3.シン⑦
「それにしても、どういうことだい?」
朝食が終わって庭を歩きながら、シンはアイサに突っかかった。一方、食事の時にラダティスから城の蔵書を見る許可をもらったアイサは上機嫌で聞き返した。
「何が?」
「あの宝石のことだよ。結局姉上に差し上げて……」
シンは溜息をついた。セレンは最後には宝石を受け取り、大切にすると約束したのだ。
「失礼だったかしら?」
アイサは首をかしげた。
「そうじゃなくて。どうしてそう不用心なんだって言っているんだ。だいたい、そのまま立っているだけで十分怪しいのに、次から次へと人をびっくりさせるようなことはしない方がいいと思う」
「立ってるだけで十分怪しいって……」
文句を言おうとしたアイサにシンは畳みかけた。
「本当なんだから、仕方ないだろう?」
「わかったわよ。これから何かするときはシンに相談することにする」
アイサは気を取り直して言ったが、シンはアイサに疑わしそうな視線を向けた。
「これからって、アイサ、何をしようとしているんだ?」
「ねえ、シンはゲヘナ、または、力の火って知ってる?」
アイサは何気なさを装って聞いた。唐突な話に面食らったが、シンはすぐに答えた。
「ああ、古い言い伝えだ。その火は滅びの火とも呼ばれている。その火に人も動物も、何もかも焼かれて、しばらくは草も木も生えず、生き物の姿も絶えて見られなかったっていう火のことだろう?」
「そう、そして、その火が再び見い出されていたとしたら?」
アイサの瞳がシンを捉え、シンはどぎまぎした。
「まさか、そんなことがあるはずがない」
「シン」
アイサは真剣そのものだった。
「わかったよ。だけど、アイサ、何故そんなことを? いや、でも、そう言えば……前にオスキュラに逆らった遠くの町や村が不思議な力で滅ぼされたとストー先生から聞いたことがある。そのせいでオスキュラは急速に力を増したのだと。神の雷と呼ばれているらしいけど……先生はあの時、とても気がかりそうだった」
「神の雷か。もしそれがゲヘナなら、私はそれを何とかしなくてはならないの。そのために海の国からここに来たのだから」
シンの話に興味を持ったアイサは一気に言った。
「え、何だって? 君が……たった一人で? 正気かい?」
今度はシンがまじまじとアイサを見る番だった。
「いったい、どうする気?」
シンは恐る恐る聞いた。
「それが……ゲヘナを封じる方法だけは教わってきたけれど、その他のことが全くわからないのよ」
アイサは真面目に答え、シンは肩をすくめた。
「冗談にしても、間抜けすぎるよ」
「まあね」
アイサは空を見て笑った。
「ねえ、鳥っていいわね。水もないのに上へ上へと上がって行ける。私にもあれができたらなあ」
「何もないわけじゃあないよ。空気がある。それを翼で押していく。風があるからそれに乗ることもできる」
また急に話題が変わって面食らいながらも、シンは答えた。
こんな話は誰ともしたことがなかったと思いながら。
エモンが王都に戻り、ラダティスがファニ領を忙しく飛び回る中、ファニの城に滞在することになったアイサは、午前のシンの鍛錬を見物しながらセレンとおしゃべりをするのが日課になっていた。
「あれは、何ていう動物?」
シンの乗馬姿を見たアイサが聞いた。
「ああ、あれ? 馬……あれは、う、ま、って言うの」
セレンはアイサに向き合ってゆっくりと言う。
シンが自由に馬を操る様は見ていて気持ちがいい。
「う、ま、うま、馬」
アイサは口の中で何度か繰り返した。
陸の生物については知っているし、セジュでも育てられている。でも、実際にアイサが馬を見るのは初めてだった。
「戦いになったら、シンも馬に乗って戦うのよ。ほら、練習が始まったわ」
なるほど、先生は長い槍を用意し、シンに向かっていった。
シンはそれを巧みによける。
「シンは、あれ、使わないの?」
「ああ、槍のことね?」
「や、り、やり、槍」
アイサはこれも何度か繰り返した。
そんなアイサにセレンは続けた。
「今日は槍は使わないんじゃないの? 私にもわからないけど、今日は剣の稽古だから」
「長さが、違う。あれでは……不利、だわ」
アイサはシンとその馬の動きを目で追った。
先生に槍を振るわれて近づくことさえままならないシンは、逃げに徹する構えに見えた。が、巧みに馬を操り、一瞬の隙をつき、槍をはね上げると、シンの剣が先生の胸元に迫ってぴたりと止まった。
決して無理はしないが、チャンスと見ればシンは大胆だった。
「すごいわ、シン」
セレンが声を上げる。
シンの上達ぶりにセレンは大喜びだ。
「私も、馬に、乗ってみたい」
セレンの傍らでシンの動きを見つめていたアイサがセレンを振り返って言った。
「アイサ?」
そこにいるのは華奢で美しい女の子だ。だが、その瞳は今、生き生きと輝いている。
セレンは苦笑した。
「アイサ、何でそんなことしたいの? 危険よ」
「セレンは、乗れる?」
アイサはセレンに聞いた。
「ええ、一通り習ったから。でも、女の子はそんなものに乗らなくても馬車があるわ」
「馬車?」
「ええ、馬に車を取り付けて、それに乗るのよ」
「それじゃ駄目よ、セレン、お願い」
セレンは自分を窺う娘を改めて眺めた。白のブラウスに黒いズボン、アイサはもっぱらシンの服を着ている。その方が断然動きやすいという理由なのだが、それが似合っているのも確かだ。セレンの用意した服は手つかずのままで、それがセレンには気に入らなかった。
だが、アイサはその気になれば完璧な行儀作法を披露し、言葉を教えれば導き手である自分の予想をはるかに超えて素早く正確に覚える優秀な生徒だ。
何より、アイサは今ではセレンの良き話し相手だったので、セレンはついついその希望を叶えてしまうのだった。
「わかったわ。待っていて」
セレンは渋々立ち上がった。
「お待たせ」
セレンは大人しい気だての馬を用意させ、自分も馬に乗ってきた。
「セレン、すごいわ、近くで見ると、大きい、のね」
アイサは目を輝かせた。
セレンは、一通り手綱の使い方を説明し、それからアイサを馬に乗せて城の者に馬を引かせた。
「馬はとても敏感な生き物なの。人の気持ちがよくわかるのよ」
アイサに並んで馬を歩かせながらセレンは言った。
アイサは黙って馬に揺られている。
それからそっとその首を触った。
「わかるわ。セレン、私、もう乗れる」
「何言ってるの、アイサ?」
「大丈夫」
そう言ったかと思うと、アイサは馬を走らせた。
慌てるセレンたちに構わず、アイサの乗る馬はぐんぐんスピードを上げていく。
「アイサっ」
セレンは馬と一体になって駆けるアイサの姿を呆然と見つめた。
(あれが……初めてのはずがない。何をやっても秀でている。私の気持ちがよくわかり、機転がきく。特に無理を言うことはないけれど、いつの間にか、あの子の言う通りに自分が動いている……)
セレンは馬に乗ったシンがアイサの馬を追い、それから二人が馬を並べて話し始めたのを見て目を逸らせた。
(シンがあんな風に人と話すところを見たことがない。家族にさえ、シンは気を許す様子がないというのに)
セレンは面白くないと感じていた。




