5.逃亡⑤
予想通り、ストーの家は扉がこじ開けられ、中はひどく荒らされていた。
留守の間にシンと部屋の片づけに精を出したアイサは思い切り眉をしかめたが、シンの方は部屋をちらりと見ただけだった。
「こっちだよ」
シンはアイサを呼んで家の裏手に回った。
ストーの家の裏手には古くて大きなモミの木がある。シンはあたりをきょろきょろ見回し、しゃがみ込んだかと思うと、木の根元に積まれた枝や枯葉をどけ始めた。それから、その下から出てきた板を外して、うろをのぞき込んだ。
「何をしてるの?」
「狭いけど、ここが隠れ家の入り口なんだよ」
こう言いながらシンはうろの中にもぐり込み、顔を出してアイサを手招きした。
「この入り口は……なんだか考えものね」
苔や蔓の這う、うろの入り口を通りながらアイサは文句を言った。だが、中に入って驚いた。
「ストー先生ったら、こっちの方が住みやすいんじゃないの?」
表が塔の家なら、裏は地下に広がった家だ。
天井から下がるランプにシンが火を灯す。ランプが地下の応接室をゆらゆらと照らした。
「ちょっとしたもんだろう?」
シンはそう言いながら、素早くうろの入り口を閉じた。
「ここには他にいくつか部屋があるし、出入り口も複数ある。しばらくここで暮らすこともできるはずだ」
「まず、水と食料ね」
「その前に、薬だよ。君、あちこち傷がある」
シンはランプの光に照らしだされたアイサを見て言った。
「シンだって」
二人ともひどい有様だった。
「こっちに地下水が流れているところがあるんだよ。傷を洗おう」
こう言いながら、シンは部屋の棚を探った。
「何してるの?」
「持ち歩ける明かりを探してるんだ。奥は真っ暗だろう? 確か、このあたりなんだけど……」
「ああ、それじゃ私、いいものを持ってる」
その言葉と同時にアイサの腕輪が光り始めた。
「それは?」
「持ち歩きできるランプみたいなもの」
「これを君に言っても無駄かも知れないけど……」
シンはアイサの光る腕輪を見つめた。
「どうやって光っているんだって言いたいんでしょ?」
アイサの言葉にシンは頷いた。
「明るいときに光を蓄積しておくのよ。ここに来てからは、主に太陽の光ね。それで心の中で『光れ』って念じると、暗いところでも光るわけ。わかってるわ、シンが聞きたいのは、そのしくみでしょう? だけど、そこまで説明する気はないわよ。専門外だもの」
「君、他にも見たこともないような物を持っていそうだね?」
シンはまじまじとアイサを見た。
「そうでもないわ、あとは薬ぐらいかなあ。ああ、だからストー先生の薬をもらわなくても……」
「いや、君の薬ならきっと効き目も凄いのかも知れない。でも、このくらいの傷だったら先生の薬で十分だと思うよ」
シンが奥の扉を開くと、真っ暗な部屋の中に水をたたえる白い水盤が見えた。
「家の中にこんなところがあるなんて」
アイサの瞳が輝いた。
「ね、便利だろう?」
シンが頷く。
地下水が湧き出している小さな泉の周りはきれいに石組みがされていた。溢れた水は水盤に落ち、同じように石で組まれた水路を通って隠れ家の外に導かれているようだった。
二人は泉の水で泥や傷を洗った。
「この水は飲んでも平気?」
「先生は飲料水だって言っていたから、大丈夫だと思う。ちょっと待って」
シンは手ですくって飲んでみた。
「おいしいよ、飲んでごらん」
「ああ、ほんと」
二人はたっぷり水を飲んだ。シンは持ってきた薬箱から傷薬を取り出してアイサの傷に塗り、それから自分にも塗った。
「さて、何でもいいから食べ物があるといいんだけど」
アイサが言った。
「台所に何かあるはずだ」
シンはアイサを台所に案内した。
「ほら、ここにドライフルーツがあるよ。乾パンもだ」
台所の隅に並んでいる缶の中身を調べていたシンが言った。
「こっちには、はちみつがあるわ」
食器棚の壺の中をのぞいたアイサが一口なめて言った。
「とにかく食事にしよう」
シンとアイサは大きな皿に見つけ出したものをかまわず載せると、その場で食べ始めた。
