5.逃亡②(挿絵あり)
「父上」
駆け寄るシンを、血の付いた剣を持ったままのエモンが振り返った。
「シン、今までどこに隠れていた?」
「父上、父上……」
エモンの言葉には耳も貸さず、血だまりにうつ伏せになって倒れているラダティスをシンは何度も何度も呼んだ。
「無駄だ、シン。もうお亡くなりになっている」
エモンは冷ややかに言った。
「ああ……」
シンは今、物心がついてから流したこともなかった涙が、あとからあとから溢れるのを止めることができなかった。
「兄上、これはどういうことです?」
「おとなしく隠居してくれれば、命まで奪わなくても良かったのだが」
「兄上、何故です? サッハで王をお守りしている兄上を、父上は誇りにしていらっしゃった。それを何故?」
「クイヴルのためにも、ファニのためにも、私が父上に代わらねばならなかったのでな」
「でも……でも、こんなことをしなくても、父上は兄上が領主になられる日を楽しみにしていらしたのに」
シンは不思議でならなかった。
涙でくちゃくちゃになったシンの顔をうんざりしたように見下ろしながら、エモンは答えた。
「それでは間に合わん。実際に軍に身を置いてきた私だからわかる。オスキュラは戦いによって莫大な富を手にし、その兵は強い。だが、それだけではない。かつて大陸を焼き尽くしたというあのゲヘナを復活させ、それを神の雷と称して抵抗する町や村を焼くパシ教徒の都パシパをも抱き込んでいるのだ」
「ゲヘナは復活し、それをパシパが振るっている……と?」
シンは兄エモンを見上げた。
「そうだ。お前が漫然とこの城の中で遊んでいる間に、事態はどうにもならないところまで来ていたのだ。わかったか、シン? 今、オスキュラや、その宗教都市パシパに刃向かって生き残れる国など、この大陸中どこにもない。それなのに領主の務めを果たすだと? 王家のために戦うだと? その必要がどこにある? たまたま王に生まれついたというだけで王の道を歩むことができるのならば、いったいそのどこに敬意を払えというのだ?」
次第に感情が高ぶってきたエモンは、もう兄の顔も、都の軍人の顔もしていなかった。
シンは呆然と目の前の男の顔を見つめた。
「ですが……兄上が王都を、王家を守らなかったら誰が守るというのです?」
かろうじて言ったシンをエモンは笑った。
「もう守るべき王家など、なくなっているはずだ」
「まさか……兄上……?」
「そうだ。処分した。役立たずの王家など邪魔なだけだ」
「そんな……」
「民にとっては上に立つ者が変わるというだけのことだ。戦いがない方が、彼らにとっては幸せなのだ」
エモンに迷いはなかった。
その言葉は確信に満ちているように思われた。
物のわからない子供に諭すように、エモンは続けた。
「戦いとは、多くの犠牲があってはじめて勝ちをおさめられるものだ。そして、その犠牲が払えなれば、惨めに負けるだけだ。俺はこの機会に賭けた。策を弄してでも、権力を手に入れる」
シンは激しく首を振った。
「だけど、権力を手に入れてどうするんだ? 生き残ったって、オスキュラの言いなりでしかないじゃないか」
この瞬間、エモンの顔に憎悪の色が閃き、それが残酷な笑みに変わった。
「威勢がいいな、シン。だが、くだらぬ意地は張らぬが利口というものだ。お前も私の言いなりになるというなら、命を助けてやるが……」
「兄上は僕が望んでも手に入らないものを持っていた。本当の家族というものをです。それを自分の手で壊してしまうなんて」
「シン、返事がまだだ。私は自分の運を試すことにした。どこまでも登りつめてやる。私の人形になれば、お前にもその高見をのぞかせてやるぞ?」
シンは動かなくなったラダティスに目を落とし、顔を上げた。
「お前の言いなりになどならない」
シンはもう泣いていなかった。
「そうか」
自分に向けられたシンのまっすぐな目にエモンは苛立った。
「弱虫のくせに言うではないか。では、お前もここで死ぬがいい」
エモンが剣を抜く。
シンは立ち上がり、身構えた。
エモンの剣がシンを襲う。一振り、二振り、それに続く鋭い突き……これを何とかかわしながら、シンはラダティスの剣を拾った。
「逃げるのは得意だったな、シン。だが、これでどうだ?」
エモンの表情が変わり、容赦ない剣がシンを追い立てる。しかし、シンはそれをラダティスの剣で受け止めた。
「少しはやるようになったようだ」
剣越しにエモンのピリピリとした気迫がシンに伝わる。
「エモン様」
ラダティスの居室の扉を守っていたエモンの部下が物音に驚いて中の様子を窺った。
「兄弟対決の邪魔をするなと言いたいところだが……まあいい。シン、お前は運がいいな。命拾いしたぞ。シンはここにいる。捕らえよ」
興が覚めたようにエモンは言い、シンはたちまちエモンの部下たちに取り囲まれた。
この時、部屋のカーテンが風もないのに揺れた。
「そうはいかないわ、エモン殿」
次の瞬間、さっきまで何もなかったはずのところにアイサが立っていた。
シンを取り巻いた兵達がぎょっとして目を見張る。
「アイサか。今まで、どこに隠れていた?」
いきなり現れたアイサをエモンはうさん臭そうに眺めた。
「アイサ、逃げろ」
シンが叫ぶ。
「ちょうどいい。お前には聞きたいことがある。この者も捕らえよ」
エモンがそう命じた時だった。アイサはテーブルの上にあって赤々と部屋を照らしていたランプを床にたたきつけた。
派手な音がして優雅なランプのガラスが砕け、その炎が床を焦がす。
「何のまねだ?」
エモンの眉が吊り上る。
「こいつ」
迫るエモンの部下にアイサは不敵に笑った。
「私にかまっていられるかしら? この部屋には隣の部屋から拝借したランプの油をたっぷり撒いたから……よく燃えるわよ?」
アイサの言う通りだった。
「あっ」
兵たちが声を上げた。
あっという間に広がったランプの炎が生き物のように勢いよく床を這い、アイサと男たちを引き離す。
「何をしている」
「何とかしろ」
兵たちが慌てふためいている間に部屋のカーテンが一気に燃え上がり、火はさらに書棚へ、そして天上へと広がって、たちまち部屋は火の海となった。
「シン、早く」
アイサが鋭く言った。
「でも、父上が」
「生き残るのが先よ」
アイサは今度こそシンの手をしっかり掴んで、ラダティスの趣味の部屋へと飛び込んだ。
「逃げたぞ」
「しかし、この火では……追えん」
エモンの部下たち騒ぐ。
「何事だ?」
次々と兵たちが部屋に集まって来た。
「エモン様」
「ご無事ですか?」
「さあ、早くこちらへ」
「誰か父上の遺体を運べ」
浮足立つ兵たちにエモンが叫ぶ。
兵のひとりが、炎と煙の中でラダティスの亡骸を抱えた。
「早く火を消せ。二人を逃すな。必ず捕まえろ」
命じるエモンの声が駆け出した二人の耳にはっきりと聞こえた。
蒼山様から頂きました、エモンです。
蒼山様、どうもありがとうございました!!




