6.ネルの砦⑪
ビャクグンが戻って安心したアイサは、朝食というにはずいぶん早い食事を済ませるとビャクグンに勧められて横になった。が、ふとした気配に気づいて目を開けると、薄いカーテン越しにシオンの姿が見えた。
ハビロがアイサの手をぺろりとなめる。
「アイサ、起きたのね?」
アイサの気配に気づいたビャクグンが言った。
「ビャク、またどこかに行くの?」
「ええ、一日か二日留守にするわ」
アイサはわずかに張りつめた感じのするビャクグンを窺った。
「ビャク、私に手伝えることはない?」
「まあ、アイサはそんなに張り切らなくてもいいんじゃない? はい、お茶」
ビャクグンは簡単なベッドから起き出したアイサにお茶を渡した。
「では、アイサ様、私はこれで」
シオンがアイサに挨拶してテントを出て行く。外はすっかり明るくなっていた。
「さて、後をよろしくね」
ビャクグンも立ち上がり、慌ててお茶を飲み終えたアイサもじっとしていられなくなった。
「私、城郭の中を一回りして来ようかな? どうせ、これといった用事はないんだから」
「私もトハナミの街で買い物でも楽しみたいところだけど、あいにくあちこち用事を抱えてるから……アイサ、出かけるなら用心しなさいよ」
テントの外にクルドゥリの仲間が見えた。
「ビャクこそ、気を付けてね」
アイサはシオンたちを従えるビャクグンの背に向かって声をかけた。
ビャクグンが出かけると、アイサはコウに頼んでネルの女性の服を借り、ネルの女がよくするように綺麗な色の織物を頭から被ってテントを出た。
テントの周辺はスナミ王子の兵によって一段と厳しく警戒されている。トハナミの街も同様だろうと思われた。
(この服もいいけれど、こんな時あの姿を消せるベールがあると便利ね。ああ、シンはどうしているかしら? 無事でいるだろうか?)
「どこかへ行くのか?」
アイサがシンのことを考えていると声をかける者があった。自ら町を見て回るスナミ王子だ。
「トハナミの町の見物をしようと思って」
アイサは王子に従う兵たちの物珍しそうな視線を避けながら言った。
「では、ちょっと待て」
スナミはアイサを待たせ、自分のテントに行くとフードのついたマントを着て戻って来た。
毛皮の襟を立てて深くフードを下ろすと、王子の顔はほとんど見えない。
「あなたと出かけるなら、こんな感じでどうだろうか?」
「いいの? こんな大事なときに?」
アイサは上から下までスナミを眺めながら聞いた。
(こんな不審人物と行動を共にして、やっかいなことに巻き込まれたくないものだわ)
アイサは心から思ったが、スナミはアイサの心配をよそに請け合った。
「構わない。見回りが王子から商人に変わっただけだ」
スナミは胸を張った。
(これは商人だったのか……)
アイサは再びスナミを眺め、諦めた。
「それじゃ、せっかくだから人の多いところへ行ってみたい」
「それでは広場の方へ行こう。まだ多くの店が残っているはずだ。お前たちは予定通りに回ってくれ」
スナミはそう言うと、ごみごみした通りへアイサを連れて行った。
肉を焼く匂いやアイサにとって珍しい香辛料の香りがしてきた。のどかな昼下がりのはずだが、人々の態度がどこか落ち着かない。
「旅の人かい?」
アイサがスナミとネル産の金を使った細工ものを眺めていると、店の主が声をかけた。
「ああ、商売でトハナミにやって来たんだが、どうやらとんでもないときにぶつかってしまったようだ」
スナミは困ったように言った。
主はうさん臭そうに得体のしれない商人を眺めたが、害がなさそうなのを見て取るとアイサに目を移した。
「こちらの方は? 遠くから来たのかい?」
「ああ、大切なお客の娘さんさ。こんな時だが、町を見てみたいって仰るんでお連れしたんだ」
地元の女の服を着ていても、一目でアイサはこの地方の者ではないと分かる。主人は張り切った。最近ではオスキュラ以外のよその者はこのあたりでは珍しいのだ。
「そうかい。トハナミの街を見たいのかい? ここでは金が有名だが、チーズも味が濃くてうまいんだ。まだ食べたことがないのなら、ネルのチーズを食べてみるといい」
主が親切にアイサに言い、手頃な店を教えていると、近くで言い争いが始まった。
「どうしたの?」
振り返るアイサに、店の主が答えた。
「この頃王様の具合が悪くてね。ここは王と王子の城郭だ。みんな王子びいきだが、いつ王の弟クラトス様がここに手を出してくるかわからない。みんなぴりぴりしているのさ」
「クラトス様が手を出して来たら、どうなるの?」
いかにも何も知らない様子でアイサは尋ねた。
「王子はここの守りを固めている。戦いになるだろうな」
「それじゃ、おじさんはどうするの?」
「どうにもしようがないのさ。他に行くところもないからね」
改めて見てみると、店の品の中に高価なものはない。どこかへ隠したのだろう。
「よその人は早くここを出るんだな。それが利口というものだ」
主はそっと言った。
アイサは主に礼を言い、あちこちのぞき込みながらスナミの後について歩いた。
「いつクラトスが攻めてくるかも知れないのに、残っている人も多いのね」
「ああ、あのおやじの言う通り、行く先が無い者も多い」
「王子びいきだって言っていたわ」
「みんな義理堅いな」
スナミは苦笑し、それから真顔になった。
「もし俺が負けたら、叔父がここの者たちにどんな仕打ちをするかわかったものではない」
「負けられないわね」
アイサはあっさり言ったが、スナミは真面目な顔をした。
「ああ、だが、あなたはどこかに身を隠した方がいい。やつらに見つかれば、今度こそオスキュラに連れて行かれるぞ?」
「私、この町が気に入ったわ。チーズは美味しいし、路地は入り組んでいて何が出てくるかわからないくて面白いし、町の人は親切だし」
「そんなことを言っていられなくなるぞ。町の富はことごとく奪われ、男はなぶり殺し、女は乱暴され、多くは死ぬだろう。あなたもオスキュラに連れていかれるだけでは済まない。町を出て森に身を隠せ。俺に心当たりがある。そこで風の民の助けを待つんだ」
スナミは珍しく諭すように言った。
「私はオスキュラと戦う気なのよ? それなのにネルがオスキュラに取られるかどうかっていう肝心な時に、ここから逃げ出してどうするのよ?」
「しかし……」
「大丈夫、ビャクには考えがあるようだから」
アイサはまっすぐにスナミを見た。アイサには不安も焦りも見えない。
「アイサ」
(不思議だ……俺は戦いに負け、無残に殺されることになるかもしれない。そうなれば、俺について来る者たちまでも、むごい目に合わせることになるだろう……だが、それでもこの道を行こうと思える。この娘は暗闇を行く者には大いなる光だな)
先を歩き始めたアイサにスナミは我知らず声をかけていた。
「アイサ殿、これから王に、父に会ってはくれぬか?」
「ええ、喜んで」
アイサは振り返り、頷いた。