「アイサ、急いで食べると気持ちが悪くなるよ。ゆっくり、よく噛んでね」
「わかってるわよ、シン」
アイサはこんな時にも見せるシンの気配りがおかしかった。
のどを潤し、食べ物を口にして落ち着いたところで、シンは手提げ型のランプを見つけ、隠れ家にある出入り口の確認に行った。
二人が使った木のうろの他に、外に通じる道は二つあった。
その一つはストーの家の手前の、土が盛られて塚のようになっているその北側、そして、もう一つは家の裏手にある道具小屋につながっていた。
シンがその小屋の窓から外をのぞけば、もう夜が明けかかっている。広い隠れ家の中をあちこち見回ってアイサのところに戻ると、アイサの方はさらに食料棚の中を物色していた。
「外にある家よりも、こっちの方がよっぽどきちんと片づいているわね」
アイサは塩と茶葉、かちかちに堅く乾燥した肉、そして、なにやら乾燥した細い物の固まりを見つけ出して言った。
「火を焚こうか、寒いだろう?」
「火なんか焚いて平気なの?」
「ここは小さな通気口がたくさんある。少しなら火を焚いてもわからないようになっているんだ」
シンは土間に作ってあった小さな囲炉裏に持ってきた薪をいくつか置くと、手際よく火をおこした。
アイサの腕輪とは異質の光が部屋に広がる。
シンも、アイサも、しばらく黙ってその火を見つめていた。
「どうしてこんなに違うんだろう……どうしてあの火はあんなに人々を苦しめるんだろう」
アイサが呟いた。
「そうだろうか? 人間だけが火を使う。火を使って料理をし、鉄を鍛える。火は人々を暖め、危険から守ってくれる。それが時に人を焼き、家を焼き、田畑を焼き、国を焼く」
「シン?」
シンの言い方はとても冷静だった。
アイサの驚いた顔を見て、シンは続けた。
「僕だってゲヘナが怖い。だけど、本当に邪悪なのは、それを自分のために利用しようと考える人間だよ。そのために他の人がどんな苦しみを味わうことになるのか知りながらね」
アイサの脳裏に、夢の中で次々と人々を火へ追いやる男の姿が浮かんだ。振り返って自分を見つけた時の男の顔……アイサは思わず身震いした。
シンは立ち上がると隣の部屋から毛布を持ってきた。
「疲れているはずだ、君はここで眠るといいよ」
「シンは?」
「僕は入り口のうろのところにいる。まだしばらく考え事もしたいし、追っ手の様子も気になるから。ああ、あのヴェールを貸してくれない?」
「いいけど……外はまだ冷えるわよ」
アイサはシンを見上げた。
「毛布を持って行くから」
「シンもここで眠ったら?」
自分を見上げるアイサにシンは溜息をついた。
「アイサって非常識だな。世慣れているのか、いないのか全くわからない」
「何言ってるのよ?」
アイサは急に大人っぽい顔をしたシンを睨んだ。
「じゃ、おやすみ」
シンは反撃しようとするアイサを無視して毛布とヴェールを持つと、外へ出て行ってしまった。
穏やかに燃える火のそばに、アイサは取り残された。
(この火も、あの火も同じだと……?)
アイサは一人で出て行ったシンの様子を思い出した。
(すっかり落ち着いたように見える。でも、まだ一人でいたいのだろう。いくら成り行きで一緒にいるといっても、私では育ての親を殺されたばかりのシンの気持ちをどうすることもできないのだ……)
アイサは毛布にくるまり、揺らめく炎を見つめた。
「あらあら、あの坊やは見張りなのね?」
太陽が顔を出すその前の闇の中で、一人の人影がくすりと笑った。
「そんなことより……隠れ家から外に出れば追っ手だらけ、かといって隠れ家に籠っていても埒が明かないわ」
冷静な女の声。
「国からの指示はもう少し時間がかかりそうだな」
落ち着いた男の声が答えた。
「『仕事は迅速に』っていうのが、俺たちのモットーじゃなかったのか?」
皮肉を言っているのに、その声は明るく、生き生きとしている。
「もうじき日が昇るわね」
「ああ」
最初の声に落ち着いた男の声が答えると、ストーの隠れ家を窺う四つの影たちは囁きを止め、闇に溶け込んでしまった。




