6.ネルの砦①
長老と別れてすぐにクルドゥリの中枢メンバーに会いに行っていたビャクグンが部屋に戻った。
「アイサ、行ける?」
「ええ」
既に出発の空気を感じ取っていたハビロの耳がピンと立つ。
必要なものはマカベアで手に入ることになっている二人に旅の準備は要らない。ビャクグンもアイサも馬に乗るのに都合の良い、ズボンにマントという旅人の支度をしているだけだ。
「ネルに行かれると? ビャクグン様、それでは長老の職は……?」
アイサから多少の事情を聴いていたヒナが不安な表情を浮かべた。
「少し先になる」
「お帰りをお待ちしております。どうかご無事で。アイサ様も」
「ええ、ヒナ、いろいろありがとう」
「行ってくるよ」
アイサとビャクグンがヒナに声をかけ、二人と一匹はクルドゥリを出た。
グランの王都マカベアで再びケルビン王と会い、ネルの動向を伝えたビャクグンとアイサは、ケルビン王の用意した馬車に乗ってさらに北のネルを目指した。
やがて、はるばるマカベアからやって来た彼らの目の前にネルとの国境となる川が姿を現す。
「本当にこんな所でよろしいのですか?」
馬車を止めたグランの兵は聞いた。こう聞きながらも、彼はくれぐれも無事にお送りするようにと王から言われた客に目を奪われていた。
一人は見たこともないような美しい男。そして見事なオオカミを従えているその連れも服装は男物だったが美しい娘だ。
「あそこで人を待ちます」
躊躇うグランの兵に、ビャクグンは川のほとりに立つ見張り台を指差した。
グランの兵は頷くしかない。馬車を降り、兵に見送られたアイサが強い風の中で声を張り上げた。
「ネルはもっと雪深いところだと思っていたわ」
「ネルの北にあるシャロベ山脈の向こうは一年中雪と氷に閉ざされた世界だけれど、ここではあまり雪は降らないんだ。雪というなら、むしろグランやクイヴルの北部の方が多い。それにしても、この寒さは格別だね。風が痛い」
ビャクグンも大きな声で返す。
二人と一匹を乗せて来た馬車が平原に消えて行く。
強い風に煽られながら、アイサとビャクグン、そしてハビロは見張り台に向かった。
ネルとグランの国境を流れるボリー川はポン川に注ぐ川の一つで、その水源は北にそびえるシャロベ山脈だ。
本格的な冬が近づき、北から降りてくる寒気で川が完全に氷に閉ざされるのもそう遠くないだろうと思われた。
その川のほとりに立っている見張り台は遥か昔に築かれたもので、今ではすっかり廃墟となっている。
それでも北の冷たい風を凌ぐのに少しは役に立つ。
びゅうびゅうと容赦なく吹き付ける風の中で、廃墟の窓から川を眺めながら、北の旅に備えてしっかりと防寒を施した服装に身を包んだ二人と立派な毛皮を持つ一匹は、身を寄せ合ってひたすら迎えを待った。
やがてボリー川を一艘の舟が遡って来た。
その舟の上から、しきりに見張り台を窺う男がいる。
「シオンだ。やれやれ、凍える前に来てくれて助かった」
ビャクグンが微笑んだ。
見張り台の近くに止まった舟から数人の男たちが下りた。
彼らは旅の商人のように見える。その身なりはきちんとしていて、立派なものだ。
「ビャクグン様」
中の一人が強い風に溶け込むような声で言った。
「シオン」
ビャクグンが近づく。ビャクグンが男たちの輪に入ると、貴族の子弟か、洗練された若い商家の主のように見えた。
男たちと言葉を交わしたビャクグンがアイサを呼ぶ。
アイサもビャクグンと同様、若い男の服装をしていた。頭には毛皮の帽子を被り、しっかりとしたコートを着込んで温かい靴を履いている。そのアイサの傍らには大きな灰色のオオカミがいた。
「紹介しよう。こちらはシオン。これから私たちを案内してくれる。そしてシオン、こちらがアイサだ。今はクルドゥリの客人となっている私の友人だ」
ビャクグンに笑みが浮かんだ。アイサの胸が温かくなる。友人という言葉がこんなに嬉しいのだと、アイサは噛みしめた。
「シオン、アイサです。どうぞよろしく。これはハビロというの。こう見えてもおとなしいのよ」
シオンはアイサに目を奪われた。まっすぐに輝くその瞳の強さに飲み込まれそうだ。
「アイサ様、お話はミルから伺っております」
髪に白いものが混じるシオンは穏やかに言った。
「ミルを知っているの?」
「はい、仕事の上でも、個人的にも。古い付き合いなのです」
「ミルにはとてもお世話になったわ」
「それを聞けば彼も光栄に思うことでしょう。さあ、どうぞ舟の方へ」
彼らは川を遡る小型の舟に乗り込んだ。
「この川を遡っていったところに、古くからの船着き場があります。そこには古い建物の跡もあります。今は小さな町ですが、かつては繁栄していたようです。その町からネルの王子のいるトハナミまで行って、王子に挨拶いたしましょう」
シオンはさらりと言った。
「王子に? 商人として?」
アイサはうきうきして聞いた。
「はい。このボリー川の上流では砂金が取れます。我々はトハナミでその金を仕入れます。もちろんそれは表向きで、ネルの主要な人物から情報を引き出すことが目的です。こちらも各国の情報を伝え、そうすることで彼らと信頼関係を築いてきました。ところが、このところ王に繋がる人物と会うことが難しくなっています。オスキュラの目が光っておりまして」
「王弟クラトスがオスキュラへつく見返りは?」
ビャクグンが舟の行く手からシオンに視線を向けた。
「オスキュラの後ろ盾、そしてグランの穀倉地帯の三分の一、ということですが」
「口約束?」
「オスキュラがネルを対等な約定を結ぶ相手と見るとは思えません」
「モリハ王の様態は?」
「もう長くは持たないでしょう」
シオンははっきりと言い、ビャクグンは頷いた。
「王がお亡くなりになれば、すぐにでも王弟クラトスは王子を陥れるだろう。武力ではオスキュラと繋がりのあるクラトスがかなり有利になる。だが、シオン、お前はその王子を買っていたな?」
「はい。ですが、まずはビャクグン様自らの目でお確かめ下さい」
「お前の見る目を疑ったことなど、ないのだが」
ビャクグンはゆったりと笑った。




