3.最上階の住人⑱
ストーの言う、クイヴル王妃にふさわしい教育が始められて数日が経った。
稽古について来るのが日課となったハビロは、この状態にすっかり慣れて部屋の隅でゆったりとあくびをしている。
ダンスの稽古がひとしきり終わると、アイサは小さいルリが用意してくれた爽やかな香りのする飲み物を飲みながら言った。
「納得がいかないわ」
「納得がいかない、とは……何に、でございますか?」
小さいルリは怪訝な顔をした。
「延々と続く、この教育っていうものに、よ」
きれいな水滴が光るグラスを空にしてアイサは腕を組んだ。アイサの足元にうずくまったハビロが顔を上げる。
「でも、まだ始まったばかりではありませんか?」
アイサの後ろで礼儀や着付けを習ったり、そのダンスのレッスンを見るのが楽しみになっていた小さいルリは遠慮がちに言った。
「ルリ、私はもう十分よ。それに、今はこんなことしている場合じゃないわ。これ以上続ける気なら、私はお前を連れてどこかに隠れる」
「私も?」
小さいルリはどこか嬉しそうだ。
「そうよ。お前が皆に責められるから、私も動きが取れないんだから。そうするしかないでしょ? それに……」
「それに?」
「何でもないわ」
(シン、このところよくスオウたちと連絡を取っているようだ。私にはこんなことをさせておいて、自分はいったい何を企んでいるのかしら?)
アイサはずっと引っかかっていた。
シンはアイサに全ての情報を聞かせてくれるようでいて、どこかアイサの動きを制限しているような気がしたのだ。
「アイサ様、先ほどのお話ですけれど……聞き捨てなりませんわ。まだまだお教えすることはございます」
ダンスの稽古を見ていたアネットが嘆かわしそうに言った。
彼女は礼儀作法以外にも、ストーから直々にアイサの教育を任されている。朝から晩まで一緒にいるせいで、アイサはこのアネットの性格をすっかり飲み込んでいた。
気持ちの真っ直ぐな人で、その並々ならぬ熱意にはアイサも思わず頭が下がる。
(でも……アネットには申し訳ないけど、とにかく、稽古は今日で終わりにするわ)
アイサは決心した。
「でも、アネット、今はそれどころじゃないってことぐらいわかるでしょう? クイヴルの一大事なのよ? これからストー殿とシンに話すから。あ、ちょうどいい。シンが来たわ」
アネットと小さいルリは部屋に入ってきた王に深々と頭を下げた。
「何の話をしていたのか、大方察しがつくよ」
アイサと目が合ったシンは笑いをかみ殺して言った。
「じゃあ、都合がいいわ。シン、私、いつになったらこのお稽古が終わるのか、シンに聞こうと思っていたところよ?」
「やっぱりね。そろそろ限界だと思ったよ。アネット、アイサの進み具合はどう?」
二人のやり取りを絶望的な顔つきで眺めていたアネットは答えた。
「こう申しては何ですが……この方はどちらへいらしても、十分通用すると思います」
「え、アネット?」
アイサは驚いてアネットを振り返った。
「王に対するそのお言葉遣いさえ何とかなれば、の話ですが」
「これは仕方ないよ。僕もアイサに丁寧にされたら、却って落ち着かない」
シンは笑った。
「アネット、さっきと言っていることが違うじゃないの?」
「アイサ様、身につけるものにこれで良いというところはございません。修練とは先のないものでございますから」
「その通りだよ、アネット。だけど、後はおいおいご指導をお願いすることにしよう。これまでありがとう」
「いいえ、お役にたてたのであれば光栄でございます」
アネットは膝をつき、優雅に頭を下げる。
「アネット……」
こうも簡単に事が運ぶと思わなかったアイサは面食らった。
「アネット……あの、ありがとう。いい生徒でなくてごめんなさい」
「いいえ、こう申しては失礼かもしれませんが……楽しかったですわ、アイサ様」
「アネット、また頼むよ」
「はい」
アネットは微笑んで退出した。
「で、シン、どうしたの?」
「ああ、アイサ、君に会いたいという方がお見えだよ。グレンデル殿だ」
「グレンデルですって? どこ?」
「二階、オークの間だ」
返事を聞くやいなや、アイサは部屋を飛び出した。
賓客をもてなす城の一室で、パシ教の僧侶グレンデルがアイサを待っていた。
ススルニュアでは毎日のように顔を合わせていた二人だ。だが、グレンデルは以前よりもさらに落ち着き、その顔には揺るがない決意が見えた。
「グレンデル、久しぶりね? クイヴルまでやって来るのは大変だったでしょう?」
旅の支度のままのグレンデルに、アイサは言った。
「そうでもありません。あちこち回りながらの、ゆったりした旅でしたから。ですが、アイサ、その格好は?」
グレンデルはドレス姿のアイサをまじまじと見た。ススルニュアにいたころにはお目にかかったことのない恰好だ。
「これは……なんというか……このところやらされているのよ」
「とてもお似合いです」
「冗談ではないわ」
顔をしかめたアイサに、グレンデルは微笑んだ。
「グレンデル殿はススルニュアからずっと布教の旅をしながらここまでいらしたそうだ。今はジェリノのところに滞在している」
シンが言った。
「心配だわ。サッハの町には、今、多くのよそ者が入っている。その中には、パシ教の刺客がいる。ティノスに反対するグレンデルをジェリノのところでは守りきれないのでは?」
アイサはシンを見た。
「そうですね。その上、ここへ向かう旅の途中でも、私はあの火を封じて下さったあなたのことをパシ教の恩人だと言い続けています。お蔭で私はティノス大主教によって破門され、今まで以上にパシパから命を狙われることになりました」
おどけた様子でグレンデルが言う。
「破門……?」
「アイサ、安心して下さい。ススルニュアの仲間は私を信じてついてきてくれています。私はパシ教の教えを信じていますが、とうにティノス大主教とは袂を分かち、対決するつもりでいましたから。それより、大主教が薬を使って信徒を動かしていることは知っていますか?」
グレンデルの顔に苦悩が浮かぶ。
「知っているわ」
アイサはグレンデルに頷いた。
「大主教の信徒の心を踏みにじるやり方は見ていられません。私がススルニュアを離れたのは、各地で同志を集め、こんなやり方をする大主教に異議を申し立てるためです」
「でも……危険だわ」
「同胞の過ちを黙って見過ごすことはできません」
立派な体格によれよれの服を着たグレンデルはきっぱりと言った。
「グレンデル、あなたは戦う人ではない。あの薬のことは私に任せて」
「アイサ、あなたこそわかっていません。こういうことは一人で負うものではない」
グレンデルは諭すように言い、柔らかく微笑んだ。
「グレンデル」
「もう決めています。アイサ、私はしばらくはこのサッハに滞在します。それで、ご挨拶に来たのですよ」
「グレンデル殿は武術に心得のある信徒に守られている。それに、このサッハで布教するには、やはり町の中にいる方が都合がいいのだそうだ。ジェリノのところならば他よりも安心だ。ジェリノやスオウ、ルリ、シャギルたちの働きで、サッハの暗殺者もここのところかなりその数を減らしているし、これからさらに気を付けるつもりだ。とりあえず、安全と言っていいんじゃないかな」
シンは言った。




