3.シン④
一方、アイサの方も不思議な気持ちでさっき知り合ったばかりの、野蛮で油断がならないはずの地上人たちを眺めていた。
(恐ろしいはずの地上だというのに……彼らといると自由に息が吸える。ここでは自分が何者でもないからだろうか?)
「どうかした?」
セグルが聞いた。
「そうだ、言葉を教えてあげる」
「そりゃあ、いい」
カヌが言い、チュリも頷いた。
「僕らが向かっているのはクロシュの町。ク・ロ・シュ」
チュリがゆっくりと言う。
「クロシュ?」
アイサがシンを見る。
「この町の名前だよ」
シンが答える。
「これが道」
「そして君がコル爺さんのところで借りた外套」
「ついでに頭にかぶっているのはフード」
「道。外套。フード」
アイサはカヌやチュリ、セグルの言葉に一つ一つ頷き繰り返す。
そんな調子で彼らはクロシュの街に向かいながらアイサに簡単な単語を教えていたが、広場に近づくにつれて落ち着かなくなった。
「間に合ったようだな」
セグルが背伸びをして広場を見た。
シンの仲間の中で一番背が高いのがセグルだ。
体格もいい。
父親はファニの軍に所属していて、父子とも正義感が強かった。
シンはラダティスの息子ということにはなっているが、養子だということは誰もが知っている。そのため、城の中では正当な長子であり、実力もあるエモンに肩入れし、シンのことをやっかい者と感じる者が多い。
自然にシンは居心地の悪い城を出てストーの家に入り浸るようになり、それから、やがてこっそりクロシュの町をふらつくようになった。
そんなシンのことを見かねて声をかけたのがセグルだ。
「アイサ、こっち、こっち」
カヌが人混みの中、アイサを引っ張った。
「何が始まるの?」
夕闇の迫る広場にはかがり火が焚かれている。
「ダンス劇のようなものだよ。毎年この踊りで春祭が始まるんだ」
みんなで広場の最前列に滑り込むと、シンはアイサに説明を始めた。
「まず、この近郷の者が選ばれて、二つのグループに分かれるんだ。白い方が冬の精、緑の方が春の精、それで春の精は冬の精からその帽子を奪わなきゃいけないんだけど、そう簡単にはいかないんだよ」
確かにそのようで、冬の精達はひらり、ひらりと、足に重りをつけられて動きの鈍い春の精たちをかわし、彼らをからかって観客を沸かせていた。
それから大きな太鼓の音がすると、一人の老人が現れ、今まで春の精の足にはめられていた重りをはずす。
軽快な音楽が流れ、冬の精は滑稽な様子をして逃げ回り、そのとんがり帽子が次々と春の精たちに奪われると、人々がわっと歓声を上げた。
次は太くて長い綱が運び込まれた。
「何をするの?」
「綱引きだよ」
「綱引き……綱を引いてどうするの?」
アイサは聞いたが、シンはちょっと笑っただけだった。
「まあ、見ていてごらんよ」
綱引きにはよその村からの飛び入り参加が認められていて、各村の力自慢の男たちが名乗りを上げるたびにどよめきと歓声が上がった。
文字通り二つのチームが綱を引き合うという単純な競技だが、参加する人たちは真剣そのものだ。見ている側にもそれが伝わり、思わず力が入る。声援を送る人たちの熱気に圧倒されそうだ。
「白が勝ったね。今年はたくさん子羊が生まれ、乳もとれるというわけだ」
シンが言った。
「緑が勝つとどうなるの?」
アイサが目を輝かせる。
「野菜や果物が豊作だ」
「では、黄色は?」
「麦がよくとれる」
「ふーん、じゃ、どこが勝ってもいいのね?」
「そういうことだね」
シンはアイサに答える自分の声が弾んでいるのに気が付いた。
アイサといると、いつもの祭りが全く異なったものに思われる。それがシンにはどうにも不思議だった。
「そろそろだな」
「さあ、今年はどうなるかな?」
すっかり暗くなった空を見上げてチュリとセグルが笑う。
「アイサ、アイサ、空を見ていて」
カヌが大声を上げて上を指さした。
「空?」
やがて轟音と共に広場の上空に花火が上がった。
「花火だよ。は・な・び」
空に上がった花火とカヌの口を見つめてアイサは頷く。
「花火」
「そうそう」
カヌは手を叩いた。
