5
ねこの助は正社員になってからはその性質を買われ、在庫管理などを任されるようになる。
生来のねこの助の気質を理解した上で任された業務に対して、ねこの助は神経をすり減らした。そして、5年の経験を生かし、ねこの助は最短補充時間を計算して補充アイテムを一ヶ所に纏めた。
しかし、これについては周囲と連携が上手く行かず、纏められた補充分から処理される事がなかった。
最短補充ルートを確保したのに処理されない事にねこの助は頭を一人で悩ませた。
補充予測の計算の内容自体はねこの助の中では完璧であった。
しかし、それを周囲に理解されるにはねこの助のコミュニケーション能力は未熟であったのだ。
結果として、ねこの助はかつての上司と揉めた。
ねこの助のコミュニケーション能力がもう少し高ければ、補充分のロスも少なかっただろう。
ねこの助は経験で1日の大体のアイテム補充を計算して行動していたが、それを周囲に理解するのを求めなかったのが、ねこの助を孤立させた。
ねこの助のコミュニケーション能力が高く作業工程の説明が出来ていたのなら、いまよりも効率が違っていただろう。
或いはねこの助の効率重視な業務過程を企業が取り入れていたかも知れないが、それが実るより先にねこの助は統合失調症で緊急入院する事になる。
ねこの助の肉体も精神も正社員時代にはボロボロであった。
更に作業効率にも神経を費やした事でねこの助の精神は限界を迎えてしまう。
ねこの助に変化があったのは12月の寒い時期であった。
突然、酷使した肉体が悲鳴を上げ、ねこの助はいつものように栄養ドリンクやエナジードリンクでドーピングするが、あまりにも長期間の間に使われて来た肉体は極限を迎え、回復の兆しが一向になかった。
加えて、ねこの助は統合失調症の幻聴で常に周囲に狙われていると錯覚していた。
ねこの助の小説特有の物語性は幻聴にも影響を与えたのか、ねこの助の幻聴には特有の説得力があった。
何よりも、この頃にはねこの助は完全に症状が悪化していたのか、幻覚まで見るようになる。最早、ねこの助は完全に病で何が正しいのか解らなかった。
命を狙われていると警察署にも何度か足を運んだが、確証もなく、ねこの助の言葉は信じて貰えなかった。
この事から、ねこの助は警察署は裏で自分を狙うマフィアがいると思うようになる。
もちろん、これは統合失調症特有の誇大妄想なのだが、そのストーリー性と幻聴をねこの助は完全に信じてしまう。
流石のねこの助も命の危機を感じ、一度は実家を頼ったが、ねこの助の家族は壊れたねこの助を切り捨てた。
元々、ねこの助の家族は健忘症の母、産まれたばかりの姪で手一杯だったのだ。これ以上の負担を避けたかったのも理解出来る。
故にねこの助は幻聴に襲われながら救いを求めた。
結果として、壊れたねこの助を救ったのは宗教関連であった。
無論、宗教独特の崇拝による救済ではなく、精神科への入院が選択肢にあったのはねこの助にとっても不幸中の幸いだったのかも知れない。
これが信仰や崇拝による救済であったのなら、今頃はねこの助も何らかの罪を背負っていたであろう可能性もある。
ねこの助が入院中も家族は一切来なかった。それどころか、医師にもう他人だからと切り捨てる始末である。
ねこの助は入院中、職場復帰だけを目標に祈りを捧げ続けた。
入院期間中のねこの助は完全に精神的に壊れていた。
それでも祈りを捧げ続け、日々、自らの幻聴と対話を繰り返していた。
この時は些細な音すら幻聴に変換されるまで悪化していた。
そんなねこの助が幻聴を克服したのは自らの幻聴を赦した時であった。
「あいつは何も変わらない」
それがねこの助が最後にはっきり聞こえた幻聴であった。
自らの幻聴を赦す事でねこの助の幻聴は止まり、改めて幻聴だと自覚する。
それからは全てが変わった。
ねこの助は入院中の人々と話すようになり、退院した後の体力作りなどをするようになる。
ねこの助は退院し、しばらくは些細な音にも過敏であったが、いまではある程度、落ち着いている。
しかし、退院したて直後は結局、様態が悪化する事を懸念されて退職となる。
その時のやり取りはほとんど記憶しておらず、ねこの助はしばし、その企業に食い下がったが退職届けが受理されてしまい、結局は戻る事は出来なかった。
それでも再就職出来るだろうと言う気持ちでその後に励んだ。
統合失調症が理由なのもあってか、仕事はなかなか見付からなかった。
そもそも、ねこの助は障がい者というものを理解していなかったのだ。
しかし、逆にこれがきっかけでねこの助は作業所に通所するようになり、自らのペースで働ける仕事を改めて探すようになる。
確かにねこの助は精神的に病んでしまった。しかし、それは全てにおいて自分を置いて来てしまったからである。
いまのねこの助にあるのは束縛されない自由であった。
仕事もそうだが、家族からも見放されたねこの助を縛るものはなくなり、本当の意味で自分と向き合う機会を得た。
作業所に通って、しばらくしてからは障がい者だとオープンにして可能範囲で仕事もこなした。
一直線しか見ていなかったねこの助の視野は広がった。
そして、自らがこのような病になったからこそ、見えた世界があったと知った。
限界まで自身を捧げる必要がなくなり、ねこの助は仕事への向き合い方が変わった。
世間的にいう「仕事が全てではない」と言う言葉の意味を実感した。
いまのねこの助は年齢的にも現役で昔のように働き続けるのは厳しい年代だろうと考えていた。
ねこの助は仕事の呪縛から解放され、今日に至る。
無論、生きている以上は何らかの仕事はせねばならないだろう。
しかし、かつてのように自らを犠牲にする必要も理由もなくなり、ねこの助は残りの人生を可能領域で楽しむ事を改めて、考えてみる。
一度は壊れたとはいえど、ねこの助はいまも五体満足で生きている。
そして、生きている以上はいまを楽しむ権利も当然ながらある。
いままでの束縛から解放されたねこの助はこの先の人生を自分の為に使うだろう。
もしかしたら、また仕事ありきの生活に戻るかも知れないが、ねこの助は過去の経験で自身の在り方を考え直した。
──ねこの助の人生がどのようになるかは、もしかしたら、これからなのかも知れないだろう。