4.ビャクグンの罠⑨
クイヴルの王都サッハの城。
アイサはここ数日、ビャクグンの傷に海の国セジュの薬を使っていた。いつものように傷に薬を塗り、ビャクグンの様子を見ながら付き添う。
薬による痛みが一段落するとアイサは部屋を出た。
「アイサ」
シンとシャギルがやって来た。
「ビャクの傷の具合はどうなんだ?」
シャギルが聞いた。
「入ってみる?」
気軽に答えるアイサにシャギルは首を振った。
「何でもないような顔をしているが、かなりの痛みなんだろうな。この間ちょっと覗いてみたら、ビャクの皮肉がいつも以上にきつかった」
「麻酔を使っていないから、それも当然ね」
「夕刻になったらみんなで顔を出そう」
シンが言った。
「そうね。その方がビャクも休めるわ」
アイサが頷く。
「で、ビャクがベッドから離れられるのはいつになる? あとどのくらいかかるんだ?」
真面目な顔でシャギルは聞いた。
「もうしばらくかかるわ」
「霧の谷から矢継ぎ早に入っていた報告が、ここのところ途絶えがちだ。イムダルとしては気になるところだ」
シャギルは腕を組んだ。
「傷の回復はビャクの体力に任せなくては。焦っても駄目よ、シャギル」
「あれでも普通の傷よりもずっと早く回復しているんだしね。セジュの薬のおかげだ」
「あの薬のせいだけではないわ。ナツメの看護が手厚いのよ。ところで、シン、これから私、グレンデルのところに行ってくる」
「あ、僕も行くよ。グレンデル殿の説教も聞いてみたいし、その人となりにも興味がある」
「おい、シン、息抜きだろう? 連日ここで仕事をしていると息が詰まるからな」
シャギルはにやりと笑った。
シンとアイサは目立たぬ服装をし、連れ立って城を出た。
まず、ジェリノのところへ馬を預け、それからグレンデルのいる集会所へ向かう。
繁華街の大通りから一本外れた、入り組んだ道沿いには家々がひしめき合っている。その一角に集会所はあった。集会所の付近では住民に紛れてジェリノの配下やシンの配下が目を光らせている。
「どうやら、クルドゥリの者までいるらしいわね?」
アイサが言った。
「ジェリノすら気づかぬうちに、ね」
シンが頷く。
実際、ティノスから送られてきた暗殺者たちは、グレンデルの周りからすっかり姿を消している。
長閑な昼下がり、人々が静かに集会所の建物に入っていく。ほとんどがサッハの商人や、そのおかみさんや、子どもたちだったが、中には旅の者や、身分の高そうな者もいる。
二人はそっと彼らの後について行き、建物に入ると一番後ろの隅の席に座った。
祭壇にはパシの神ギレが祀られていた。
グレンデルの話は日常的なものだ。が、人の表現力を越えている神というものの存在を、言葉の端々に感じさせる。
何より、わかりやすい。
グレンデルの話の中にはティノスが唱えるような死後の世界の約束はなかったが、それでも人々は穏やかで、自分がどのような存在であるかを深く知ろうとしていた。
「単純に死後の世界や安住の地を保証しない。自分を見つめること、そして、人に助けの手を差し伸べること、本来はそれがパシ教の教えだったな」
シンは呟いた。
「自分が何か大きなものに繋がっているのだと感じたとき、それを何と呼ぶのかはその人の自由よ。それでも人々はお互いに支え合って、その声に耳を澄ませ、目を凝らそうとする。人の心は大きなものと繋がる力があるくせに、一方で、未熟で移ろいやすいものだから」
アイサが答えた。
「そのことをよくわかっていらっしゃる方だ」
シンは満足し、グレンデルを迎えた自分の決定が間違っていないと判断した。
グレンデルは話を終えると、信者とともに言葉を交わしながら出口に近づいた。
そのグレンデルがアイサの姿に気づき、そっと声をかけた。
「アイサ」
人々の視線がグレンデルの見つめる方へと向く。
そして、その人物に惹きつけられた。
信徒の一人が皆の心に浮かんだことを声に出した。
「もしかして、この方があの詩に詠われている方ですか?」
「アイサは私にとって確かに宝石です。それに間違いはありませんよ」
グレンデルが微笑む。
静かな集会所に熱が満ちた。
信者たちがアイサを取り囲むように近づき、そして、その隣にいる青年を見ると思わず息を飲んだ。
「王?」
「では、やはり……あの歌に歌われていたのは本当のことだったのだ」
人々の熱は感動へと変わっていった。
シンはこんな場面を大変苦手にしていた。
隣にいるアイサにもそれがひしひしと伝わってくる。
「グレンデル、今日はこれで失礼します」
アイサの銀の髪がフードからふわりとこぼれた。
よく響く美しい声だった。
シンが黙って頷く。
「王、どうかアイサをお守り下さい」
「わかっている。グレンデル殿、近いうちに、またお会いできるだろう。邪魔をしてすまなかった」
「さあ、行きましょう。なんだか人の数が増えているみたいよ」
集会所の外に目をやったアイサがこっそり囁く。
シンはこの言葉に素早く反応し、二人は足早に外へ出、人のいない方へ急いだ。