花火は広場で見るのにちょうどいいようにクロシュの町の郊外で上げられる。花火が人々の喜びに火をつけた。
次々と上がる花火に歓声が上がり、花火が終わって熱気の収まらない広場では、大道芸人達の音楽や手品が始まる。
「今年の花火は上手く行ったみたいだ」
シンが言った。
「ああ、去年なんかボヤ騒ぎがあって大変だった」
セグルが肩をすくめる。
「それも春祭のうちさ」
チュリが笑った。
「一回りして来ようよ」
カヌが走り出す。
「おい、はぐれるなよ」
セグルが怒鳴り、みなカヌを追った。
大人、子ども、若者、年寄り、男、女……
アイサはこれほどまで雑多な人の中で歩いたことなど一度もなかった。
聴いたことのない音楽、嗅いだことのない匂い、人々の熱気。そのすべてにくらくらしながらもセグル、チュリ、カヌ、そしてシンに続く。
物売り、小さな楽団、手品、踊り……
その一つ、一つを見て回っているうちに、ふと、アイサの足が止まった。
アイサが足を止めて見つめる旅の楽人は、この地方とは明らかに違った衣装を身につけていた。この地方の落ち着いた色合いの服よりも、随分派手な感じだ。
(何故だろう……この曲、この歌、知ってる……)
「気に入ったのかい?」
シンも足を止めた。
彼らが演奏していた曲は、いっぺんで古いものだとわかるゆっくりとしたもので、取り囲む人々もそれぞれが遠い昔を思い出しているように見えた。セグルも、チュリも、カヌも、足を止めてうっとりと聞き入っている。シンも耳を傾け、曲に引き込まれかけた……が、すぐにそれどころではなくなった。アイサが歌い始めたのだ。音楽に合わせて高く、低く、流れるように。
演奏していた四人が顔を上げる。
すっぽりとフードをかぶったアイサに人々の視線が集まった。
「ああ、いい声だなあ」
カヌが言った。
「この歌、知ってるの?」
「この歌詞はアイサの国の言葉なのかい?」
セグルとチュリも感心したが、シンはそれどころではなかった。得体のしれない不安がこみ上げる。
「古代アヌ語は、今では使う人はいない……アイサ、君には何か事情があるはずだ。それなのに、こんな所で目立ってどうするんだ?」
古代アヌ語で声を荒げる自分に驚いて、シンは慌てて口をつぐんだ。
「そんなにガミガミ言わなくてもいいじゃないの」
思わず言い返したアイサも驚いていた。
こんな風に気安く言い返すなど、初めてのことだったのだ。
「行こう」
シンはぶっきらぼうに言った。
「そうね」
見回せば、確かに人々の視線が自分に集まっている。
「お前がそんな風になるのを初めて見たよ」
そう言ったチュリは面白そうにセグルと顔を見合わせ、カヌはハラハラした様子でシンとアイサを見守った。
「それどころじゃないだろう?」
シンは二人の冗談に乗る気はなかった。
「ああ、面倒なことになりそうだ」
事情を聴きたげな大人たちを見てチュリが頷く。
シンに急かされ、セグル、チュリ、カヌはアイサを連れてそそくさとその場を去り、ポムの店で腹ごしらえをすることにした。
満員のポムの店の中に何とかテーブルを見つけ、なみなみとビールの注がれたグラスを手にすると、カヌが待ちきれないように言った。
「乾杯しようよ」
「ああ、俺たちの春祭に」
セグル、カヌ、チュリがグラスを干す。
シンは隣のアイサを窺い、小声で尋ねた。
「君、ビール飲めるの?」
「苦いけど……何とか飲める」
アイサは頷いた。
「全部飲む必要はないから」
シンは念を押した。
「さあ、次は?」
口を拭ってカヌが聞く。
「次はクロシュだ」
セグルが空になったグラスにビールを注ぐ。
「よし、俺たちのクロシュに乾杯」
チュリが勢いよくグラスを上げ、一気に飲み干した。
「新しい出会いにも乾杯だ」
セグルも明るい声でグラスを上げる。
「乾杯」
チュリが再び満たしたグラスを空ける。負けじとそれに続いたカヌは、いつものように目を白黒させている。
「おい、シン、どうしたんだ?」
「いつもと違うぞ?」
「そんなことないさ」
すっかり陽気な気分になったセグルとチュリに答えながら、シンは上の空でグラスを空けた。
