4.北へ⑧
マカベアの王宮にほど近い一角に、こぢんまりした貴族の屋敷があった。
その中にシンとアイサ、そしてクルドゥリの四人を乗せた馬車が吸い込まれていく。そこは見かけより厳重な警備がなされていると全員が見て取った。
「こちらが王の私邸です」
一緒に馬車に乗りこんでいた男が言った。
決して華美ではないその佇まいをアイサは好ましく思った。
馬車を降りた一行はそのまま豪華な一室に通された。
この屋敷内には尋常では考えられないほどの警備の者が潜んでいたが、部屋で待っていたのは中年の男と初老の男、そして警備兵に扮した男を止めた若者だけだった。
初老の男が小さくビャクグンに頭を下げ、家の主らしい中年の男が旅の一行の前に進み出た。
「お呼び立てして申し訳ありませんでした。私がグラン王ケルビンです」
グラン人にしては小柄で柔和な目をしたこの男は、王というには威厳というものとは縁がなく、どこにでもいそうな人物のように思われた。
「私は、かつてオスキュラ、ススルニュア、クイヴルで各国の情報を収集する仕事をしておりました」
グラン王ケルビンは言った。
(なるほど……物腰も柔らかく、人の気をそらさないそつのなさは、人々の間に入り込むには都合がいいわ)
アイサは納得してケルビンを眺めたが、シンの方は驚きを隠せない様子だった。
「そのような方が王に?」
「ええ、私はもともと貴族の出ではありますが、名門ではありません。ですが、ここのところ、とみにオスキュラの力が増しました。外の事情に明るいと思われた私を先の王が推薦なさり、それで私がこの任をお引き受けしたわけです」
「他の方々もそれを承認されたわけですね?」
シンは慎重に確認した。
「もちろんです。そうでなければ、私はこうしていられません」
(これがグランのやり方か)
シンは思った。
そんなシンを観察しながら、ケルビンは自分の傍らにいる初老の男と若者に目をやった。
「これは我が国の宰相サビシュ、そして弟のキアラです」
グラン王ケルビンの隣にいた二人が丁寧な礼をした。
サビシュは小柄で、いかにも文官といった風情だった。一方、キアラは兄とは対照的に整った顔立ちが目を引く。背が高く、赤い髪に灰色の瞳をしていた。
「私はオスキュラが恐ろしい武器を手に入れ、着々と勢力を伸ばして行くのを見ながら、どうすることも出来ませんでした。グランはクイヴルと違って国土は広いが、人口が少ない弱小国家です。どうやってオスキュラの圧力をうまくかわし、この国を存続させていくかということばかり考えてきました」
ケルビンは率直に言い、それからシンを見て続けた。
「オスキュラは、まずススルニュアとクイヴルに目を向け、ススルニュアを半分以上制圧し、その後クイヴルの宗主となった。あなたの兄上は国土を踏みにじられ、クイヴルが滅亡するよりは、オスキュラに従おうとご判断されたのでしょう。あながち間違いとは言い切れませんが、何より自国の民を甘く見ておられたようだ。エモン殿は自国の内乱を収めるべく努力なさっていらっしゃるが、うまくいっていない。オスキュラがあの武器、ゲヘナと言いましたか、それを失った今は、なおさらです」
シンの顔はこわばっていたが、冷静さは失っていなかった。そんなシンとその隣に立つアイサの顔を見て、ケルビンはふっと笑った。
「しかし……クイヴル王がこんな手を打っていらしたとは思ってもみませんでした。王子を辺境の領に預け、ひっそりとお育てしていらっしゃったとは。でも、まさかその王子が、海の国の方と力を合わせてゲヘナの炎を封じ、神殿まで破壊することになるとは、お思いにならなかったでしょうね」
「ケルビン王、そこまでご存じなのですか?」
スオウが低く言った。
「失礼しました。驚かれるのももっともだ。風の民、今ではその国の名がクルドゥリであると知ることが出来ましたが、私は最近その長老とお話しする機会を得たのです」
「何ですって?」
ルリが叫んだ。
「風の民と言えば、我々にとっては伝説の民でした。しかし、その国が我々の目と鼻の先に、しかも、グランが国として形をなす遙か昔から存在していたとは」
ケルビンは目を輝かせた。反対にクルドゥリの者たちは当惑するばかりだ。ビャクグンをのぞいては。
