3.シン⑥
なかなか寝付かれず何度も寝返りを打つシンの耳に、鳥たちの声が聞こえ始めた。
明け方が近づいていた。
その力は弱まっているが、月はまだ空にある。
アイサもまた、よく眠れなかった。
疲れているはずなのだが、気持ちが高ぶっているのだ。
(一日のうちに、いろいろなことがありすぎたからか? いや、決してそれだけじゃない。胸騒ぎがする……急がなければいけない……何かがそっと忍び寄ってくる。だけど、それは、何だ?)
アイサはしばらく自分の心臓の音を意識していたが、やがて、ゆっくりと息を吐いた。
(何かが近づいているにしても、焦っていいことはない。ここには多くの人間がいて、それぞれ自分の思うところがある。決して単純ではない。焦れば、見えるものも見えなくなる)
それからアイサの口元に笑みが浮かんだ。
(シンか……わかりやすい人だな。長い間にずいぶん変化したとはいえ、古代アヌ語は私たちの言語だ。まずは、言葉のわかる人に会えて良かった。何よりの幸運だ)
アイサはベッドからそっと起き上がり、テラスから庭に出た。
身の引き締まるような冷気の中、儚くなった月を見上げ、感謝の言葉を捧げる。
時を忘れて目を閉じていると、アイサは自分が明るく、暖かいものに包まれたのを感じた。
目を開くと黄金の光が差している。
日の出だ。
力強く、何もかもを肯定するかのような圧倒的な光の出現……アイサの知る、緩やかに美しいだけの光ではない。
そこには神々しい力があった。
「今度は日の出に見入っているのかい?」
振り返ると、庭木の間からシンが姿を見せた。
「それにしても、早いね」
「私は神殿にいたから早起きなのよ。あなたは何をしているの?」
「神殿? そこで何をするの?」
アイサの質問には答えず、シンは自分の興味を優先させた。
「あらゆるものの声を聞くために……耳を澄ますの」
アイサの答えは簡単だった。知らない者に説明しても無駄だと思ったのだ。
「ふうん。僕はよく眠れなかったんだ。仕方がないから起き出したら、ブランが君の姿がないと言って……」
シンはちょっと首を傾げた。
「私は疑われているってわけね?」
アイサの顔に冷淡な笑みが浮かぶ。
シンはそれに気づいたが、別に気にする様子もなく頷いた。
「多分ね」
「シン、あなたはどう思っているの?」
アイサは面白がるような様子で聞いた。
「わからない。でも、君が嘘をついていないのは確かだと思う」
「それで十分だわ。ありがとう」
「で、あの力のことだけど」
「それは……ストー先生が信頼できる人なら……その時、一緒に話せると思う」
アイサの答えにほんの一瞬残念そうな顔をしたが、シンはすぐに頷いた。
「わかった。ところで、もう一眠りしたら? 朝食にはまだ時間がある」
「いいえ。それより、もし差し支えなかったら、少しここを見て回りたいわ。昔読んだ本の中の建物に似ている」
「ああ、それもいいかもしれないね。この城は古いから。おや、ブランだ」
中庭の東屋の向こうから、ブランがやって来るのが見えた。
「シン様、お客様、こちらでしたか。朝食の支度が整っておりますので、ご準備をなさって下さい。ラダティス様がお目覚めならば是非ご一緒にと、お二人をお待ちでございます」
「随分早いじゃないか」
シンは言った。
「ラダティス様は、本日御領地の様子をご覧になり、その後、各町や村の長とお会いになるご予定でございますから」
「兄上は?」
「ラダティス様にご同行なさいますが、エモン様はそのまま都に戻られます」
「それも随分急だ。昨日、父上と一緒にお帰りになったばかりなのに」
「はい。ですが、昨夜、都から早馬で何やら知らせが参ったのです」
「そうか、わかった」
用件を伝えるとブランは去り、シンはアイサに言った。
「これから朝食だ。父上と兄上、そして多分姉上もいらっしゃる。少し、いや、かなり窮屈だし、失礼なこともあるかも知れないけど……我慢して欲しい」
「心配要らないわよ。慣れているから」
アイサは明るく保証して、軽やかな足取りでテラスの階段を上った。
部屋に戻ったアイサは顔を洗い、少し考えて、身に着けていたセジュの服の帯をいつもと違う、花の形に結んだ。それから髪をとかすと、窓辺の椅子に腰を下ろした。
間もなく遠慮がちなノックの音に続いて、小柄でかわいらしい人が侍女を連れて部屋に入ってきた。
「おはようございます、アイサさん。私はシンの姉、セレンといいます」
アイサは椅子から立ち上がって侍女を連れてやってきた娘を迎えた。
