えた。
荒れ地から北の山地に入っても遊牧の民が使う道が通っており、比較的容易に登っていくことができる。道端のごつごつした岩場の間にも小さな植物が見え、風に揺れていた。
「この山を越えると小さな川があるの。そこで休みましょう」
ビャクグンの言葉に二人とも賛成だった。
朝からずっと山道にかかりきりだったのだ。いつからか太陽が姿を消し、空はどんよりとした曇り空になっている。
そして、確かに一つ山を越えると天気が変わったように思われた。
寒さの質が違う。
湿気を含んでいるせいだ。
「雪が降るかもしれないというのは当たりそうだね?」
シンが言った。
川辺に着くと三人は荷物を下ろし、馬を放した。
馬たちは思い思いに水を飲んだり草を食べたりしている。
三人がそれぞれ手際よく枯れ木を集め、火をおこす。
「雪が降ると大変?」
焚火に当たりながらアイサは聞いた。
「そうだね。寒くなるし、視界も悪くなる。馬も走りづらくなるよ」
今ひとつ気象の事がわからないアイサにシンは答え、それから目の前に流れる川を眺めた。
「この川は北から南東に流れている。これをうまく利用すればこのあたりは豊かな土地になるんじゃないかな? だけど、水量はいつもこんなものなんだろうか? 雪解けの頃はどうなるのかなあ?」
シンの頭の中は目先の雪の心配よりも、この川を利用する方法で一杯のようだった。
「この風景が変わってしまうのは惜しい気がする」
アイサは呟いた。
遠くの山々はその先端をどんよりとした雲に隠している。
このあたりから北に向かうにつれ、木々が増え、林となっているのがわかる。
浅い川に鳥が遊び、川辺には背の低い草が生えていた。
シンは目の前の景色を見つめているアイサに目を戻し、ファマシュ家の人々が集うゼフィロウの小さい一室とその先に広がる庭を思い出した。
(何気ない自然を再現するためにはどれほどの技術と観察力を必要とすることか……)
「ファマシュは贅沢だな」
シンの顔に笑みが浮かんだ。
「ファマシュ?」
ビャクグンが聞いた。
「アイサの家の名だよ。アイサの父上はその当主なんだ」
雲は更にどんよりと低くなり、見上げるシンの顔に冷たいものが当たって溶けた。
「あ、アイサ、ビャク、雪だ」
「きれいなものねえ。この冷たさも心地よく思える」
アイサはうっとりと空を見上げた。
「アイサは知らないからそんなことが言えるんだ。ひどくなる前に急ごう」
シンがせかせかと立ち上がった。
「そうね、雪のせいで難儀したくないわ」
苦笑したビャクグンの顔色が変わった。
アイサが緊張した空気が伝わったのだ。
アイサの視線の先には数匹の犬がいる。犬たちはのんびりと草を食べていた馬たちにそっと近づいていた。
「こっちへ」
アイサが叫んだ。
しかし、遅かった。
一斉に吠えかかった犬の声に驚いた三頭の馬は狂ったように駆け出した。




