4.ナハシュ⑧
一方、ファニではそれぞれが戦の準備を進める中、シンはストーとパンデイユを連れて、運河の工事現場を見て回っていた。
「順調に進んでいる」
シンは満足して言った。
「当初の予定以上の人数をこっちに回してもらっていますから。サッハの堀に架ける橋も、間もなく数が整います」
パンデイユは答えた。
「シン様の武勇を聞きつけ、我が軍に志願する者があとを断ちません」
「武勇、か」
シンはストーの言葉に苦笑いした。
「その者たちを支える物資も相変わらず届く。あれがなければ兵を動かすことなどできない。クルドゥリの助けが無かったらここまで来るのにもっと時間がかかっていたはずだ」
シンは城に運ばれていく荷を眺めた。
「そうですな」
ストーも感心している。
そんなストーにシンは目を移した。
「ストー先生、留守を、ファニを頼みます。それと、パンデイユのもとで働ける者を国中から集めて欲しいのです」
「土木の専門家ですな?」
「そう、そういった者が、これからますます必要になる。パンデイユだけでは無理だ。ところで……あそこでナッドと話をしているのは誰だろう? 見かけない顔だが」
ストーとパンデイユはシンの視線の先を見た。
ナッドと話をしていたのは、シンより少し年下と見える若者だ。褐色の皮膚に白金の髪、引き締まった体つきで鋭い目をしている。
「ススルニュア人のようだが……何やら物騒な雰囲気がする者ですね。見てまいりましょう」
ストーはそう言うと、ナッドのもとに歩いていった。
「シン様、どうかお気をつけて。ご無事でお戻りください。それでは、私はこれで」
パンデイユはそう言って歩き出したが、すぐに立ち止まった。
「パンデイユ、何か気がかりでも?」
「何と言ったら良いか……私は、もともと一人で働くのに慣れています。ストー様が集める奴らと気が合うかどうか」
「もちろん、お前は一人でやるのが一番いいだろう。だけど、パンデイユの何分の一かでも土木や築城のことがわかる者がいれば、今度の戦いに連れて行きたいくらいだ。戦いというものが違った角度から見られる。新しい戦い方も考案できるんじゃないかな?」
「では、私が参りましょう」
ありありと興味を引かれた様子のパンデイユに、シンは笑った。
「それでは運河を任せられる者がいないだろう?」
パンデイユは溜息をついた。
「わかりました、せいぜいストー様には使い物になる奴を探し出してもらいましょう」
「そうだ。一人ではどう頑張ってもできないことがある」
パンデイユはシンを見つめて頷くと、ぎこちなくお辞儀をし、仕事に戻った。
パンデイユと入れ替わりに、ストーがナッドと先程の若者を連れてシンのところに戻ってきた。
「わざわざ来てもらってすまない。見かけない顔だったので少し気になった」
「それでも兵の一人一人を覚えていらっしゃる訳でもありますまい?」
ストーは言った。
「確かにそうだが、主だった者はわかる。特にナッドが直に、それもかなりの興味を持って話している相手なら、わかっていると思っていたのだが」
シンは言い、ストーはそんなシンを満足そうに見た。
「どうにもかないませんね。気をつけないと手の内全てを見透かされてしまいそうです」
ナッドは笑った。
「不都合なことでもあるというのか?」
ストーがからかうと、ナッドは真顔で答えた。
「とんでもありません。どんなことをしても、お役に立ちたいと思っているのですから。この者はエルと言います。私の大切な耳であり、足であり、刀です」
「なるほど……クイヴルから何の後ろ盾もないススルニュアに行き、瞬く間に商売で成功された秘訣は、そのあたりにあるのですな?」
ストーは、かつてサッハの軍に所属し、ラダティスとも親交があったナッドのことを知っていた。
「私も手広くやっていますので、多く者を抱えています。エルのような者が必要なのです。それに……商売は私にとって手段です。すべては、これからの世の準備に過ぎません」
「それをお聞きできて、うれしいですぞ」
ストーは破顔した。
「ところで、エル……」
シンはエルに目をやった。近くで見ると、エルの体は鍛え抜かれていることがよくわかる。剛胆な顔をしていた。
エルもシンを窺った。
(こんなひ弱そうな奴のために、ナッド様が全てを投げ打って尽くしているのか? アイサ様がパシパの炎を封じたとき、手伝ったのがこいつだというが……おもしろくないな)
エルはナッドにのみ忠誠を誓うとでも言うように、シンを見返した。
そのエルにシンは聞いた。
「アイサとビャクはもうススルニュアを立ったようだが」
「えっ?」
不意を突かれたエルはシンを見つめた。
(お二人がススルニュアを立ったことを知る者はほんのわずか、しかも、あの人たちの動きは極秘だ。それを既に知っている? こんな離れた地で? 自分がエモンとの戦いに集中しなくてはならないこの時に、そんなことまで?)
