6.ネルの砦⑧
「皆が動けないのは薬のせいだ。すぐに回復する。それより、スルガ隊長はパシパの炎を封じてくださったこの方をご自分の責任でお助けするつもりだ。俺もついていく。お前は部隊に戻って待機していろ」
エイルが言った。
「スルガ隊長が? エイル殿もですか? わかりました」
報告に来た兵はスルガと副官エイル、そしてアイサを見、それから唇を引き結ぶと、ふらつく足取りで部屋を出て行った。
「あんなことを言って大丈夫ですか?」
シオンが聞いた。
「この部隊に隊長を裏切る者はいません」
エイルが頷く。
「そのようですね。では」
ビャクグンは優雅に部屋の椅子にかけた。その目がスルガを捕らえる。それだけでスルガは身動きができなかった。
「あなたは……いったい何を考えている?」
「スルガ殿、私はあなたのお力をお借りしたいのです」
ビャクグンは微笑んだ。
「あなたたちは無事にお返しする」
「そのことではありません」
「他に、私にどうしろと?」
「あなたと、あなたの部隊に寝返っていただきたい」
ビャクグンは静かにスルガの答えを待った。
スルガの表情が曇る。
「それは無理な話だ。ヒュメゲルを拘束した時点で、すでに私は裏切り者となった。オスキュラは何としても私を捕らえ、罰しようとするだろう。それは構わない。後のことは運任せだ。だが、この隊の連中はそれぞれ事情があってオスキュラの兵になっている。私は隊長として彼らの命を預かってはいるが、彼らの意思は彼らのものだ」
「そうかもしれません。神の雷がまだオスキュラの手にあるなら」
「どういうことだ?」
「思い出してください。パシパの炎には、もう誰も近づけない」
「ええ。そして、時がたてば、あの炎は消えるわ」
アイサも言った。
ビャクグンが頷く。
「そう、だから、神の雷がなくなった今、ススルニュアがオスキュラを恐れる理由はない」
「確かに……」
エイルはそう言ってスルガを見た。
スルガは自分のざわめく気持ちを抑えるのにやっとだった。ビャクグンはそんな二人をゆっくりと見た。
「王弟クラトスの後ろ盾になったオスキュラの片棒を担いだあなたたちは、次はグランに侵攻するために使われますよ?」
「しかし……もちろん、我々もオスキュラのために命など賭けたくないが、それしか家族を養う道がないのだ。あの火がなくなった今も、オスキュラはススルニュアを脅かしている。豊かだった農園は奪われ、町は破壊され、ススルニュアに戻っても我々には生きるすべがない」
スルガは絞り出すように言った。
「ならば、この部隊、丸ごとこちらで雇いましょうか? オスキュラの兵であるよりはましでしょう?」
「それは……」
「国の了解を待つ時間がない。あなたがセジュから持ってきたあの宝石を使う。いい、アイサ?」
「もちろんよ」
アイサは大きく頷いた。
「あなたは幻の国クルドゥリの次期長老だと言った。あなたは何を考えているのだ?」
「人々の知識や技術はこれから急速に進む。我々が今までのように他国を凌ぐ力を持ち、漫然としていられる時代は終わったのです。これから我々は国を開く。その前にオスキュラにはくぎを刺しておきたい」
ビャクグンの静かな気迫が伝わる。
スルガは今度はその目をアイサに移した。
「あなたは?」
「私が初めて地上で出会ったのはクイヴルの王子シンでした。私があの火、ゲヘナを封じるために命がけで力を貸してくれたシンを、今度は私が助けたい」
「そのためにネルへ?」
「ええ、オスキュラをクイヴルの北にのさばらせておきたくないの」
目を丸くするスルガにアイサは答えた。
「アイサは単純でいいね」
ビャクグンが笑う。
「ついでに、俺はこのままオスキュラに国をとられる気はない」
スナミがここぞとばかりに口を挟んだ。
「あなたが王となった時には、クルドゥリはネルに同盟を申し込むことにしましょう」
「あなたが長老である限り、その話に耳を傾ける」
迷いなく答えたスナミに頷いたビャクグンが、再びスルガに聞いた。
「どうですか? 近いうちにススルニュアがあなた方の力を必要とする時が必ず来ます。オスキュラのために働いている場合ではありませんよ?」
「あなたの……言う通りかもしれん」
スルガは腕を組んだ。
「ここにいる者はみな、心の底ではオスキュラを憎んでいる。パシパの炎を封じ、神の雷を滅ぼした娘を捕らえたと聞いたとき、俺は母国の恩人とも言える人をオスキュラに渡していいものかと思った。まして、ススルニュアに戻り、国のために戦えるのであれば……わかった。皆を説得してみよう。他の者もきっと同じ気持ちだろう」
