06 君へとつなぐ、確かな鼓動
全員参加の体育祭は、午前中で終わる。
午前中の最後の種目は、クラス対抗リレーだ。これの結果で勝敗が決まる。
僕たちのクラスは現時点で二位だった。リレーの勝敗次第で十分逆転の可能性はある。体育祭全体の順位はさほど気にならないけれど、クラスメイトたちはわりと盛り上がってる。
「白倉、お疲れ。よかったな」
テントに戻るなり山下くんが声をかけてくれた。五位なんていうへぼ順位なのに、労われてしまう。
「……よくないよ。五位だもん」
「そうじゃなくて、仲直りできてよかったなって」
ついさっきまではお互いに気まずい雰囲気だった僕と月城くんが、障害物競走をきっかけに、完全ではないけれど、ちょっとだけ関係の改善が図られている。
山下くんはそれを見抜いているらしい。寮長を任せられるくらいだから、そういう人と人との関係には目敏いのだろう。
「月城くんとは、別に喧嘩してたわけじゃないから……」
「はいはい」
生返事で流される。これ以上ツッコまれると恥ずかしくて死にそうになるので、僕は大人しく黙ることにした。
月城くんはちょうどトイレに行ってて不在だ。なんとなく、彼がいる前でこの話題をされなくてホッとした。
自分の出番が終わって肩の荷が下りたので、僕はゆっくり休ませてもらおうと、テントの隅に座って一息ついた。朝からずっと憂鬱だったけど、今は清々しい気分だ。むしろ月城くんが走っているところをきちんと見たことがないので、リレーがちょっと楽しみかもしれない。
「月城、そろそろ出番だから行くぞ」
ちょうどテントに戻ってきた月城くんに山下くんが声をかけると、月城くんがテント内をぐるりと見渡す。
「岡崎と響は? もう先に行った?」
「さあ、体育委員の仕事で呼び出しくらったんじゃね?」
「次、本番で出場する選手なのに?」
「そうだなあ」
山下くんが顎に手を当てながらのんびり構えている。あまり深刻に考えていない様子だ。
しかし一通り時間が経過しても二人は一向に戻ってこなかった。さすがにそろそろ準備しなければいけない。
「ふたりとも遅いな……なんかあったか?」
「一応、救護室覗いてみるか」
月城くんがテントを出ていこうとしたのと入れ替わるように、青い顔をした岡崎くんと、ニコニコした佐々木くんがテントに戻ってきた。
「あ~、よかった。白倉がいた」
佐々木くんは僕を見つけるなり、にこやかな表情のまま口にした。その笑顔を見て、ものすごく嫌な予感がする。
「悪いんだけどさ、俺、実はちょっと足を捻挫したっぽくて」
「は?」
「え?」
僕と月城くんの驚く声が重なる。
「ついさっき階段で足を踏み外してさ。たいしたことないと思ったんだけど、結構腫れてて。さすがに走れそうにないんだ。悪い」
佐々木くんはご丁寧に自分の右足首を指さした。なるほど、たしかに靴下の上から見てもわかるほどに腫れている気がする。この状態ではとてもではないが全力疾走は不可能だ。……というか、わりと痛いだろうに、そんな素振りは全くみせていない。こんな時に冷静でいる佐々木くんはさすがとしか言いようがない。が。
それよりも。僕は重大な事実に気がついてしまった。
佐々木くんがテントに入ってくるなり、僕の名前を呼んできた理由。
「あの、ということは……もしかして……」
言葉を濁す僕をまっすぐに見据えながら、佐々木くんは軽やかに笑った。いや、だめだ。想像通りのことを言おうとしているに違いない。
「悪いけど、白倉。代わりに出てくれない?」
「え、いや、でも」
「よろしく頼む。補欠だし」
「そ、そういう問題じゃなくて、……僕、絶対」
無理、と言いかけた言葉をのみ込んだ。佐々木くんの隣にいる岡崎くんが、なぜか真っ青な顔をしているからだ。
「ごめん、白倉。佐々木が怪我したの、俺のせいなんだ」