狐につままれたような顔をするエルをナッドが促した。
「エル、お前の知っていることをお答えしろ」
「はい、ナッド様。王子がおっしゃる通り、お二人はススルニュアを立たれました。それを見届けて、私もこちらに参ったのです」
エルは言った。
「ススルニュアには今、いくつかの勢力が入り込んでいる。アイサが行動をともにしていたのはネルに向けられたススルニュアの傭兵部隊とススルニュアのパシ教徒だったらしいが?」
シンが聞く。
「はい。アイサ様はパシ教の僧侶グレンデル様とともにおられました」
シンは黙って頷いた。
(やはり、アイサ様のことを気にかけておいでなのだな)
ナッドは何故かほっとした。
一方、ストーの方はエルの言葉を聞きとがめた。
「パシ教と言ったか? パシパの炎の封じ手がパシ教徒と行動を共にするとは、それはどういうことだ?」
「アイサ様、そして、ビャクグン様は、ススルニュア人のパシ教徒を味方につけられたのです」
ススルニュアの事情を知っているナッドが答える。
「何ですと?」
「あの方たちは、散り散りになったススルニュア独立軍をまとめると、次はパシパのやり方に反対するススルニュアのパシ教徒の心をつかみました」
「ススルニュアでは、パシ教徒が増えている」
シンが言うと、ナッドが続けてストーに説明した。
「先の戦いでは、神の雷を放ったオスキュラの前に多くのススルニュア人が命を落とし、苦しい生活を強いられました。そこにやって来たのが、パシ教の僧侶たちです。ティノスは力で屈服させた人々に、今度は手を差し伸べるように見せて強引に布教を始めたのです。パシ教に帰依するススルニュア人も増えていますがいくらパシの教えがすばらしくその信者となろうと、パシパのやったことに疑問を持つ信徒は多い。そして、ススルニュアを訪れたパシ僧の中には、彼らに同情し、彼らの助けになろうとする者がいたのです。こういった僧は礼拝所の運営を通して、ススルニュアの人々の生活や精神の支えになっています。ビャクグン様はそのことをよくご存じでした」
シンは頷いた。
「ビャクは、パシパに向かう途中でよくパシ教の礼拝所に寄っていた。そのことがパシパに入るのにも、大いに役立ったが……」
「ススルニュアの独立に、ススルニュアのパシ教徒の力を使おうというのでしょうか?」
ストーが目を丸くした。
「ススルニュアの独立は、ススルニュア人によって勝ち取られなくてはならない。それは簡単なことではないが……それにしても、ビャクは準備がいい」
シンが呟く。
「はい。しかし、ビャクグン様だけでは今回のことをここまでうまく成し遂げられたかどうか。アイサ様が皆の前にお立ちになる。それだけで、不思議と希望の火が灯るのです。それに、こう申し上げていいのかどうかわかりませんが……あの人は恐ろしく強い」
エルは瞳を輝かせた。
「アイサは、何か戦いに加わっているのか?」
シンは素早く聞いた。
「ススルニュアでは、パシパに逆らうパシの僧侶や信徒たちは、異端狩りの名のもとに、その命を狙われています。アイサ様はその人たちをお守りしています」
「アイサには無鉄砲なところがあるから……いや、アイサがみすみす大人しく僕を待っていると考える方が間違っているが……」
口ごもるシンを見て、ストーは厳しい口調になった。
「シン様を待っている? どういうことです? シン様、如何にクルドゥリの方々からの信用があろうと、パシパの炎を封じた功績があろうと、シン様がアイサ様をお妃にとお考えになるようなことは許されませんぞ?」