「長老はついに国を開く決心をされたか。それで、このことをご存じなのは?」
ビャクグンは落ち着いて王に問うた。
「ここにいる私と、宰相のサビシュ、そして弟のキアラの三人のみです」
サビシュがビャクグンに向かって頷いた。そのサビシュの目がアイサに注がれる。
(あの宰相……クルドゥリの人だわ)
アイサにはわかった。それをシンに言いたかったが、その前にケルビンが再び口を開いた。
「クルドゥリの長老フタアイ様は、私に自分の目で見極められよと仰った。海の国からいらしたアイサ様を、クルドゥリの方々を、そしてシン王子を。そののちに、この先、グランの行く道を選べと」
ケルビンはシンを見つめていた。
「僕の、何を見極めようというのです? ごらんの通り、僕はこの人たちの力添えがなかったら、兄に捕らわれていたでしょう。アイサがいなかったら、ゲヘナが封じられたあの晩生きのびることさえできなかった」
「それでも、あなたは彼女とともに今ここにいる」
「はい」
ケルビンはシンの澄んだ瞳を見て微笑んだ。
「警備の者が騒いでおりました。お二人の剣は実に不思議だ。大変重く、その材質も我々のものとは全く違う。しかも、鞘から抜くことができないとは……それで使い物になるのでしょうか? あれは海の国のものですか?」
ケルビンはアイサに聞いた。
「はい。持ち主でなければ、抜けない剣です」
アイサはまっすぐにケルビンを見た。
「遥か昔に戦いを厭い、この地を去った人々が築いた国……その国のあなたが、ゲヘナの炎を封じ、クイヴルの王子を助けようという……」
ケルビンは呟いた。
「いいえ、助けてもらったのは私の方です。私はどうしてもあの火を封じたかった。何もわからない地上で、最初に出会ったのがシンなのです。その時からシンに助けられ、一緒に旅をしてきました。そのシンの願いがファニの仲間、そして、クイヴルの人を助けたいというのであれば、その役に立ちたいのです」
「率直な方ですね」
ケルビンはアイサを眩しそうに見て、それからアイサの傍らのシンに目を移した。
改めてシンを見たケルビンは、アイサとはまた違ったシンの存在感に引き付けられた。
(ファニの城を出た時は、ごく普通の少年だったという。しかし、一年足らずでこんな瞳をするようになるのか? 人の欲望を見切ったような……)
「シン殿、あなたの望みはクイヴルを回復することと思ってよろしいのですね?」
努めてその驚きを隠して、ケルビンはシンに尋ねた。
「そうです。同胞同士が争うなどという不幸は一刻も早く終わらせたい。また、それにはクイヴルの有り様を変えなければならないとも思います。もっと他国のことを知らなくては。クイヴルには自国のことさえわかっていない者が多い。自分の村や町のことだけで十分だと思っている。クルドゥリの人を知り、この国を見て、如何に我々が外に対して注意を怠っていたか思い知りました」
シンの静かな瞳が熱を帯びた。何もかも悟ったような静けさと若々しい熱。ケルビンはそんなシンに動かされた。
「シン殿、クルドゥリの長老が仰っていました。我々は我々の行く先を選ばなくてはならない時に来ているようです。一国の安定のみを願って門戸を閉ざしていればそれでよい時代はどうやら終ろうとしているらしい。オスキュラがこの地でにらみをきかせている今の状態では、まだ表立った形での援助はできないが、グランはあなたに協力いたしましょう」
「グランは、何が欲しいのですか?」
シンは油断なくグラン王を見た。
ケルビンはそんなシンを見て満足そうに言った。
「あなたがオスキュラを追い払い、クイヴルを取り戻すことができたら……我々が欲しいのは、対等な同盟関係です。我々は、オスキュラがこの国で好き勝手に振る舞うのを我慢してきました。彼らは、我々がしびれを切らして打って出るのを待っている節さえあります。クイヴルが完全に彼らに掌握されれば、次は間違いなく我々の番でしょう。そうなる前に、オスキュラを牽制するカードが欲しい」
「それだけですか? 僕のような孤立無援の人間に賭けるのは、グランにとって分がいいとは思えませんが?」
率直なシンにケルビンは笑い出した。
「孤立無援かどうかはクルドゥリに行かれた後にわかるでしょう。また、お会いしたいものです」
ケルビンは穏やかに言った。