(さっきもあんなに迂闊に歌なんか歌い出したんだ。これから何をやり出しても不思議じゃない。海の国だって? 冗談にしても突飛すぎる。あの言葉にしたって……どういうことだ? ああ、だけど、どうしてこう気がもめるのかなあ。とにかく、早くストー先生のところへ連れて行かないと……)
おっかなびっくりビールに口を付けているアイサを見て、シンは気が気ではなかった。そんなシンにお構いなく、上機嫌のチュリがアイサのグラスにビールを満たす。それからカヌを小突いた。
「ところでカヌ、おまえ、親父さんの手伝いで朝早いんだろう? 飲み過ぎない方がいいぞ。そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
カヌの父親は森林の管理をしていて、木材を得たり、木炭を作ったりしている。そこでキノコを栽培したりもする。カヌはその父親を手伝ってよく働いていた。
「何言ってるんだい? どんなに遅く帰ったって、明日の朝にはちゃんと起きられるさ。そうだ、ポムのおじさん、今度いいキノコを持ってくるよ」
「そりゃあ、楽しみだな。さあ、お前たち、そろそろビールはおしまいだぞ。これでも食べるんだな」
珍しそうにアイサを見たこの店の主ポムは、焼きたてのミートパイの皿を手渡しながら笑った。
「いつ食べても美味いなあ。俺、鍛冶屋の仕事を継ぐのはやめて、ポムさんに弟子入りしたいよ」
特大のミートパイを頬張りながらチュリが言った。
「その方がお前に向いているかもしれないな」
セグルが笑った。
「そうだね」
カヌの瞳も輝く。
それからカヌは楽しそうに聞いた。
「それで、セグルはどうするの? お母さんの店を継ぐの?」
セグルの母親はクロシュの街中で小さな食料品店を営んでいるのだ。
「そうだな……俺としては、おやじみたいに軍に入ろうかと考えているんだが……シンはどうするんだ?」
「えっ……ああ、別に、まだ何も……」
ビールのグラスを置きながら、シンは言葉を濁した。
「まあ、シンのことなら心配ないか。ラダティス様が何か考えて下さるだろう」
チュリは簡単に言ったが、シンの心は重かった。だが、シンのそんな様子に気づいたのはアイサだけで、祭りの雰囲気とアルコールのせいでますます陽気になった三人の声は次第に大きくなっていく。
そんな彼らの関心の的はアイサだ。
「ほんとに何も覚えていないのかい?」
セグルが聞いた。
「ねえ、どうして俺達の言葉がわからないの?」
カヌも聞いた。
チュリが残念そうに続ける。
「あの歌はきっと君の国の歌だよ。あの楽人たちに聞いてみればよかったな」
「そうだ、今からあの人たちを探そうか?」
カヌがふらふらと立ち上がった。
「ちょっと声が大きいんじゃないか?」
はらはらするシンが見回すと、周りの客がちらちらとアイサを窺っているのがわかる。不意に、近くを通りかかった酔っぱらいがアイサにぶつかった。その拍子にフードで隠されていたアイサの銀の髪と緑の瞳が露わになる。
見ていた客がその美しさに息を飲んだ。その客たちの中で、シンは店の隅で飲んでいた老婆が、鋭い目で彼女を窺ったのを視界の端で確かに見た。
(早めに帰った方がいいかもしれない)
シンがそう思ったときだった。
「失礼。見かけない顔だが……どこから来たんだね?」
見知らぬ客が近づいてきた。
「さっきから聞いてりゃあ、自分のことを何も覚えていないだって?」
そう言った客は立ち止まり、アイサに見入った。
「そりゃあ、不思議な話じゃないか?」
ぶしつけな視線がアイサに絡まる。
「何だったら、俺たちが力になれるかも知れないぜ? 何しろ俺たちは世の中をよく知っているからな」
「止めてくれよ」
セグルが言った。
「何言ってんだよ、小童が」
別の酔っぱらいがアイサに触れようとしたとき、彼は何かにはじき飛ばされた。
周りにいた客たちは何が起きたのかわからずに呆然としている。
「引き上げよう」
シンはきっぱりと言った。
訳はわからないながら、セグルたちの反応も早かった。
「おじさん、金はここに置くよ」
「ごちそうさま、ポムおじさん」
チュリとカヌが続く。
シンが再び老婆の方を見ると、老婆はもうどこへともなく消えていた。
(とにかく長居は無用だ)




