7.荒れ地の旅人①
ルテールの王宮を震撼させた騒動以降、王宮ではパーティーが自粛されている。アイサの身を案じていたシンは、少しでもアイサの情報を掴みたかったが、王宮は出入りが制限され、イムダルの居住区には近づくこともできなかった。
ウィステリア王妃の女官となっているクルドゥリのアキも、シンやシャギル、そして、ハネズにすら、会おうとしない。シャギルは情報を求めてクルドゥリの仲間を訪ねて出歩き、一方、アイサの真意を知りたいシンは、何とかしてバラホアを訪ねられないものかと思案し始めた。
シンはハネズに頼んでクルドゥリの民が使う地図を手に入れた。その地図には大陸中の山や川、主な道や町の他に、城や、砦の位置、気候や植生が書き込まれている。大陸のあちこちを旅するクルドゥリの民ならではの地図だ。
それを熱心に調べながら、シンはかつてストーの家で読んだ、分厚い本の中にある話の一節を心の中で辿っていた。それは不思議と心を引く話だったので、よく覚えている。
それはこんな風に始まっていた。
『ゲヘナを防ぐシールドを完成したセジュ王は、この世界の先を案じ、しばしばゲヘナの炎を持つオスキュラ王と交渉を重ねた。しかし、それもついに決裂し、いよいよ彼らがこの地を去る決心をしたとき、セジュ国の中にこの地に残ろうとする一族が現れた。彼らは医術を得意とする一族だった。一族を率いるのは、先読みの能力を持つ長。長は動揺するセジュ王に言った。
「王よ、これから海の国を開いていくには大きな困難があるでしょう。そこで力を尽くせないことは我々にとって残念なことです。ですが……ゲヘナの炎を持つ者がいつか暴走する時が来ます。それを止めることは我々にはできないでしょう。ですが、だからといって、多くの人間が病に苦しむことがわかっていながら、ここを去るわけにはいかないのです」
「一族から海の国に行くのは、わし一人じゃ。わしはセジュの大巫女としてその責任を果たす。だが、たとえ王であろうと、一族の意思は尊重してもらわねばならぬ」
大巫女もきっぱりと言った。
とうとうセジュ王はこの一族が地上に残ることを許し、彼らはひっそりと地上に残った……』と。
(地上に残った一族とは、バラホアの人々のことだ。クルドゥリの電脳にもこれと似た情報が入っていた。彼らは争いが激しくなったとき、地中に移り住んだとも。アイサの母上はバラホアの人だった。そして、バラホアはイムダル王子の荒れ地にある。その入り口は、彼らでないと開くことができないというが……)
「シン様、面白いものが手に入りましたよ」
ハネズがシンの使っている部屋の扉を叩いた。
「えっ? はい、今、行きます」
シンは慌てて地図を置いた。
シンはエルム邸の庭に面したサロンに入った。
「ハネズ殿、面白いものとは?」
急かすシンを横目で見ながら、ハネズはススルニュアのワインを開けた。
それをシンと自分のグラスに注ぐ。
赤褐色の、ワインというには独特の色。
「これのことですよ。これがリュト王子とアイサ様が飲んでいらしたものです」
「これが……そう、ですか」
新たな情報が入ったのかと期待したシンは落胆を隠せない。
「そんな顔をなさいますな。せっかくの品なのですから」
ハネズがグラスに注ぐワインは乾燥した大地を感じさせる色だった。
「いただきます」
シンはワインを少し口に含んだ。
「いかがですか?」
「少し、変わっていますね、色といい、風味といい……独特の味わいがある。美味しいです」
「ブドウの品種が変わっているのです。昔からススルニュアの一部で栽培されていたのですが、収量が上がらないのであまりお目にかかることはありません」
「ススルニュアか。あの時、アイサが毒を仕込んだのは間違いない。そして、その解毒薬を持ってアイサが取引したのは、リュト王子のもとに捕らわれていたバラホアの少年だった」
シンはグラスを置き、庭を眺めた。