「え?」
「俺が階段を駆け下りててぶつかりそうになって、それを佐々木が回避しようとして、派手にこけたんだ……ほんとごめん。さすがにこの状態の佐々木を走らせるわけにはいかないし。お前がリレーに嫌な思い出あるのも知ってるけど……」
泣きそうな顔をしている岡崎くんを見て、逆に少し冷静になる。
岡崎くんは確かに悪いかもしれないけど、事故だ。彼が意図してやったことじゃない。自分のせいで誰かが傷つくことの辛さは僕も知っている。
ただ、それ以上に僕の個人的な問題としてリレーは怖い。どうしようもなく怖い。
というかそもそも嫌な思い出どうこうというより、僕はバトンパスができないのだ。どうしても他人と領域を重ねることができない。できないのに、前の学校では真面目にやれって怒られたし、誰も僕の恐怖を理解してくれない。
じわじわと記憶が蘇ってきて全身の肌が粟立つ。
練習のときですら、手が震えてしまったのに、ぶっつけ本番で成功できるわけがない。
何より、これは僕ひとりの問題じゃない。
僕が代わりに走っても、絶対失敗する。みんなの足を引っ張って、またクラスのみんなに迷惑をかけることになる。
岡崎くんに何を言われても、最初の時点で補欠すら断るべきだったんだ。今さら走れないって言ってもまた迷惑になる?
困惑して立ち尽くす僕の目の前に、影が落ちた。
「湊」
「月城くん……」
ずっと黙って成り行きを見守っていた月城くんが、僕の顔を覗き込んできた。視線が絡まると、にっこりと笑顔を向けられる。
「いいから出よう。一緒に走ろうぜ、湊」
こちらの不安なんて一切受け付けないと言わんばかりの断言だ。僕の事情は伝えているはずなのに。
いつもの自信に満ち溢れた月城くんの顔を見て、なぜか僕の心臓はうるさく跳ねた。
「で、でも……バトンパス上手くできないし。バトン落とすかもしれないし」
「別に落としても拾えばいいよ。誰にも文句言わせないし」
「よくないよ。落としたせいで、……僕のせいで、また勝てなくなっちゃうよ。そしたら」
「いいって。湊のせいだって思わせないようにするから。何回バトンを落としても、お前がこけても俺が絶対取り返すから。俺にバトンを渡してくれさえすれば、なんとかするから」
グイ、と身を乗り出してきた月城くんに気圧される。息がかかるほど近くに寄られて、視線が逸らせなくなってしまった。
いつもの笑顔を封印した彼の真剣な瞳に射抜かれて、反論できない。
「大丈夫だって。俺、実はめちゃくちゃ走るの速いんだ。湊が失敗しても、死ぬ気で走って絶対一位でゴールしてみせるから」
「無理だよ、そんなの」
「出来るから言ってんだろ。俺のこと信用しろよ」
月城くんは僕の肩に手を置いた。その手の温かさが、パニックになりかけた僕の意識をかろうじて現実に繋ぎ止める。
「……月城くん、顔、近い」
「近くないと、お前の頑固な耳に届かねーだろ」
天然なのか悪びれもせずに真顔で返されて、カァッと顔が熱くなっていく。
「湊が失敗しても、俺が絶対カバーしてやる。だから、一人で責任感じる必要なんてないから。安心しろよ。リレーってそういう競技だろ」
月城くんの言葉は力強い。
なんだか理由はわからないけれど、月城くんが世界で一番頼もしく見えた。強くて大きな掌は、僕の緊張を和らげる。
「絶対」なんてありえないって頭ではわかってるけど、月城くんが僕のために言ってくれてる言葉は、信じられる気がするから不思議だ。
彼は僕に「大丈夫か?」って尋ねてこない。「大丈夫だよ」って声をかけてくれる。
その優しさが僕の心を救いあげて、背中を押してくれる。僕は一度深呼吸をしてから、はっきりと返事をした。
「わかった。月城くんを信じて、走る」
「おう。めちゃくちゃかっこよくゴールするところを見せてやるよ」