「そうです。それに、ここでこの娘を渡すようなら、我々はあの火のせいで死んでいった同胞を裏切ることになります」
エイルも心を決めた。
「しかし、まだまだ俺たちは苦しい。これからどう戦えばいい?」
スナミの陰に隠れていたコウが聞いた。
「本隊にはここ以外にもまだススルニュアの部隊がある。俺の懇意の者もいる。何とか働きかけてみましょう」
スルガが言った。
「お任せします。ただし、期限は明後日の夜までです」
「期限とは?」
スルガがビャクグンを見た。
「クラトス軍とオスキュラ軍をちょっとつついてみようと思っているので」
「ビャク、どうするの?」
「彼らが互いに離れているところを利用してみようかと」
これを聞いたスルガが首を振った。
「何を考えているか知らんが、無理だ。クラトスのいるギランの居城とオスキュラ本隊の間では、頻繁に連絡を取り合っているはずだ」
「ギランと本隊の触覚は、もう切り落としてあります」
ビャクグンはシオンを見た。
「そうなのですが、ビャクグン様、厄介な人物がひとり……ロッツといって本隊の隊長の右腕で策略家、彼は侮れません」
答えるシオンの表情が硬い。
「ロッツのことを知っているのか? あなたたちはネルに入ったばかりなのではないのか?」
目の前の華奢な男とその部下たちは敵ではない……そうと知りながらも、スルガは思わず背筋が冷えた。
「ロッツって?」
アイサが聞く。
「オスキュラ本隊にいる参謀だ。こいつは手強いとデュルパが言っていたぞ?」
スナミが答えた。
「そのロッツが地理に詳しい土地の者を呼んだと、ここに来る途中で耳にいたしました」
そう言いながら、シオンはビャクグンを窺った。
「手強い参謀が自ら動く……か。なんとかしてみましょう」
ビャクグンが頷く。
「ビャク、あのヒュメゲルやペルトはどうするの?」
アイサが書庫に目をやった。
「ああ、ここからうまく逃げさせてあげないとね。彼らにはネルに駐留するオスキュラの本隊長にここで起こったことを伝えてもらわなくてはなりませんから」
「罠を仕掛けるのね?」
アイサの言葉にビャクグンは頷いた。
「で、俺はどうすればいいんだ?」
スナミが聞いた。
「トハナミで待っていて下さい。そのうち怒濤のように王弟クラトス軍とその後ろ盾オスキュラ軍が押し寄せます。これを迎え撃ってもらわなくては。一番いい役どころです」
ビャクグンは答えた。
「いくらススルニュアの傭兵が味方になってくれるといっても……勝ち目があるのかなあ?」
コウが王子を見て首をかしげると、王子はコウを見て肩をすくめた。
「よほどの奇跡が起きない限り、無理だろう」
「あなたにはお考えがあるのですね?」
コウがビャクグンを見た。
「ええ。あとは王子次第です。さあ、トハナミで準備を整えて下さい」
きっぱりと言ったビャクグンにコウは頷いた。
「わかりました。とりあえずトハナミでお手並みを拝見いたしましょう」
「大人のような口をきくのね」
アイサが微笑むと、コウはアイサに古風なお辞儀をしてスナミの側に控えた。
「コウって不思議」
アイサが首をかしげる。
「あの子はバラホアと縁がある」
ビャクグンの言葉に、スナミも、当のコウも声を失った。これを知るものはごく少ないはずだ。
「バラホア……」
アイサの表情が変わる。
「初めて会った時、腰に差していた短剣、あれはバラホアのものだ。きっと今度の戦いで役に立ってくれる」
ビャクグンの声には温かいものがあった。
「あなたは何もかも知っているかのようだ……風の民……彼らはネルの大事に助言をくれると言われてきた。俺もその言葉に従おう。だが、ここではもう俺は用なしだな。引き上げるか」
帰ろうとするスナミにビャクグンが声をかけた。
「王子、アイサを一緒に連れて行ってくれませんか?」
「ビャク?」
「アイサ、私は今から用事を済ませてきます」
アイサだけではない。その場にいた者の視線がビャクグンに集まった。
(ビャクはロッツを討つ気だ。これから起こることはすべて現実。目をつぶって済ませられるものではない)
「ひとりで行く気なの?」
アイサの口から思わず言葉が漏れた。
「心配はいりません。朝までにはアイサの所へ戻るから。スナミ王子、スルガ殿、では、また」
ビャクグンには、柔らかくはあっても有無を言わせぬものがある。それぞれが黙って見守る中、ビャクグンはシオンたちとともに部屋を出て行った。
(もう……本隊に切り込む気だ)
バラホアの民であるコウは、巷では風の民と呼ばれるクルドゥリのことを他の者よりもずっと良く知っていた。だが、そのコウでもこの次期長老の動きの早さは、にわかに信じられなかった。