シンは黙り込み、ストーはエルに聞いた。
「まさか、その娘はススルニュアを立って、こちらに向かっているのではないだろうな?」
「グランに向かうと仰っていましたが、その先はわかりません」
エルはストーを睨み、ぶっきらぼうに答えた。
「行く先はクルドゥリだ。ここじゃない」
代わりにシンが言った。
「だが、再びネルを通って、グランに入るのだろうか?」
「いいえ、ビャクグン様はオスキュラのポン川沿いの街道を通ると……長旅になると仰っていました」
「何だって? オスキュラにとって、アイサは第一級のお尋ね者だぞ? パシパの炎や神の雷を信奉していた者たちにとって、アイサは殺しても飽き足らないはずだ。ビャクだってわかっているだろうに」
その心を表に出すことの少ないシンではあるが、この時、ナッドはシンの気持ちがはっきりとわかった。
「シン様」
不機嫌な声のストーをしり目に、ナッドはエルに問うた。
「護衛の方はどうなっている?」
「目立っては却って危険だからとお二人だけで……」
エルは答え、シンは顔をしかめた。
(確かに、ビャクにはクルドゥリの助けがある。人数が多ければ、それだけ目立つし、怪しまれるというのもわかる。だが……わかるということと、納得できるということは別だ)
俯くシンをナッドは見つめていた。
ここ、ファニで自分を出迎えたシンは、感情を表に出すことがなかった。
戦況を見つめ、冷静に駒を動かす時には、自身も一つの駒であり、自分の命に対してさえ、シンは無頓着だった。
ナッドは、今初めて、船で出会った時のシンに再会したような気がした。
話を終えたエルを帰すと、ナッドはシンとともに城へ向かった。
振り返れば、工事の責任者と話しているパンデイユとストーが見える。
(ストー殿、確かにストー殿は正しい。シン様は今、戦以外のことに気を取られてはいけないのだろうし、この戦で生き残ることができれば、シン様はやがてクイヴルの王子として他国の姫か、国内の有力貴族の娘と婚儀を行うことが求められるだろう。それが筋道なのだが……だが、ストー殿、それは少々酷ですぞ?)
シンとアイサのことを知るナッドは、小さくなるストーの姿にそっと文句を言った。
「この戦いが終われば、次はオスキュラと対峙することになる。だから、今のうちにオスキュラを見ておこうということか……」
シンの声が揺れた。
「シン様?」
「僕はオスキュラについて知らなすぎるようだ。いずれ、訪れてみたいものだ」
「はい、それもよいことでしょう。ですが、今は……」
「そうだった。今は、兄上との戦いに全力を注がなくては。兄上に勝ち、この国を安定させなくてはならない。それが終わったら、次はクルドゥリとの同盟の話となる」
「その時が楽しみですね?」
ナッドは明るく言った。
城門からシャギルが馬を飛ばして行く。
「どこへ行く気でしょう?」
「ああ、クロシュ周辺から、王都サッハに飛ぶ密書の出所の見当がついたんだな」
シンはこともなげに答えた。
既にシンはファニの城で見せる顔に戻っている。
ナッドも思わず気を引き締めた。
「シャギルが、自らですか?」
こう言いながらも、ナッドは納得していた。必要とあらば、シャギルは労を惜しまない。
「いくら隠しても、じきにサッハに攻め上ろうというのだ。こちらの情報がどこからも漏れずにいるなどありえない。だが、その情報はできるだけ少なく、しかも、遅れてくれれば、ありがたい」
ナッドが初めて船上で会った時のシンはもう見つからない。そこにいるのは、クイヴル国を奪回しようという若い王子だった。