僕の言葉に月城くんは目を細めて、嬉しそうに笑った。そのまま手を伸ばしてきて、くしゃっと僕の髪を撫でてくる。久しぶりのその感触に、僕は少しだけ泣きそうになった。
だから、心の中で僕はひとつの決意をする。
僕たちの様子を見て、岡崎くんと佐々木くんもホッとした顔をしている。他のクラスメイトも口々に声援を送ってくれた。その温かい空気に心がじんわりとしてきた。
「順番は変わらず、二走が俺。白倉が三走。アンカーが月城だ」
岡崎くんが確認するように口にすると、僕は月城くんと一緒にうなずいた。
外では、ちょうど前の種目が終わってアナウンスが響き渡ったところだった。ついに、僕たちの出番がきてしまうと思うと、緊張感が増してきた。
「よし、行くぞ」
岡崎くんの合図でグラウンドへ出る。
相変わらず手足は震えている。それでも、さっきまでとは少しだけ違う感覚が僕を包んでいた。
月城くんの言葉を何度も心の中で繰り返す。何度も何度も、おまじないみたいに唱え続けると、あんなに恐ろしかった恐怖が、ほんの少しだけ和らぐのがわかった。
心強い味方がいるというだけで、一人で戦うよりも遥かに心が軽かった。
トラックの走者位置へ向かう途中、前の一年生のリレーでバトンミスが起きていた。うまくつながらなかったのだ。それを目の当たりにした瞬間、冷たい汗が背中を伝っていく。あんな風に失敗したらどうしよう。ぐらりと足元が揺らいだ気がした。その時だ。
「湊、大丈夫だから」
真後ろから、月城くんが囁くような声をかけてきた。
急に耳元で鳴った声に驚いて、心臓が跳ね上がる。振り返ると、思った以上に月城くんの顔が近くて、慌てて身を引いた。鼓動がうるさいくらいに鳴り響いているのが自分でもわかる。
「気軽に走っていいよ。湊がミスしたら俺の見せ所だろ? 本気で絶対一位獲ってやるから。ちょっとくらい、失敗してくれてもいいよ」
悪戯っぽく笑う月城くんの瞳には、微塵の不安も感じられない。
それだけで、なぜだか僕は「大丈夫だ」と心から思えてしまうから不思議だ。ここに来るまでは不安で吐きそうになっていたのに。
「いや、失敗しないよ」
なんの根拠もないのにそう言い切れてしまった自分に驚きつつ、僕は月城くんを見上げながらむうと唇を尖らせる。
「あれ? 俺にカッコいいとこ見せて欲しいんじゃないのか?」
「違うよ」
「冗談。頑張ろうな」
「うん」
笑顔の彼につられて微笑んでしまう自分がいた。やっぱり月城くんは凄い人だ。
「二年生・男子、クラス対抗リレー! まもなくスタートです。走者は位置に就いてください!」
放送部のアナウンスがグラウンド中に響き渡った。
第一走者である山下くんと第三走者である僕はスタート地点に、第二走者である岡崎くんとアンカーである月城くんはバトンタッチの交代エリアへと散っていく。
アンカーが一番外側のコースにいるので必然的に月城くんとは少し距離が空いてしまったけど、そこからも手を振っているのが見える。
なんだか彼の余裕そうな態度を見ていると、胸の内の霧が晴れていくようだった。
数分後。
ピストルが鳴り響いた。山下くんが綺麗に飛び出す。クラス全体の応援の声が一気に膨れ上がった。
山下くんは、その落ち着いた性格の通り安定した走りを見せる。他クラスと互角に渡り合いながら、第一区間を走り抜けていく。
そのまま岡崎くんへとバトンが渡った。岡崎くんは持ち前の身体能力を生かして、軽快なステップで飛び出していく。
「前、行けー!」
「抜かせー!」
ワーワーと地鳴りのような声援が飛び交う中、岡崎くんは力強い走りで順位を一つ上げ、現在二位。まもなく、バトンが僕の番になる。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
