3.シン①
「お父様、おかえりなさいませ」
ラダティスを小鳥のような声が迎えた。
現れた姿も小鳥のような娘だった。
小柄で、その表情は屈託がなく、白い肌に浮かぶそばかすが愛らしい。
年はちょうど二十になる。
穏やかな顔立ちは父親似だ。
ラダティスの顔に微かに明るさが戻った。
大陸の東にあるクイヴル国の、さらに東の辺境ファニ領の領主であるラダティスは、長男エモンとともにクイヴルの王都サッハから半年ぶりに自領の城に戻ったところだった。
ここのところ動きが活発な中央の大国オスキュラが、このクイヴル国にまで手を伸ばし始めた。その対策を講じるべく、クイヴルの領主たちが都に呼ばれたのだが、その会合もことあるごとにお互いが他領を出し抜こうとするばかりで、何の進展も見られなかった。そのくせ、水面下では自領の安堵のため密談を重ねるといった有様だ。王はこれといった手を打てず、王子は聡明ではあるが、領主たちを束ねる力はない。
「やはり、オスキュラと戦いになりますの?」
「どうかな。そうならずにすむよう努力はしているが……それより、セレン、シンはどうしている?」
城の庭に面した回廊を足早に歩きながら、ラダティスは娘に聞いた。小走りのようにして大柄な父に追いついたセレンが微笑む。
「お父様はお出迎えに駆けつけた実の娘より、シンの心配ですか?」
「いや、お前は私に心配をかけるようなことはなかろう?」
ラダティスはいたずらっぽく愛娘を見た。
「まあ、お父様ったら……でも、シンだって、何も心配なところはありません。シンはもう十八になるんですよ? 学問も武道もきちんとやって、先生方もご満足です。筋がいいっておっしゃってますもの」
セレンは自分のことのように誇らしく言ったが、そのあとに肩をすくめて付け足した。
「でも、午前中にご用をすませてしまうと、たいてい出かけてしまうんです。こちらには夜にならないと帰って来ません。この間なんか、朝まで帰って来なかったんですよ。ストー先生だけではなく、町の青年たちともつき合っているようだし……お父様、たまにはシンに意見して下さいな」
「セレンよ、そうは言ってもなあ」
ラダティスは苦笑した。
「我が弟君も、少しは逞しくなったかな?」
力に満ちた、歯切れの良い声。
「お兄様」
中庭から回廊に入ってきた兄を、セレンは思わず見つめてしまった。
大柄で鍛えられた体、母親譲りの金色の髪に冷徹な青い瞳。
王都で軍を預かるエモンは、今も上位の武官が身につける軍服を着ている。
「お兄様は、またご立派になられた。でも、シンは変わりませんわ。相変わらず……」
「相変わらず、あのストーという男のところに入り浸っているのか?」
「ええ、幾何学だか、算術だか知りませんけれど」
「ストーか……どこの馬の骨ともわからぬ流れ者が」
エモンはラダティスに並びながら馬鹿にしたように言ったが、これを聞いたラダティスは足を止めた。
「エモン、ストー先生は立派な人だ。シンが彼のもとで学ぶ中で、大事でないことなど、何一つないはずだ」
「また……父上はシンに甘いのですね」
セレンが言うと、エモンも口を開いた。
「王都はオスキュラへの対応で混乱しているというのに、こんな時に学問とは……私がシンの年には、既に王都の軍にいて働いていたのですが」
エモンの表情は苦々しかったが、セレンは無邪気に言った。
「あ……ですが、兄上、あのシンが兄上のように、ファニやクイヴルのためにお役に立てるのでしょうか?」
「確かにな。どうでもいい数字や図形の中で、至福の時を過ごすような弱虫ではな」
「弱虫ではありませんわ。お兄様にはかなわないでしょうけれど、シンの武術の腕前は大したものなんです。でも……他の何よりも、ストー先生の教える学問の方に夢中なだけですわ。だけど、父上、あんなもののどこが面白いのでしょう?」
ふくれっ面をしたセレンを見て、ラダティスは笑った。
「全くだ。全くだが、あの子には、我々の見えないものが見えるのだろうよ。それでいいではないか」
「父上、それは、これからもあいつの好きなようにさせておけ、ということですか?」
エモンが父ラダティスを見つめる。
「シンをみすみすオスキュラに殺させるわけにはいかん」
ラダティスがきっぱりと言うと、エモンは苛立ちの表情を浮かべた。
「父上は……シンを息子として迎えられた」
「そうだ」
「それなのに、この城でのうのうと暮らさせ、息子としての義務は負わせないと? この城も奴にくれてやるつもりですか?」
「やめないか、エモン」
セレンは二人の間で身を縮めた。
(この曖昧さが母を悩ませたのだ。父上はシンのことを知人の子だと言った。本当に私たちと血のつながりはないらしい。でも、父上のそんな言葉だけでシンを私たちと分け隔てなく育てるには、母上はあまりにもプライドが高かった。兄上はそんなところまで母上に似ている……)
シンの見せる聡明さや、立ち居振る舞いに目を見張ることがあったセレンも、母親がこの世を去るまでは、母親が怖くてシンに近づけなかった。
「シンはこの城が欲しいなんて言いませんわ。それどころか、何も欲しがりませんもの。それに、シンは優しくて……」
セレンはおずおずと言った。
「顔まで女のような奴だが、な」
エモンの顔にからかいの色が浮かぶ。
ラダティスの表情が厳しくなった。
「シンのことは近いうちにお前たちにも話すことになるかも知れぬ。だが、今はオスキュラに対抗することが先だ」
「そうでした。シンのことなど構っている暇はありませんね」
エモンがセレンに目をやり、ラダティスは小さくため息をついた。
「城の兵糧を確認したい。各村にも蓄えを怠らぬようにと伝えよ。いや、直接村の長たちと話す必要があるだろう。会議の知らせを出してくれ」
「早急に、でございますか、父上?」
「そうだ、早いほうが良かろう」
「わかりました」
エモンは頷いた。
それを見てラダティスは足早に自室に向かう。
(留守中の報告をする者たちを待たせているか)
エモンは父ラダティスを冷ややかに見送った。




