3.シン⑤
彼らはポムの店を出ると、通りに紛れた。祭りに繰り出した人々でごった返す雑踏を抜け、城へ向かう道を歩く。
月が明るかった。
星もよく見える。
アイサは黙って夜空を見上げた。
明るく、弾んだリズムの曲が聞こえてきた。広場ではダンスが始まったようだ。
(音が空に吸い込まれていく。それでいて余韻は重い空気となって漂っている。お父様に聞かせたい。響きが違うのだ、お母様が生まれ育った世界の音は)
チュリが祭りの音を聞いているアイサをちらりと見た。
「シン、さっきアイサは何をしたんだ?」
チュリの顔には戸惑いと不信の色が浮かんでいる。セグルも黙ってシンを見ている。夜空を見上げていたアイサが出会って間もない彼らに目を戻した。
「僕にもわからないよ。でも、何故かアイサは信じられるような気がする。アイサを城に連れて行くよ。それから、ストー先生に会わせたい」
考え、考え、シンは答えた。
「アイサは絶対悪い子じゃない」
カヌがぽっちゃりとした頬を更に膨らませた。
「そうだな、俺もそう思うよ」
セグルは黙り込んだシンと真剣なカヌの顔を見て笑った。
カヌの表情が綻ぶ。
「またね、アイサ」
カヌが手を振った。
「城での騒ぎが見られないのが残念だ」
チュリがいたずらっぽく肩をすくめる。
「騒ぎ、か」
シンの顔が曇った。城で待つ詮索好きの姉、セレンのことが頭をよぎったのだ。
アイサを連れて城の門をくぐると、シンはいつものように通用口から中に入った。
「お帰りなさいませ、シン様」
厨房の先に執事のブランが立っていた。初老の男で、実直なのだが頭が固くてシンにとっては煙たい人物だ。
「シン様、ラダティス様とエモン様がお戻りでございます」
ブランはアイサなどそこにいないかのように言った。
「そうか」
「明日の朝食は、どうぞラダティス様とご一緒に。ところで、そちらの方は?」
ブランは、ここで初めて粗末な外套ですっぽりと身を覆っている娘に目をやった。娘と見えたのは、その長い銀の髪が外套のフードからこぼれていたからだ。
「ラル川の縁に倒れていた。記憶を失ってしまって、自分の名前しか覚えていないんだ。このあたりの言葉は通じない。ストー先生の客かも知れない。しばらく城に滞在してもらうから用意をしてくれ」
シンが答える。
だが、これを聞いてブランは眉を寄せた。
「それは、しかし……今は、ご承知の通り、不吉な影のさす世の中、よその領や他の国の間諜とも考えられます。どうか慎重に」
「わかっている。名前はアイサだ」
アイサがフードを上げた。
そのエメラルド色の瞳がブランを射る。
「お世話になります」
ゆったりとした声、見知らぬ言葉。
ブランがあっけにとられている間に、アイサは優雅にお辞儀をしてシンの後に続いた。
(美しいが……不思議な娘だ。それに、シン様が城に人をお招きになるのも初めてのことだ)
我に返ったブランは、久しぶりに戻った城主のもとへ急いだ。
「シン様が女の子を連れていらしたらしいよ」
シンが見も知らぬ客を連れて来たことが伝わって、城の片隅ではほんのりとともるランプの下で城仕えの者たちの遠慮のないおしゃべりが始まっていた。
「それが、みすぼらしい外套を着ていてね」
女たちが卑しい笑いを浮かべる。
「外套はコル爺のところで借りたそうだ」
「じゃあ、川で倒れていて何も覚えていないというのは、本当なのか?」
「シン様が付き合うやつらは……コル爺にしろ、先生と呼ばれてはいるがストーという男にしろ、ちょっとした腕の持ち主らしいが変わり者だ。クロシュにいる友だちとやらも、ろくでもない者ばかりだ」
下働きの男たちが顔を見合わせた。
「似た者同士ってやつかい?」
その場にいた全員の顔に意地の悪い笑みが浮かぶ。
「違いない。それに比べて、エモン様はたいしたもんだ。王都でも軍を任され、王の信頼も厚いそうだ」
「やはりな。王都には有力な知人も多いんだってさ」
城の者は、王都に顔の利くラダティスの実の息子エモンを高く買っている。
「そもそも、どこの誰だかわからないシン様を実の御子エモン様と同じに扱えとは……ラダティス様も無茶なことを仰る。皆、そう思っているぞ?」
「ラダティス様はシン様を大切にしすぎだよ。エモン様としては、シン様と同じ扱いにされるなんて我慢がならないだろうねえ」
「亡くなった奥方がいらしたら、今頃シン様は……」
