5.逃亡④
城を取り巻く森に逃げ込んだシンとアイサは、ちらちらと動き回る明かりを目にした。
多くの兵がまだ城の周辺を探しているうちに、ストーの隠れ家にたどり着かなくてはならない。二人は森の奥へ移動しながら城の裏手の登り道を目指した。
「コル爺も、ストー先生も、いったい何者なの? ストー先生は、何故隠れ家なんか持っているのかしら?」
しばらく留守にしているストーのことが、ここへきてさらに気になり出したアイサはシンに聞いた。
「そうだな……ストー先生は城の者とは全然違う。隠れ家のことは誰にも教えちゃいけないと何度も念を押していた。そして……何かあったら使えと言っていたよ」
足早に移動しながら、シンも首をかしげる。
「まるで……こんなことが起こるのがわかっていたようじゃないの?」
アイサがそう言うのももっともだと思われた。
シンは黙って考え込んだ。
冷たい風が遠くの気配を運ぶ。
その瞬間アイサの顔色が変わった。
「アイサ」
立ち止まったシンも緊張する。
「何?」
アイサの声が鋭い。
「犬だ、犬を放ったんだ」
あちこちで犬のほえ声が聞こえた。それがますますはっきりと、まっすぐに二人の方に向かってくる。
「犬?」
「動物だよ。とても鼻がいいんだ。狩りをするときに獲物を探させたり……人を追わせたりする。相手が犬を連れているなら、いくら気配を消しても、ベールで姿を消しても無駄だ」
「どうする?」
「アイサ、さっき君が兵をはじき飛ばしたシールド、あのシールドは匂いを通すのかい?」
「通さないわ」
「僕ら全体を覆える?」
「もちろん」
「それじゃあ、どこかでシールドを張ろう」
「どこかって?」
「川岸でどう? シールドを張ったまま、ベールで姿を消して川の瀬を少し移動するんだ。なるべく奴らの光が届かないところに身を隠せば、シールドも光を反射しないで済むだろう?」
(あんな状況の中で、シンはシールドの性質をよく見ている……)
感心するアイサをシンは急かした。
「アイサ、早く」
「わかったわ」
二人は猛烈な勢いで川に向かって走った。川岸でアイサがシールドを張ってシンと自分を包み込む。それから二人はベールを被って姿を消し、川の瀬を上流に向かって歩いた。
川辺では犬たちが狂ったように吠えている。
「追いつめたぞ、この辺りだ。この辺りをくまなく探せ」
後を追って来た隊長らしき男が叫んだ。
「まさか……川に入ったのでしょうか?」
犬が吠える様子を見て、追っ手の兵の一人が川を眺めた。
「この冷たさでは身体が持たないはずだ」
別の兵が顔をしかめる。
「松明で川面を照らすんだ。よく調べろ」
隊長に言われ、明かりを持った兵たちが川面を照らす。
「匂いはここで途絶えているようです」
犬遣いの男が言った。
「うむ、この辺りに二人の姿は見えない。万一と言うことがある。犬を連れて対岸を調べろ」
「はっ」
犬遣いの男が、数匹の犬たちを連れて川下の小さな橋に向かう。兵の半分が犬遣いの後を追い、残された犬と隊長に従った半分の兵が川べりを探し続けた。
「城へ使いを出せ。町に向けられた者をこちらへ回させろ。念のために流されていないか、下流を探させるんだ」
隊長の命令で伝令の兵が城に駆けた。
シンとアイサは川にせり出した榛の木の陰でじっとこの様子を見ていた。シールドはもちろん水を通すことはない。川の水がシールドに触れていても、中の二人は冷たくもなんともなかった。
追っ手の持つ松明の明かりが川辺を照らす。
犬が吠え、兵たちが大声を上げて歩き回った。
川底の藻が揺れる。
じっとしていた魚が驚いて逃げていくのがわかった。
「向こう岸に渡った様子はありません」
戻った犬遣いが隊長に報告した。
「よし」
残された犬たちはずっと二人が姿を消した周辺をうろついて、上流の方には全く興味を示さなかったので、隊長は全ての犬を川下へ放つよう命じ、追っ手が下流に向かった。
シンはほっと息を吐いた。
「誰も僕たちがここにいるとは思わなかったね」
「シン、驚いたわ。あなたは私なんかよりずっと冷静なのね。あんなことがあった後だというのに」
シンはアイサを見つめた。
「君はこんなことに巻き込まれてはいけない。でも、僕はあの時、あそこで兄上に殺されていたら、楽だったかも知れないね」
「私が余計なことをしたとでも?」