その瞬間に、過去の記憶が脳裏をよぎる。
青空の下、前の学校の体育祭での記憶が鮮烈に蘇り、脳裏に張り付いて離れない。
苦い記憶がこみ上げてきて、視界が歪みそうになる。息が詰まる。足が震える。指先が急速に冷たくなっていく。
『——大丈夫だよ』
月城くんの言葉を心の中で反芻する。何度も、何度も。
大丈夫、絶対に大丈夫。月城くんがそう言ってくれたから、僕はそれを信じる。
僕が意を決して顔を上げた、まさにその瞬間だった。盛大な音を立てて、岡崎くんが激しく転倒した。見事なズッコケぶりだ。
おそらくスパイクが引っかかったのだろう。バトンがカラカラと派手な音を立てながら、トラックの外へと転がっていく。周囲から悲鳴に近い声が上がった。
「コラー! 岡崎‼ だっせええ! サッサと拾いに行けよ!」
「うっせえええっ!」
トラックの向こうからの月城くんの怒鳴り声に、岡崎くんが必死に叫び返しながら慌てて立ち上がる。バトンを拾い上げ、すぐにこちらに向かって猛然と走り出したけど、前を走る選手たちとは絶望的な差が開いてしまっていた。
現在、最下位。でも、逆にその方が気楽かもしれない、とも思った。
だって、もう誰かに抜かれる心配はないのだから。
「ごめん!」
僕に向かって謝罪の言葉を叫びながら岡崎くんは必死の形相で走ってくる。僕はゆっくりと振り返り、軽く走り出した。
一歩、二歩、三歩――。
「白倉! 頼む‼」
岡崎くんが僕の背後からバトンを差し出した。
お互いの領域が重なる瞬間、ゾクリと悪寒が走る。前の学校でバトンを落とした日の光景がフラッシュバックし、手が震えた。
過去が追体験される。相手の歪んだ顔がよぎる。僕は思わず目を背けそうになり——。
「湊——っ! 走れ!」
その時、グラウンドの反対側から月城くんの声が響き渡った。
テイクオーバーゾーンのさらに向こう、トラックの対角線上。あんなに遠くにいるのに、彼の声は、周囲の喧騒をすべて突き破って、僕の耳にはっきりと届いた。
「走れ! ここで待ってるから!」
大丈夫だよ、と僕の背中を押してくれたあの力強い声がトラックに響きわたる。
その声に勇気をもらい、差し出されたバトンを強く握りしめた。
掌が他人と重なる不快感。指先に冷たい金属と、岡崎くんの熱い熱が伝わる。
だけど、不思議と前回のようにはならなかった。ちゃんと前を向くことができている。それはきっと、この先に月城くんが待っているからだ。
僕は必死になってバトンを握り直し、一気に加速した。スマートな渡し方ではなかったけれど、落とさなかった。
うまくできた。ちゃんと、受け取れた。
大丈夫、僕は走れる。
走らなきゃ。
後ろを振り返らず、ひたすらに前だけを見据える。
トラックを半周した先に月城くんがいる。
まだ遙か遠くで、豆粒みたいに小さくて、顔なんて見えないはずなのに。
それでも、僕が落とさずにバトンを受け取った瞬間、彼が太陽みたいに笑っているとわかった。
——死ぬ気で走って、絶対一位でゴールしてみせるから。
月城くんがそう言ってくれたから、僕は彼の言葉を信じている。僕がどんなに失敗しても、彼なら絶対一位でゴールしてくれると。
僕に責任を感じさせないために。
もしさっき、バトンを落としたのが僕だったら、月城くんはあんな風に怒鳴りつけたりしなかったはずだ。
落としたのが岡崎くんだったから、あえて普段通りに怒鳴りつけた。その方が、岡崎くんが過剰な責任を感じずに、反骨心で走りきれると分かっていたからだ。
彼はいつも、ちゃんとその人のことを見て言葉を選んでいる。
そしてこのあと、岡崎くんのミスを帳消しにするため、彼はバトンをもらったら死ぬ気で走るだろう。
月城くんは誰かのためになら、自分を顧みず躊躇なく行動してしまうから。
誰かを助けたいと思ったら、見返りなんて求めずに無茶をしてしまう。
