5.逃亡⑥
主ラダティスを失ったファニの城にも朝が近づいていた。
エモンの居室の扉が開く。
「失礼します」
ソファーに身をゆだねていたエモンは、ひっそりと部屋に入ってきた腹心のソロスに目を向け、身を起こした。
二十代後半のエモンより数歳年上のソロスは、エモンが王都の警備を任されたときからの部下だ。
ソロスは万事にぬかりなく任をこなす文官肌の人物だった。
きちんと整えられた薄茶の髪に、理知的なブルーの瞳、そして薄い唇。その口元にからかうような笑みが浮かぶ。
「何だ?」
エモンが渋い顔をした。
「いえ、普段は冷徹な判断を下されるあなたでも、そのようなお顔をなさるものかと」
「疲れを知らぬ人間などいない。このところの騒動で少し疲れた」
ソロスはエモンがその胸の内を明かす、わずかな人間の一人だ。
「そのようでごさいますね。私の方はいくつかご報告があります。父君ラダティス公の埋葬の儀が整いました。亡き公のお部屋も近いうちに元通りに修復されるでしょう」
流れるような報告に、エモンはさらに不機嫌な顔をした。
「ソロス、肝心の報告がまだだ。シンはどうした?」
「その件につきましては、もう少しお待ち下さい。ラル川のほとりで行方をくらましたようですが……今朝方、捜索の人員を倍に増やしました。念のため、クロシュの町の方にも手を打っておきましょう」
「もうしばらく時間がかかるか……血はつながっていないとはいえ、私の弟だ。誰に、どのように利用されるかわかったものではない。急いでくれ」
「承知いたしました。そう言えば……シン様と一緒に逃げた娘……あれは何者なのでしょう?」
ソロスは何か引っかかる様子だった。
「アイサか……私にもわからん。逃げる際に、兵をはじき飛ばしたというではないか。一体あれはどういう技なのだ?」
「何とも奇妙な話です」
ソロスも頷いた。
「それに、あの娘は大変高価な宝石を持っていた。南のススルニュアの手の者か? だが、あの髪……あれはオスキュラの北部で稀に見られるものだ」
「こちらの言葉が話せなかったとか?」
ソロスは半信半疑で聞いた。
「ああ、あながち嘘には思われなかった。アイサは自分のことを覚えていないのだとシンは言っていたが……」
エモンがことを大きく言う性格ではないことをソロスはよく知っている。
「間者にしては、おかしなところがあると?」
エモンは、そうだとも、違うとも言わない。
ソロスは一時考えをめぐらせた。
(この大陸で圧倒的に力があるのはオスキュラ一国だ。そこと組んだ我々に、今、他国が手を出せるわけがない。では、糸を引くのは国内の者か? いや、我々の計画を知る者はいなかった。だからこそ、王を支える王統派を出し抜き、王家を滅ぼすことができたのだ。それでは、あの娘は本当に記憶を失った娘なのか……それにしては不思議な技を使う……)
「些末なことだ」
エモンが呟いた。
ソロスが頷く。
(そうだ。とにかく、これまでの様子ではあの娘には仲間はいない。ならば、いくら不思議な力を持っていようと、これだけの兵の目をくらましてシン様とクロシュから逃げおおせるなど無理な話だ。捕らえてしまえば、娘の素性ははっきりするだろう。それよりも、今はまずこのクイヴルをできるだけ早くエモン様のもとにまとめなくては)
ソロスにいつもの落ち着き払った表情が戻った。
今はクイヴルにとっても、エモンを支えるソロスたちとっても正念場だ。しくじるわけにはいかなかった。
「ところで……セレンはどうしている?」
気が張るソロスとは対照的に、エモンは物憂げに聞いた。
「自室にいらっしゃいます。念のため、見張りの者がついていますが?」
「そうか。ソロス、酒を頼む」
エモンの居室はラダティスの部屋に劣らない、どっしりした豪華な部屋だ。
ソロスは重厚なキャビネットを開け、エモンのために酒瓶とグラスを取り出した。
黙り込んでいたエモンが口を開く。
「父上は忠誠やら、名誉やら、領民の暮らしやらで、がんじがらめになっていた。忠誠などくだらん。名誉など欲しい奴にくれてやる。領民にとっては、上手く生き残ることこそが大事なのだ。オスキュラがクイヴルを狙っていると知ると、領主どもは浮き足立ち、それでいて協力しあえず、王も王子も適切な手を打てぬ。貴族どもは他国に財を隠し始めた。今戦えば負ける。ならば……負けるとわかっていて、何故戦う必要がある? つまらぬ王に義理立てし、自ら滅ぶよりも、私は敵国と結ぶ。そうすることが、結局クイヴルとファニを生かすことにもなる」
エモンはまるで自分自身に言い聞かせているようだった。
(御身内を手にかけるとは、こういうことか……冷静なエモン様でも、このように苛立たれる)
「エモン様を支持する者もその数を増しております」
ソロスはことさら落ち着いて言った。
「ああ、人とはそういうものだ……」
「エモン様?」
「シン……剣も馬もそこそこ使えるようになったのに、一時の感情に流されて私に刃向かうとは。馬鹿な奴だ。どうあがいても私から逃げ切れるものでもあるまいに」
エモンは深くソファーに身を沈め、グラスの酒を干した。
「シン様の存在が気になりますか?」
ソロスの言葉にエモンの眉が微かに動いた。
「いや」
エモンは素っ気なく答えた。
ラダティスはエモンをどこに出しても恥ずかしくない学問と武芸を身につけさせ、ゆくゆくはファニの領主にしようとしていた。実際エモンはその父の期待以上に優秀であり、自身でもそのことを十分自覚している。城や、せいぜいクロシュの街中をぶらつくだけのシンを気にするなどありえなかった。
「あいつの出自など、今更どうでも構わん。父上がどれだけあいつを大切にしようと、あいつの命は生きていたとしても、あとわずかだ。そして、父の望む形ではなかったが、私はこうして私の第一歩を踏み出したわけだ」
その声はいつものエモンの自信と確信に満ちた声に思われ、ソロスは安どの笑みを浮かべた。
「さようでございます。私はサッハの王宮に上がったエモン様をずっと見て参りました。あなたは並み居る方々の中で、常に勝ちを収めていらっしゃった。この度のご判断も正しいと私は信じております。あの手があった、こうしていればどうだったなどと、つまらぬ可能性は後に歴史を語る者に任せておけばいい。ご自分の道をお進みになり、ご自分の望むものを手になさいませ。私もお供いたします」
「そうだな。ソロス、ファニを安定させ、王都に戻り、オスキュラ王の代理を迎える準備をせねばならない。うるさい貴族や領主どもを黙らせ、こちらの体制を整えねば。宰相のルステリが手を打っているはずだが、あの者だけに任せておくわけにもいくまい」
既にクイヴルの主の風格を漂わせたエモンに、ソロスは深々と頭を下げた。




