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撮っても見返さない写真たち

作者: 朝日 橋立
掲載日:2026/02/01

 私は写真を撮ることが好きである。

 旅行先で海の写真や山、城と綺麗だと思った物をパシャリとしている。


 けれども、今思うとあまり見返すことはない。

 また、見返しているうちに思うことがある。

 こんなところも見に行ったな、と。


 例えば、月の写真を見る。

 この時に当時のことを思い出すのは好きだ。

 塾に通う冬の日の、静かな思い出は快い。


 けれど、同時に悲しい感情にも襲われる。

 確かにあの出来事は過去だったのだ、と思ってしまう。


 実際、写真の中の思い出は間違いなく過去だ。

 しかし、その思い出された記憶が本当の記憶なのかは、私にはどうにも分からない。

 不確かな記憶であることに加えて、写真にあるのは景色だけだからだ。

 この思い出されたものが、私が新しく感じた感情なのかもしれない。


 古い感情を、新しい感情で上書きしているのではあるまいか?

 この問いが私の中に立ち上がってくる。


 例えば、月の写真を撮った時に、私があの冬の快さを感じていただろうか?

 もしかしたら感じていたかもしれない。

 しかし、今のように懐かしさ、そしてあの日々の心地よさを感じていたとは思えない。


 すると、間違いなく感情を上書きしている。

 そう考えているうちに、思い出を汚しているのではと思う。


 ただ、これは間違った考えだ。

 思い出を再解釈しているのだ。

 古い景色、古い私を、今の私として眺めている。


 写真というのがないと私は古い記憶を忘れてしまうだろう。

 記憶も感情も一時のものだ。

 思い出せないからこそ綺麗なままでいれるのではないか、そのように思ってしまったりもする。


 でも、私はきっとこのままで写真を撮り続けるのだろう。

 思い出せなくも無価値ではない。

 それは懐かしい記憶に心を躍らせる準備をしないことにはならない。


 私たちは時に間違った解釈をしていると思ってでも、きっと思い出そうとすることがある。

 これはひとえに、解釈の正誤に限らず私たちは情動させられるからだ。

 それはきっと過去の私、あるいは今の私が未来の私に今の感動を分け与えてやろうと考えてしまうほどのことが残っているからだ。

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