かつて、大事な人の不調に気づけなかった、守れなかったと自分の行動を後悔しているから。
そんな彼が、僕のために死ぬ気で走ると言ってくれるのなら。
——僕は、少しでも君の負担を減らしたい。
君が、誰かのために無理をして、もう傷つかなくてもいいように。
そう思った瞬間、不思議なことに、リレーに対する恐怖よりも「月城くんにできるだけ早く、バトンを渡したい」という気持ちが、僕の中で爆発的に膨れ上がった。
リレーは一人で走るものじゃないと、教えてくれたのは月城くんだ。
だから、僕も全力で応えたい。
僕は思い切り地面を蹴り飛ばした。ただ月城くんのために走ろう、そう心に決めた。
走りながら、心の中で強く願う。
どうか無事に、バトンをつなげますように。
「白倉! いけぇ! 抜かせ!」
テントの方から、誰かの叫ぶような声が聞こえてきた。
周囲からの熱い声援が、僕の背中を強烈に押し上げてくれる。普段なら注目されるだけで縮こまってしまうのに、今は前しか見えないからか、その熱さが心地よくさえあった。
「前、見えてる! 追いつけるぞ‼」
クラスメイトの声に奮い立たされながら、もう少しだけ足を速める。
目の前を走っていた走者の背中が、みるみるうちに近づいてくる。
一人、一気に抜き去った。だけど、それでも足は緩めない。
月城くんのいる位置まで、まだ距離はある。あと三人、抜かなきゃいけない。
一位で月城くんに渡せば、いくら彼でも無理をせずに走れるかな。
「白倉すげえ!」
「めちゃくちゃ速え! あいつ陸上部だっけ⁉」
「もう一人抜け——‼」
地響きのようなどよめきが湧き起こる中、前を走る走者をもう一人、さらにもう一人と鮮やかに抜き去っていくことができた。
身体が焼け付くように熱い。でも、信じられないほど気持ちよかった。
なぜか笑みさえこぼれてしまいそうなほどの、圧倒的な爽快感に満たされていた。
もともと、走ること自体は嫌いじゃなかった。むしろ得意な方だ。無心で足を動かせばいいだけだから。
けれど、自分のためではなく、誰かのために「行動したい」と心の底から思える日が来るなんて、想像もしなかった。
それが少しだけ嬉しくて、視界が熱くなる。
こんな気持ちになれたのは全部、月城くんのおかげだ。
「湊——!」
月城くんが大きく手を振っているのが見えた。でも、その前にもう一人走者がいる。
気がつけば、僕は最下位から一気に二位まで浮上していた。
トップを走る他クラスの生徒の背中が間近に迫る。僕が一位になって月城くんにバトンを渡せば、きっと彼はもっと楽に、気持ちよく走れるはずだ。
だから、絶対に抜く。絶対、一位で渡す。
その一心で、僕は最後の力を振り絞った。
周囲の歓声がより一層大きくなった気がしたけれど、僕の耳にはもう風の音しか聞こえなかった。
テイクオーバーゾーンに入る直前、ついに先頭を走っていた走者を外側から抜き去ることに成功した。
僕は手を思い切り後ろから前へと伸ばす。
誰かが自分の領域に侵入してくることへの恐怖よりも、この想いをしっかりと託さなければという、使命感だけで胸がいっぱいだった。
今までずっと怖くて、触れてこなかった境界線の向こう側に、僕の方から手を差し伸べる。
彼の領域に、自分から触れに行く。
触れたい、つなげたい、つながりたいと願った、初めての強い感情だった。
「月城くん!」
思い切り振りかぶってバトンを叩きつけた。
瞬間、僕の右手と月城くんの左手が重なる。掌に硬いバトンが食い込み、肌と肌が直接擦れ合う。
心の奥底に重くのしかかっていた恐怖が、弾けるように消えていく。
ゾッとするような悪寒は一切なかった。代わりに込み上げてきたのは、胸が震えるほどの得体の知れない幸福感だった。
