3.シン③
本から目を上げると、いつの間にか日は傾いていた。
(もう花火の準備が終わっただろう。祭りの音楽が聞こえてくるようだ。みんなそわそわして何も手に付かなくなる頃だな)
シンは窓辺に立った。
その目がラル川に向けられる。
(あれっ、今、川が輝いたように見えたけど……? とにかく、今日は帰ろう。先生には、結局会えなかったな)
坂を下りながらシンは気まぐれを起こし、光が見えた川の方に向かった。
ちょうど夕焼けが美しかった。
金色に輝く太陽は、やがてオレンジ色になり、それから柿色と紫になり、グレーがかって、それでも残光を雲に、木々に、空中に放っている。
美しいと言うには生やさしい、荘厳で、凄みさえ感じられる今日の夕日なのだが、シンは自分以外にも、この夕日に見とれている人物がいることに気づいていた。
彼女は一心に沈みゆく太陽を見ている。
太陽そのものを、食い入るように陶然として。
シンは木々の間から気配を消して彼女を窺った。
(見たことのない子だけど、春祭のためにどこかからやってきたのだろうか? でも……それなら、なぜこんなところに? 春祭なら、町に行くはずだが)
いつものシンなら、そのままそっと姿を消すところだ。
しかし、彼女はあまりに様子が変わっていて、シンは彼女から目を離すことができなかった。
夕日に照らされるその美しい姿はこの世のものとも思えないほどだ。
エメラルド色の瞳に、銀の髪。
その見事な銀の髪はしっとりと濡れている。
(どうしたんだろう?)
その時だった。
突然シンの傍らにいた鳥が飛び立ち、木陰に身を隠していたシンは身を固くした。
(見つかった? 気配を消していたはずなのに)
凍り付いたような時間が過ぎる。
「あなたは誰?」
さっきまで太陽を見つめていた彼女がまっすぐシンにその瞳を向けている。
(何だ、この言葉……聞いたこともないのに、わかる……いや、知っている)
彼女が使った言葉は、この辺で使われている言葉ではなかった。それは遠い昔、そう、さっきまでシンが読んでいた昔々の物語の言葉によく似ていた。
(そうだ、だから、わかる。だけど、どうして?)
「君こそ……誰だ?」
シンは今まで本でしか読んだことしかなかった言葉を初めて使ってみた。
「古代……アヌ語か」
彼女は驚いたようにシンを見た。
エメラルド色の瞳が灰色がかった黒いシンの瞳を覗く。
(まるで心まで覗かれているようだ)
シンは思った。
不思議な感覚だが、不快ではない。
やがて、彼女は美しい声で言った。
「天地の神が分かれたように」
それは、さっきまでシンが読んでいた本にある馴染み深い一節だ。
シンは見つめられるままに、その続きを返した。
「我々も別れよう、汝らは地上に、我らは海へ」
彼女は頷いた。
シンはゆっくりと木々の間から川辺に歩き出した。
「僕は、シンだよ。君は?」
「アイサ」
アイサは答えながらシンを見た。
(背丈は私と同じくらいだけど、この子は小柄で痩せていて、いかにも華奢だ。だけど、黒く輝くお父様のような髪だわ。年は、私と同じくらい……もしかしたら、私より下かも知れない)
「こんなところで何をしているの?」
古い言葉を使いながら、今度はシンがアイサの瞳を覗いた。
「私が海の国から来たって言ったら、信じられる?」
その表情からは、シンにはアイサが冗談で言っているのか、本気で言っているのか、全くわからなかった。
だが、不思議なことに、いつもの警戒心がシンから消えた。その瞳が輝きだし、みるみる子供のような表情に変わっていく。
「信じられないよ、もちろん。普通ならね。でも、あの言葉……どういうこと? そうだ、君、ストー先生の知り合いかい?」
「ストー先生?」
アイサは首をかしげた。