「やめとこうぜ、その話はな」
年かさの女のセリフを城の警備兵が止めた。
「それに、セレン様の様子からすると……シン様は本当にこの城の一族になるかもしれないんだぞ?」
別の兵があたりを窺った。
「セレン様もあんな覇気のない方のどこがいいんだか……」
女たちが口をとがらせる。
「だが、ああ見えて武術の方はちょっとしたもんだ」
城の警備の兵が曖昧に笑った。
「へええ、そうなのかい? おい、どうした?」
一緒に噂に興じていた城の男が不意に黙り込んだのに気付いて、警備兵の一人が聞いた。
「ひょっとして……シン様は……本当にラダティス様のお子じゃないか?」
男が声を潜める。
「何が言いたいんだ?」
「ラダティス様は……ほら、城を空けていることが多いだろう? ひょっとしてサッハの都にでもいい人がいらっしゃったのでは?」
「まあ、貴族の方々のそういう話なら良く聞くが……」
「な? ラダティス様は……時に実の息子のエモン様より、シン様の方を大事にするように見える」
声を潜めた男は意味ありげに言った。
「ご友人のお子だと仰っているが……」
「怪しいじゃないか」
それに割って入ったのは城仕えが長い女だ。
「シン様がラダティス様の御子だという話は、ないね。お前さんもさっき言っていたじゃないか? シン様がひょっとしてこの城の一族になるかもしれないって。てことはシン様にはラダティス様の血は入っていないということさ」
「そうだねえ。セレン様があれだけシン、シンってついて回っても、ラダティス様は何もおっしゃらない。むしろ、それをお喜びのご様子だ。それに、シン様とラダティス様とではこれっぽっちも似たところなんてないよ」
別の女が相槌を打つ。
「やはり、ご友人の子か。ラダティス様も酔狂だね」
「もし、シン様とセレン様がご結婚なさるようなことにでもなれば、奥方はあの世で、さぞ悔しがることだろうよ」
訳知り顔をした男が言った。
「ああ、奥様は素性のわからないシン様のことを嫌っていらしたから。だが、たとえシン様がセレン様の夫になられても、エモン様がいらっしゃる。シン様の好きなようにはさせないさ」
「そういうこった」
「エモン様がいらっしゃる限り、このファニも安泰だな」
城の者たちは頷き合った。
シンは生まれてすぐにファニの領主ラダティスの城に引き取られた。ラダティスは自分の妻にも城の者にもシンについて詮索することを禁じ、その上、シンを自分の息子として自分の子らと区別なく育てるよう命じたのだ。
何も知らされない奥方は苛立ち、ラダティスとのわだかまりを残したままこの世を去った。
ラダティスの命令があるとはいえ、シンの擁護者であるラダティスは多忙で城を空けることも多い。
覇気と聡明さが目立つラダティスの実の息子エモンと、ひっそりと身をひそめるようなシン。いくら同等に扱えと城主ラダティスが言っても、いつになってもこの城に馴染まないシンと光の中を進むエモンとでは、城の者の態度が大きく違っていて当然だった。
噂話の種になっているとも知らずに、シンとアイサはちょっとした客間でブランの用意したお茶を飲んでいた。
「明日、ストー先生のところに連れて行ってくれる?」
アイサはお茶に添えてあるさくさくした焼き菓子が気に入ったようで、ご機嫌だった。
「そうだね、そうしなくては。先生が戻っていればいいが。僕はストー先生ほど物知りな人を他に知らない。先生なら、きっと君に教えてくれることがあるはずだ。僕にはそう思える」
(だけど、こうして見ていると、全く普通の女の子だな。でも、あの力は……)
シンはじっとアイサを見つめた。
「何?」
「アイサ、君、さっきポムの店で酔っぱらいをはじき飛ばしただろう? あれはいったいどうやったんだ?」
重々しく聞こうと思ったが、好奇心に負けて、シンはつい身を乗り出してしまった。
「お客様のお部屋が整いました」
扉のところでブランが咳払いをした。
「じゃ、また明日ね」
アイサはすっかりさっきのよそ行きの娘に戻り、足音も立てずにブランの後についていった。
(頭が混乱して眠れそうもない。あの出会い、あの言葉、それにあの瞳)
シンはベッドにもぐり込んだものの、目は冴えるばかりだった。
(海の国か……もしも、もしも本当にあるのなら、行ってみたいものだ。そこは僕の国とどれほど違うのだろう?)