自分の命をそんな風に言うシンを見ると、アイサは胸が痛かった。
「父上が亡くなったのを目の当たりにしたときは……このまま兄上に殺されるかも知れないと思った。それも仕方がないのかと。アイサ、君は僕に生き延びろと言う。だけど、何のために?」
シンの心許なさが透けて見えた。
シンの孤独と絶望がアイサの心にまで浸み込んでくる。
それでもアイサはその気持ちに飲まれてしまうわけにはいかなかった。
特に、こんな時には。
アイサは背筋を伸ばした。
「シン、私だってゲヘナの悪夢に追い立てられてここに来たけど、実際、自分に何ができるか見当もつかない。あなたの言うように、こんな私があの炎を封じるなんて冗談のようだわ。だけど、こんなところで訳も分からず殺されるわけにはいかないわ、絶対にね。もちろん、シンだって誰にも殺させやしないわよ」
アイサは宣言するように言った。
シンがすこし微笑んだように見えた。
シンの孤独と絶望が強い光に照らされ、朝霧のようにゆっくりと消えていく。
松明の明かりと犬の吠え声が遠ざかり、雲の合間から顔を出した月が、静かな光を送っていた。
「しばらくはシールドを張ったままがいい」
シンはぽつりと言った。
「わかったわ」
アイサは頷き、二人はシールドに守られたまま川岸を出た。
「このシールドは君の思いに瞬時に反応する」
暗い道を歩きながらシンは言った。
「そうよ」
アイサは月明かりの中で注意深くシンを見た。
「それに、君の動きに合わせて移動することもできる。どうしてだい?」
声は潜めてはいたが、シンはその好奇心を隠すことができていなかった。
これが、ついさっき、何のために生きていったらいいのかわからないと言った人のセリフだろうかとアイサは首をかしげたが、シンがシンなりのやり方で現実に戻ってきたのが嬉しくて、そんな疑問はあっさり放り出しすことにした。
「この指輪は私の思念に反応する。セジュの、ゼフィロウの自慢の技術の一つなの。この指輪があのシールドを作り出すのよ」
アイサは答えた。
「思念を情報化、つまり数値化できるということか。それにこのシールド、いったい何でできているんだ? 強い力から中にいる者を守るくせに、そっと触れれば柔らかいとさえ感じる」
(付き合いきれないかもしれない……)
アイサは驚き、同時にくすりと笑った。
「あなただったら、ヴァンのいい話し相手になるでしょうね」
「ヴァンって?」
「私のいとこ、発明狂って姉は言うわ」
「それ、ほめ言葉じゃないね?」
シンも笑った。
「いいえ、ゼフィロウではそうでもないのよ」
アイサの声が弾む。
「ゼフィロウ?……あ、そろそろ先生の家だ」
シンが言い、アイサはシールドを消し、ベールをしまった。
「人の気配がする」
アイサが小声でシンに告げた。
「犬はいないようだから、もう少し近づいてみよう」
シンは落ち着いて答え、アイサが物音を立てずに動く。
二人は近くの林に身を隠してじっとした。
そこへ数人の兵が道を下って来た。
彼らは先回りをしてストーの家を見張っていたが、シンとアイサが上流には向かっていないという知らせが入り、呼び戻されたのだ。
「ラダティス様についていた方たちは……今頃みんな命はないな」
兵の中の一人がぽつりと言った。
「シン様の方も犬が追いつめたんじゃあ、時間の問題だ」
別の声が答えた。
「ああ、俺たちが着く頃にはもう捕らえられて、エモン様のところさ」
「兄弟だってのに恐ろしいねえ。いくら血が繋がってないからってさ」
「実の父親さえ、殺したお方だぞ?」
自分たちだけだというのに、これを言った男は声を落とした。
「黙ってろよ。こうでもしなきゃあ、クイヴルなんかあっという間にオスキュラに呑みこまれるんだ。もちろん、このファニもな。そこでエモン様はご決断なさったってわけだ」
彼らは足早に二人が身をひそめる茂みの前を通り過ぎて行った。その話し方から、シンには彼らが土地の者だとわかった。彼らはラダティスよりもエモンにつくことを選んだのだ。シンは堅く拳を握った。気づいていなかったのは身内ばかりだった、というわけだ。だが、彼らも決して今の状況を喜んでいるわけではない。何を捨て、何を取るか……その判断をしただけなのだ。
兵の気配が遠のく。
二人は再び緩い坂を登り始めた。