どこからかシャギルのバイオリンの音が聞こえていた。シャギルはオスキュラの民謡を聞き覚え、自分なりの曲に仕立てている。流れる曲は、ルテールの王宮の中で聞いたどんな曲よりも洗練されていて耳に心地よい。
「シャギルがルテールを回って集めた情報がその程度、ということは……本当のところを知るのは、アイサ様ぐらいのものかも知れませんね」
ハネズもグラスを置いた。
「もうひとりいる。アイサの側にいたナツメというバラホアの医者です」
シンは言い、ハネズは頷いた。
「以前アイサ様がリュト王子を訪ねたパシ教の僧侶から奪ったのは、このところリュト王子が大主教ティノスに流している薬でしょう。出所はバラホア」
「鍵はバラホアだ。ハネズ殿、僕はそろそろここを立ちます」
「もう、ルテールには満足なさいましたか、シン様?」
ハネズの問いには答えず、シンの心はここの所ずっと自分をとらえている問題に帰って行った。
それは知らない者が見れば、黙ってシャギルのバイオリンに耳を傾けているようにも見える。
ハネズは黙りこんだシンからグラスの中の赤茶けた色に目を移し、そのうまみの強い味を確認するように味わった。シャギルの奏でるゆっくりとした美しいフレーズが終わり、軽快なテンポに変わる。それに促されたようにシンは顔を上げた。
「ドラト王子と、リュト王子が対決するのも時間の問題だとわかりました。これからイムダル王子の領地を見て帰りたい。北部のルートを取りたいと思っているのですが」
シンはハネズを窺った。
ハネズが小さく微笑む。
「わかりました。中央の道や、南寄りの道は、人目も多く、警戒が厳しい。検問も多い。それに比べて、北の道は旅慣れない者にはきついのですが、検問にかかる時間を考えれば有利かも知れません。気の荒い遊牧の民といざこざを起こさない限りは」
「ハネズ殿、反対なさらないのですか?」
シンは思わず確認した。
「ええ。シャギルがいれば道に迷うこともないでしょう」
ハネズの返事にシンは安堵の息を吐いた。
「なになに、俺が何だって? お、変わったワインだな」
どこからともなく姿を現したシャギルがワインのボトルを手に取った。
「これが例のリュト王子とアイサ様が飲んでいたワインですよ」
ハネズが言った。
「美味い」
シンのグラスに残ったワインを飲み干すと、シャギルは目を丸くした。
「シャギル、そろそろここを発ちたいんだ。帰りは……」
言いかけたシンにシャギルはウィンクした。
「北回りか? 検問のまねごとをしている奴らに、少しずつ金を貢げばいいんだろう? 急ぐ必要があるなら、クルドゥリの道を使うさ」
気のすむまでバイオリンを弾いたシャギルは機嫌がいい。
「ええ。でも、クルドゥリの道は最終手段ですよ。それと地図上の道を行くなら、あまり金をちらつかせてはいけません。後で襲われないとも限りませんからね」
「任せてくれ。準備ができ次第、出発だ。いいな、シン?」
「ああ」
「じゃ、俺はちょっとザキに挨拶してくる」
シャギルはバイオリンを抱えると、庭に消えた。
「本当に身軽ですね」
ハネズは半ば呆れ顔で言った。
シンはシャギルの消えた先からハネズに視線を戻した。
「ところで、ハネズ殿、あなたはこれからどうなさるおつもりですか? ルテールはますますドラト王子か、リュト王子か、このどちらかの勢力に色分けされる」
実際、今日もリュト王子の腹心の一人、リュンクが直々にエルム邸を訪れていたし、ドラト王子と関係の深い貴族たちからも、ハネズは頻繁にパーティーに招かれている。態度をはっきりさせないハネズの立場は難しくなっているように見えた。
「なあに、シン様、大丈夫ですよ。家族に危険が及ばないよう配慮はしてあります。私ひとりであれば、何とでもなりましょう。本命の方が登場するまで、せいぜい時間を稼いでおりましょうか」
ハネズはいかにもクルドゥリの男らしく答えた。