シンは祭りで見た旅の楽人を思い出した。
(僕が知っているのは、この城とクロシュの町、それもほんの一部に過ぎない。僕が知っているのは……)
城でのことがぽつり、ぽつりとシンの胸に浮かんだ。
自分がラダティスの本当の息子ではないということを、シンは物心のついた頃から知っていた。
兄よりも、姉よりも自分を大切にする父に、兄が問いつめていたのを耳にしたのだ。
「大切な方から預かったのだ。友であるこの私に託すとな」
ラダティスはそれ以上のことは何も語らなかった。
留守がちなラダティスに代わって城を預かっていたラダティスの妻は、シンに冷たかった。
(気を許すことはできなかった。自分が邪魔者なのだと気づいたのは、いつだろう……)
シンは人目のつかぬ所で暴力をふるわれたり、変な匂いのするものを食べさせられそうになったことを思い出した。
そのたびに見知らぬ男が助けてくれたが、シンが自分で何とかできるようになるといつの間にかその男はいなくなり、代わりにストーという風変わりな男が城の近くに住み着いた。
そして、そこが初めてシンが安心してくつろげる場所になった。
(母上が亡くなると、姉上が母親代わりとばかりに僕の世話を焼くようになった。僕を兄上のように立派な領主の息子にするのだと決めたらしい。僕のためを思ってのことだとわかっていた。余計なもめ事もごめんだった。だから礼儀作法や学問、武道や乗馬を必要最低限の義務として精を出してやっているのだ)
そんなシンが剣の練習をしているときに、兄エモンがふらりと現れて、シンの相手をしたことがあった。
エモンは力が強く、シンの剣では防ぎきれない。数合打ち合ううちに、シンの剣は弾き飛ばされ、追い打ちをかけるエモンの剣先をよけて逃げ回っているうちにシンは壁際まで追いつめられた。
エモンの剣はすんでのところで止まったが、その後エモンはシンの足を払い、腹に肘を打ち込んだ。
シンは苦しさのあまり呼吸ができずにうずくまった。声も出ず、周りを見回したが、剣術の先生はもちろん、姉も、騒ぎを聞いて様子を見に来た者たちも、誰もがエモンに遠慮してシンを助けようとはしない。
助けてくれる者がない中で痛みをこらえ、なんとか起き上がって顔を上げたシンにエモンは言った。
「本性を見せてみろよ。その気取った顔の下に一体何を隠している?」
『本当に、何を考えているのかしら? かわいげのない子だこと』
エモンの母の言葉が重なる。
「隠していることなんか何もない」
シンがこう言った瞬間、エモンの一撃が顔面を襲った。うまくかわせず……血の味がした。城の者たちがざわめく。その中から、城を訪れていた軍人風の男が出てきた。
「そこまでになさいませ」
「父上の客人のお言葉だ。ここまでにしておこう。だが、シン、せいぜい鍛えておけ。そうしないと、いつか命を落とすぞ?」
自分を止めた男を振り返り、エモンは面白くなさそうに去って行った。
その頃のエモンは王都で領主や貴族の子弟が学ぶ学舎を出て、サッハの軍に入ったばかりだった。
今ではエモンは王都の警備の役目を担い、王の軍を預かるまでに力を伸ばしている。
ほとんどファニの城にいないのも当然だ。
(それは大変有り難いことなのだが……)