朝の光を浴びたアイサは黄金に輝いている。
「まあ」
セレンは思わず息を飲んだ。が、アイサと目が合うと慌てて言った。
「あの、失礼かとは思いましたけれど、着替えを用意させていただきましたの」
セレンはアイサに深い緑色の服を見せた。
アイサの着ていたセジュの服は薄い布でできていて、ここではいかにも寒そうだったのだ。
セレンの見せる服からその意を察して、アイサは昨日習った言葉を口にしてみた。
「ありがとうございます」
たどたどしいアイサの様子がかわいらしく、さっきの驚きはどこへやら、セレンはすっかりうち解けた気分になった。
「何もお持ちではなさそうだとブランから聞いたものですから……さあ、お手伝いしましょう」
首をかしげるアイサに近づいて、セレンはアイサの着替えを手伝いながら、その手を止めて思わず溜息をついた。
「きれいな人、本当に……どこからいらしたのかしら?」
アイサは黙ってセレンの瞳を覗く。
「ああ、あなたはここの言葉がわからないのだったわね? シンがストー先生から習った古い言葉を話すのだとか。それに……これはとても不思議な光沢をもつ服ね? 軽くて、柔らかい。見たことのないものだわ。きっと遠くからいらしたのね」
一方的にしゃべっていたセレンは言葉を切り、支度のできたアイサを眺めた。
(旅の一座の者だろうか? それにしては物腰が洗練されている。まるで都の人のよう。シンが人を連れて来るなんて初めてだわ。美しい子……だけど、この子はラルの川の畔でシンに見つけられた時、自分のことを全て忘れていたという……気の毒であることには違いない)
「私がお世話してあげますよ。ゆっくりここにいらっしゃい」
セレンは言った。
アイサにはセレンの言っていることがわからなかったが、その好意と親切が感じられた。
何か世話になるお礼をと思い、アイサは身につけていたポシェットを開き、その中から宝石をひとつ取り出した。
「これを、どうぞ」
「まあ……」
セレンについて来た侍女が目を丸くする。
「とんでもない、都でも手に入らないわ、こんな見事な宝石」
セレンはびっくりして断った。
アイサは精巧にカットされ、まばゆく輝く深い青の石とセレンを見比べた。
「お礼です、似合います」
アイサはにっこり微笑んで、セレンに宝石を渡した。
朝食の席にラダティス、エモン、セレン、シン、そしてアイサがついた。
朝からたっぷりと食べるのがこの地方の習わしだ。テーブルにはパンやスープをはじめ、次々と卵や肉、野菜料理が運ばれてくる。
「シンが人を連れてくるとは珍しい。聞けば、何もかも忘れてラル川のほとりにいらしたと? ここの言葉もわからないとか? 城の中でもその話でもちきりのようだ」
美しいマナーで料理を口に運ぶアイサに目を見張りながら、ラダティスは言った。
シンが伝え、アイサが頷く。
そんな二人を見てラダティスは穏やかに言った。
「ご不幸に巻き込まれ、お困りの方を手助けするのは我々の望むところです。が、しかし、今聞き及んだところによりますと、娘にたいそうなものを下さったとか。それは受け取るわけにはいきません。見返りを期待してのことではありませんからな」
「もちろんそうですわ」
セレンも頷き、宝石をテーブルに置いた。
シンがアイサに伝えると、アイサが首を振る。
「かけてくださったご親切にお返しできることがないようでしたので。長くはお邪魔いたしません。私の記念にでもしてくだされば」
それまで黙って食事をしていたエモンが宝石に目を止めた。それから、その目をアイサの言葉を伝えているシンからアイサ、そしてラダティスとセレンに向けた。
「父上も、セレンも、少し呑気過ぎるのではないかな? このクイヴルは存亡の危機に立たされているというのに、見ず知らずの娘を城に入れるなどと。いくらシンが言い出したこととはいえ、今は用心するに越したことはない」
皮肉な調子で言いながら、エモンはすかさず付け加えた。
「ああ、シン、今のは伝えんでもいい」
黙ってエモンを見つめるアイサに、ラダティスは言った。
「どうか気にしないで下さい、アイサさん。朝食のお味はいかがかな?」
「とても美味しいです。それにここは興味があるものばかり。ここの言葉を話すことができたら……どんなにいいでしょう」
シンがアイサの言葉を伝えると、セレンの瞳がみるみる輝いた。
「お教えして差し上げるわ」
「それがいい」
渋い顔をしたエモンを横目に、ラダティスは微笑んだ。