「僕にこの言葉を教えてくれた人だよ」
「誰もが話せるわけではないのね?」
「僕の知る限り、ストー先生と僕だけだ」
「お会いしたいわ」
「留守なんだ。僕もさっきまで先生の家にいたんだけれど、先生は帰らなかった」
二人はいつの間にか近づいて、お互い見つめ合っていた。
(しまった、見も知らないのに……話しすぎだ)
我に返ったシンは急にきまりが悪くなった。
アイサが林に目をやる。
風が吹き、葉が揺れた。
「セグルたちだ」
シンも気が付いて、林の方を振り返った。
「どうしてそんなところに隠れているんだい? 出てこいよ」
シンが声をかけると、木々の陰から三人の若者が出てきた。
「隠れていた訳じゃないさ」
大柄な若者が言った。
「シンが春祭のこと忘れているかも知れないから、迎えに来たんだよ」
太った若者が笑う。
「お前はどうせストー先生の所だろうからな。そうしたら、女の子と話し込んでいるだろう? 俺たちだって、出て行くタイミングがつかめなくて困っていたんだぞ?」
「セグルの言う通りだよ。それにしても、きれいな子だなあ」
「そうだな、カヌ。だが、この辺の子じゃあないだろう。その髪も、目の色も、見たことないものだよ」
三人目の若者は言ったが、こう言ってから彼は困ったような顔をした。
「失礼なことを言っちゃったかな? 俺はチュリ、この大きいのがセグルで、こっちの丸いのがカヌだ。君、シンとはどういう知り合い?」
「僕らもたった今、ここで出会ったんだ」
シンが慌てて言った。
「でも、彼女、お前以外とは話をしないようだぜ?」
セグルが笑った。
「適当に言っておいて」
アイサが口を開く。
アイサの言葉を聞いてチュリは目を見開き、あんぐりと口を開けた。
「シン、今、何て言ったんだい?」
当然のようにカヌが聞く。
「シン、どこの言葉だ? 俺は聞いたことがないぞ?」
セグルは目の前の、見れば見るほど美しい……だが、風変わりな娘を見つめた。
「古代アヌ語だよ」
シンはアイサと名乗った娘を見やって答えた。
「なんだ、そりゃあ?」
チュリが頓狂な声を上げた。
「なぜ、たった一人でここにいる?」
セグルが眉を寄せた。
「気が付いたら、ここにいたそうだ。自分の名前はアイサだと言っていた。他には……何も思い出せないらしい」
娘の視線に促され、シンは言った。
(他に言いようがない……まさか、海の国だなんて……誰だって信じられるはずがないもの)
シンはそっと心の中で三人に謝った。
三人が顔を見合わせる。
「かわいそうだな」
カヌが言った。
「そうだな……俺たちはシンを迎えに来たんだが、君も春祭に行くかい?」
腕を組んだセグルがアイサを窺った。
「そうだ。それがいい。そうすれば、そこで君のことを知っている人に会えるかもね」
チュリもそう言ってシンを見る。
「これからクロシュの町の春祭がある。みんなが一緒に行かないかって言ってるけど?」
シンが伝えた。
硬かったアイサの表情が緩む。
「ああ、シン、返事を聞かなくてもわかるよ。一緒に行こう、アイサ」
セグルが笑い、カヌとチュリが歓声を上げた。
アイサの髪や手足は濡れていた。
それなのに服は乾いているようだった。
シンはその違和感に首をかしげながら、クロシュの町に向かう途中で城の裏手にあるコル爺の家に寄った。
コル爺はラダティスに許されて、たった一人で城の近くの森の中に小屋を建てて住んでいる。変わり者で通っているが、ストーとは顔見知りらしく、何かとシンのために便宜を図ってくれていた。
用心深くアイサを見つめるコルから、シンはタオルと外套を借りた。夕暮れになるとアイサの服では寒そうだったし、何よりアイサは目立ちすぎる。シンにはそれがアイサにとって良くないことのように思われたのだ。




