2.ユチの流れ⑨
ユチ川に架けられた吊り橋まで来たアイサは馬を降り、橋を渡り始めた。
夕暮れの風は橋の上を歩くアイサの体にぶつかり、それから橋の先の木々を揺らして山の彼方へ消えていく。
アイサは立ち止まり、橋の上からユチの川面を見下ろした。
遠くから眺めた時は気づかなかったが、ところどころに急な流れがある。村人がこの川を小舟で渡るのは苦労だろう。
(やはりシンには優れたところがある。初めて会ったときは、細かいところに気が付くけれど、自分のことは無頓着で、私が守ってあげなくてはと思った。今は、もうそんな心配はいらないわね……シンの負った責任が、シンをたくましくする。シンはこれからクイヴルの人のことを考えて生きなくてはならなくなったんだ……)
「シンはここに残らなくてはいけない」
胸の痛みを打ち消すようにアイサは声に出し、自分に言い聞かせた。
(最後に、思い切りシンと剣を交えることができた。そのことに感謝しよう。もう、これ以上、地上のことはいい。早く戻ってシンに言おう。私はここを去るって)
アイサは懐かしいセジュのことを思い出そうとした。
それなのに、今アイサの頭に浮かぶのはセジュから地上にやって来てからのこと……シンと出会い、ともに旅をし、助け合った思い出ばかりだった。
アイサはいつの間にか土手に立つシンを見ていた。
シンもこちらを見ている。
気が付くとアイサの目から涙が落ちていた。
アイサを見ていたシンの手が無意識に海の国の剣ナハシュの柄に伸ばされた。
『ナハシュ』
『ああ。剣を交えた時、アイサはお前の気持ちを感じたはずだ。だが、それでもアイサはセジュに帰る気だ』
ナハシュの声がシンに伝わる。
『気持ちが伝わったのなら、何故だ? オスキュラの姫との婚儀など僕は認めていない。それなのに、アイサが僕から去るなんて』
『アイサはお前がこの地で欠くことができない存在となったと思ったのだろう』
『欠くことができない? 馬鹿な。もし、そんな勘違いをしているなら……いっそのこと焼き払ってやる。ルテールも、パシパも……全て』
シンの強い感情がナハシュに流れ込んだ。
『おお、そうだ、そうだ。面白い。やってやろうじゃないか。そうやってこの地上の全てを手に入れ、最も恐れられる者となれ』
(シン、あなたはシンよ)
暴走しそうになる心の中でアイサの光が揺れた。
『……魂を失くしたら、自分が何を求めているのかわからなくなる……か』
『シン、お前はいつかシェキの洞窟でそんなことを言っていたが』
『だけど、それも、もう終わりだ……』
暗い雲がシンの心に立ちこめた。
その不吉な思いから逃れるようにシンは顔を上げた。
橋の上に立つアイサに向かって城の警備兵が走り出すのが見える。
(やっぱり追って来たか)
シンはアイサがサッハの離宮で暮らすようになってから、絶えずアイサの命を狙っている者がいることを承知していた。彼らがパシ教徒であることも。
案の定、彼らはアイサに向けて次々と剣を抜く。
『離宮にいるイムダルの寵姫は、実は、力の火を封じた娘だということをお前は隠そうとしなかった。イムダルの立場は危うくなり、アイサはパシの奴らに気づかれて、ああやって付きまとわれている』
ナハシュは笑った。
『でも、そっちの警戒はしていたし、あの程度でどうにかなるアイサじゃない』
『お前は、形ばかりとはいえ、アイサがイムダル王子の寵姫というのが余程気に入らないんだな?』
『ああ、そうさ。あんなふうに心を隠して……冗談じゃない、ずっと一緒に旅をしてきたアイサが本当のアイサなんだ』
『それはどうかな?』
からかうナハシュを無視して、シンは橋に向かって馬を進めた。




