5.ルテール①
イムダルがススルニュアに旅立ち、イムダルの居住区の豪華な部屋には見送りから戻ったアイサとナツメだけが残った。
二人はソファーに腰を下ろし、大きく溜息をついた。そこへやって来たのは、落ち着いた物腰の堂々たる女官長だった。リュラによると、イムダルが幼少のころからイムダルに従っていた女だそうだ。年は四、五十代といったところだろうか。
「こちらを取り仕切っておりますカゲツと申します。イムダル様からは、アイサ様のためにあらゆる便宜をはかるよう、申し付かっております」
アイサは黙って頷いて、カゲツという女官長とその後ろに控える女官たちに目をやった。
なかなかに堅苦しそうだ。
危うく再び溜息を漏らしかかったアイサに、カゲツが鋭い視線を向けた。
「ところで失礼ですが、アイサ様はこの王宮のしきたりは、どの程度までご存じでしょうか?」
(来たか)
アイサは覚悟した。
「何も知らないわ。何とかなるってイムダルは言っていたし」
むしろ堂々と言い放ったアイサに、女官長カゲツにもその後ろに控えていた女官たちにも緊張が走った。
叫びたいのをぐっとこらえて、カゲツは言った。
「それでは、ひたすら目立たぬよう、私の言う通りに動いて下さい。いいですね?」
目立たぬようにするのは得意である。アイサは素直に同意した。
「ここは、他国以上に立ち居振る舞いにうるさいところです。身分の上の方や、男性に対して、女性から口を開くということは、まずありません。お気をつけ下さい。それに、あなたのようなお口のききようでは、たちまち皆様の顰蹙を買うことになります。いいですか? とにかく、相手から問われるまでは黙っているのですよ?」
「それでは知りたいことが聞けないじゃないの」
アイサは文句を言った。
「ご心配はいりません。あなた様が好感を持たれさえすれば、自然にいろいろな方からお声がかかりますから。そこで知りたいことを引き出せばよいのです」
「まずは好感を持たれろと?」
「そういうことです」
「やれるだけやってみるわ」
「好感を持たれるためには、ここでの常識が頭に入っていなければなりません。お言葉遣いについては、とりあえず、口数を極力減らすことにしていただきましょう。大方の応対は私に任せていただきます。次に、王宮での服装ですが、アイサ様はイムダル様の代理というお立場にもなりますから、ドラト様、リュト様より少し引いた程度がよろしかろうと思われます。それでも、決して他の貴族たちに劣ってはなりません。侮られる元となります。お色にも気をつけてドラト様、リュト様とご同席になる折は、決してお二人のお色と重なることがあってはなりません」
「そんなことはすべてお任せするわ」
「そんなことではありません」
「すみません、全てお任せいたします」
まだまだ続きそうなカゲツの話の間にナツメはこっそり姿をくらました。小一時間は続いたカゲツの講義がどうにか一段落し、アイサはほっと息をつく。
そのころ……
ルテールへ行くことが決まってすぐに馬でクルドゥリを出たシンとシャギルは、途中クルドゥリの近道をし、今は軽快にポン川を下る船の上にいた。
この船は船籍はクイヴルのものとなっているが、実はクルドゥリの船で、様々な物資をオスキュラに運んでいる。
ざっと見ただけでも、酒類や日用品、刀剣や織物もある。
「さて、あと十日もあればルテールに着くだろう。そうしたら、町に繰り出して一杯やろうな?」
シャギルはご機嫌だった。
「ああ、それはいいけど、シャギルはルテールでこれから世話になる人のことを何か知っているのか?」
「いや、直接会ったことはないよ。だが、ルテールに入れば必ず会える」
「そうかな?」
「そう、だから一杯やって待っていればいいのさ」
光を反射する川面が眩しかった。
この川をパシパから逃れるために遡ったのが、遙か昔のようだ。
「シン、あの道が見えるか?」
シャギルが何気なく言った。
「ああ、オスキュラの街道だな」
木々に隠されながらも、川に沿って続いている白い道を見てシンは答えた。
「ああ、あの街道は、そのうち二つに分かれる。このまま王都ルテールへ向かう道と、荒れ地へ向かう道だ」
「荒れ地?」
「そうだ。荒れ地に向かう街道は、途中で途絶え、あとは土地の者しか使わないような道になっている。だが、イムダル王子の城はその先にあるんだ」
「王子の城があるのに街道が通っていないなんて」
「ああ」
「イムダル王子の城は、荒れ地のただ中、オスキュラの中央部だというが」
「そうだ。そこに岩山に守られた美しい渓谷がある。イムダル王子の城はその渓谷にあるんだ」
「いくら美しくても、碌な道も通っていないような荒れ地の真ん中では、住むのに不便ではないかな?」
「さあな。だが、末の王子イムダルは、ことのほかその地が気に入ったらしい。そして、はじめはオスキュラの砦の一つでしかなかったものを自分の城に変えたのさ」
「で、それはどんな城なんだい?」
この手の話には目がないシンは、身を乗り出した。
「なんでも、渓谷に入るには、その住民しか知らない通路があるそうだ。見た目ほど周りの荒れ地から孤立しているわけでもない」
「シャギルはその城に入ったことはあるのか?」
目を輝かせるシンに、シャギルは笑った。
「いや、残念ながらないね。遠くから眺めただけだ」
「そうか。いつか見てみたいものだ。荒れ地を自分の領地とする王子か……だけど、領地が荒れ地なら、民の数も少ないだろうな?」
「まあな。民の数もそうだが、兄弟の中で一番取るに足らないところなんだよ、イムダル王子の領地は。それに比べて、長兄ドラト王子はすごいぞ? 引退同然の王に代わり、王都はもとより、このポン川沿いの各停泊所をはじめ、各地の大きな港を押さえて、オスキュラの商業を牛耳っている。うちのお得意さんだ。次兄のリュト王子の方も、オスキュラの穀倉地帯を領地に持ち、母方の力で軍に影響力がある。ススルニュアのシェドを配下に入れているのもリュト王子だ」
「ずいぶんイムダル王子と差があるんだな? 普通に考えれば、イムダル王子に勝ち目はないが」
「普通に考えればな。だが、イムダル王子の城は、さっきも言ったように渓谷の中にある。これが天然の要塞となって、外から攻めることが難しい。谷の中に入れば地形は複雑で、抜け道や切り通しがある。それに……」
シャギルは意味ありげに笑った。
「イムダル王子の治める領地は広大だ。そして大陸中央部一帯に散らばる遊牧の民を支配下に置いている。彼らの気性は荒く、部族の独自性は強いが、一人一人の戦闘能力は高いし、馬を扱う技量は、ずば抜けている」
「彼らを動かせれば、か。シャギル、帰りは馬だな」
「やれやれ、本気かよ?」
明るいシャギルの声が、爽やかな空気の中に響いた。




