4.ビャクグンの罠⑧
ストーは自分の執務室でアイサの評判を聞いた。たとえティノスの敵と言われようと、パシパの火を封じ神の雷を葬り去ったアイサと国を取り戻し再興させたシンのことを語る人々は希望に満ち、これからのクイヴルに夢を抱いているという。
(アイサ様の存在がクイヴルにとって損失になるかどうかはまだ決まったことではなかった。私の目はクイヴルの安泰にのみ捕らわれ、曇った。目先の事を小賢しく考え、大局を見失った。アイサ様のことを正しく伝える努力をせずに、切り捨てようとした……しかし、まあ、実際はあの方は私に切り捨てられるような方ではなかったのだが)
ストーは座っていた椅子の背もたれに寄りかかって大きく息を吐き、机の前に立つ部下に目を戻した。ストーに町でのアイサの評判を報告をし終えたこの部下はストーがアイサを排除したがっていたのを知っている。その後、どうしたわけかストーがアイサを認め、王妃としての教育にも熱心に取り組んでいたことも。
「ストー様があっさりとお考えをお変えになった時は、正直、驚きました」
ストーの部下は言った。
「まあな。あっさりかどうかわからんが……何はともあれ、アイサ様の評判が良いのはクイヴルにとっても、シン様にとっても良い話だ」
ストーは苦笑した。
クイヴルの王都サッハのその城の最上階では、バラホアの医師ナツメがビャクグンの傷の治療に全力を注いでいる。
アイサの持つセジュの薬もビャクグンの回復を早めている。
だが、荒れ地に向かったレモラら、シェドの三人がとうとうイムダルの霧の谷に入り、ベロカやリュラをはじめ、城を守るイムダルの家臣たちにクイヴルでイムダルが殺されたと伝え、谷の住人にもそのように伝えさせた。
動揺する谷の人々は間もなくオスキュラの王都ルテールからやって来たリュト王子の軍を迎えることとなった。軍を率いてきた男フィッツが大声でクイヴルのやり口を批判し、イムダルの民を煽る。
しかし、イムダルの民は彼らが思ったより冷静だった。中には、ルテールのやり方に疑問を投げかける者も出ている。どうせ何も知らない田舎者ゆえ、すぐに動くと考えていたフィッツは、思惑が外れて面白くない。業を煮やしたシェドの三人も、谷に駐在するリュトの兵も、住民に難癖をつけ痛めつけ始め、ついに谷の住民がレモラに無残に殴り殺されるという事件が起こった。
これにはいくらイムダルは無事だ、戻るまでの辛抱だとモモカに言われていた谷や荒れ地の民も逆上した。
「もう我慢できないぞ」
「そうだ。いったいいつまで奴らはここの主面をしている気か」
「これ以上は、わしも血気に逸った者たちを抑えられん」
「モモカ様、今やらなければ、あいつらはますます調子に乗る。こっちの力が削がれてからでは手遅れです」
モモカは自分の率いるミワ族の者たちに囲まれていた。
「静かにしないか。奴らは我々の動きを見張っている。騒げばレモラたちに知られるぞ」
モモカに言われて、霧の谷のすぐ近くにある社の墓の下の地下道に集まった者たちは口を噤み、聞き耳を立てた。
「シェドだか何だか知らないが、そんな奴らが何だというんだ? こっちからあいつらの息の根を止めてやる」
剣の柄を握りしめた男が低い声で言った。
「ここは俺たちの土地だぞ」
年を取ったミワ族の男もこれに頷く。
「ルテールの奴らにも、これ以上好き勝手なことはさせないぞ」
「俺たちの力を思い知らせてやる」
男たちは口々に言い、モモカを見た。
「落ち着け。ルテールはこの荒れ地を狙っている。あいつらを殺しても、別の奴らがやって来るに決まっている。リュト王子はイムダルの仇を取らせるという名目で我々をクイヴルと戦わせ、その後で悠々とこの荒れ地を自分の物にする気なんだぞ?」
モモカは周りの者たちを見回した。
「モモカ様、本当にイムダル様はご無事なんでしょうか?」
一同がモモカを見つる。モモカはもう一度耳を澄ませ、気配を窺うと声を潜めて言った。
「無事だ。クイヴル王が守っている」
「でも、もし、イムダル様に万一のことがあったら……」
言い出した男の顔をモモカは睨みつけた。
「わかっている。その時は、どんなことがあろうと私が始末をつけてやる。この谷を我が物顔に荒らすレモラも、フィッツも、イムダルに手を出したリュト王子も、だ」
そこにいた誰もが、そのくぐもった声に尋常ならざるものを感じ取った。
それは、モモカ自身が誰よりもイムダルの身を案じていること、レモラらシェドの三人や、リュトの送った軍のやり口に我慢をしていることを思い出させた。
一方、この地下道からそう遠くはない霧の城の一室では、レモラら三人がイムダルの居室で酒を飲んでいた。
「荒れ地の民は勇猛果敢だと聞いていたが、拍子抜けしたな?」
ススルニュア人で構成されているシェドにしては珍しい長身の男が言った。
「噂が独り歩きしていたのさ。奴らは予想以上に腰抜けだった」
その男に比べれば子供のように見える小さな男が頷く。
「もう少し挑発してみるか。逆らう奴らに用はない。従う奴らはこき使ってやる。ここはもう、リュト様のものだ」
大柄で凍った空気を纏うレモラが笑った。
テーブルの上には、空になった酒瓶が並ぶ。
「間抜けであっても、やはりオスキュラの王子だ、いい酒を持っている」
「この地はバラホア以外に価値がないと思っていたが、住民が思いのほか豊かだ。思わぬ利益が上がりそうだな?」
「しかし、バラホアとはどうなっているんだ? これだけ探してもまだ見つからないとは」
「じきに見つかるさ。時間の問題だ。ルテールからバラホアの男が送られてくるそうだ」
「リュト様のもとで働かされていたソーヴとかいう奴か?」
「そうだ。案内させればいい」
「うまくいくかな?」
「殺すわけにはいかないが、何とかしゃべらせるさ」
ドラト王子の暗殺を成功させると、シェドの精鋭レモラら五人は今度はイムダル王子の暗殺の命を受けた。
自分たちの技量に絶対の自信を持つ彼らだったが、イムダル王子の暗殺は意外に手間取った。それどころか、仲間の二人を失っている。その上、ルテールから送られた軍は谷でイムダルの民を煽るはずだったが、野蛮で単純と聞いていたイムダルの民が動かない。
ようやくイムダル王子暗殺の任を果たしたという開放感の一方で、思い通りにならないイムダルの民に彼らは苛立ち始めていた。