これまで自分が抱えていた孤独のすべてが、この一瞬のつながりによって救われたような錯覚。
高揚感と圧倒的な安心感が混ざり合って、息ができなくなる。
つなげた。ちゃんと、僕の手で。
「やりすぎだ、バカ。俺の見せ場なくなっただろ」
月城くんが眩しいほどの笑顔を見せながら、僕の指先からバトンを奪い去っていく。悔しそうな口調とは裏腹に、その声音は最高に弾んでいた。
「——でも、めちゃくちゃ嬉しい。ありがとな、湊!」
そう言い残した刹那、月城くんは爆発的な勢いで加速し、一瞬にして二位の選手を置き去りにした。
あれだけ自信満々に宣言していただけのことはある。誰も追いつけないスピードで、トラックを颯爽と駆け抜ける、まるで風みたいな彼の背中に、完全に目を奪われた。
僕は膝に手を当てて、激しく肩を揺らしながら必死に空気を吸い込んだ。
彼の本気の走りを見るのは、これが初めてだった。あまりにも綺麗で、圧倒的にカッコよくて、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
危なげなく余裕に満ちた月城くんの背中が、あっという間にゴールテープを突き破った。
ぶっちぎりの一位で、僕たちのクラスの逆転勝利が決定した瞬間だった。
「白倉~! お前ほんとすげえよ‼」
突然、背後から弾けたような声がしたかと思うと、振り向くより早く背中に衝撃が走った。
そのまま岡崎くんに思い切り飛びつかれたらしい。よほど嬉しかったのだろう、大きな身体でぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめられ、肋骨が軋んで痛い。
「おかげで俺の大失態が帳消しになった! ありがとな! まじでありがとう‼」
「わ、わかったから、ちょっと離して……苦しい……っ」
全身を硬直させながら、なんとかそれだけを返す。
こういう気安いスキンシップも、最近の月城くんからの不意打ちのせいで少しは耐性がついたと思っていたけれど、やっぱり他人にされると落ち着かない。ジタバタともがいてみるけど、興奮状態の岡崎くんは微動だにしなかった。
諦めかけたその時、一位でゴールしたはずの月城くんが、その勢いのままトラックを戻ってきて、もの凄い剣幕で僕たちのもとへと駆け寄ってきた。
「おい岡崎! 湊から離れろ、潰れるだろ!」
「うっせえなあ! ちょっとくらい良いだろ……って、うおお⁉ やめろお前、力強すぎだって!」
月城くんは凄まじい力で岡崎くんを無理やり引き剥がすと、僕の腕を引いて自分の側へと引き寄せた。
助かった、とホッとしたのも束の間。今度はなぜか、月城くん自身がそのまま僕の身体を両腕で強く抱きすくめてきた。彼の広い胸の中に、すっぽりと閉じ込められてしまう。
「ちょ、月城くん……っ!」
「湊、めちゃくちゃかっこよかった……!」
耳元で直接囁かれて、頭のてっぺんまで沸騰したように熱くなる。
状況的にはさっきの岡崎くんと同じはずだった。けれど、岡崎くんからされるのとは全然違って、全身の神経が、密着している月城くんの体温と心音だけに集中してしまい、指一本動かせなくなる。抵抗なんて到底できなかった。
月城くんがそのまま僕の髪に顔を埋めてきて、心臓が壊れそうなくらい早鐘を打つ。
くすぐったさと、恥ずかしさで、頭の中がぐちゃぐちゃに溶けていきそうだった。
「おい、航。もう離してやれよ。白倉が茹で蛸みたいになって死にそうな顔してる」
「そうそう。航、お前さっき俺が白倉に抱きついてた時めちゃくちゃキレてたくせに、人のこと言えないじゃん」
「うるせえ」
冷静にツッコむ佐々木くんと、隣でギャーギャー喚く岡崎くんに不機嫌そうに応戦しながらも、月城くんは僕を羽交い締めにしたまま、しばらくの間、絶対に離してくれなかった。




