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企業のパートになってからも、ねこの助は周囲の期待に応える為に仕事に勤しんだ。
ある時は高熱が出たりして身体が鉛のようにだるくても働きいたし、ある時は台風の中、頭数を気にして出勤し、雪の中を数時間掛けて歩いて職場へ向かったりなどもした。
どのような状況化であっても出勤する事で穴を空けない覚悟のようなものが、ねこの助には宿っていた。
環境こそ、ブラック企業と言う現場な訳ではないのだが、ねこの助の姿勢はほとんどブラック企業務めの社畜のそれと言っても過言ではなかった。ねこの助の接客技量自体は微々たるものであったが、お客を満足させたりする事や仕事に対するやりがいのようなものを見出だしたのは、この頃からであろう。
東日本大震災があった時もねこの助は家族の安否確認よりも仕事の有無を確認する為に出勤する事を優先した。
思えば、何においても第一優先順位が仕事であったねこの助は、仕事へのやりがいというものに魅了されてしまっていたのだろう。それは小さな綻びであったろうが、ねこの助が家族と後に縁を切る決定的な兆しであったのかも知れない。
ねこの助は良くも悪くも真っ直ぐ過ぎたのだ。仕事と言うものに対して忠実過ぎた。
それこそ、本当に仕事に全てを捧げていた人間と言っても良いだろう。比喩的な表現などではなく、ねこの助はそれだけ周りを気にする事なく、仕事にのめり込んだ。
そんなねこの助の将来の願望はだらだらと無駄に長生きするよりも仕事による過労での殉職であった。日本古来から存在する大和魂を旨に殉職する事──ねこの助はそれだけを望んでいた。
無論、職場には迷惑が掛かる事なども考慮などもしていないはた迷惑な願望である。
しかし、当時のねこの助は生涯現役を貫けられれば、なんでも良かった。実際に正社員になった時に右足にばい菌が入り、切除手術した時もねこの助は当日に働き続けた。それほどまでにねこの助は仕事というものを愛していた。
時折、ねこの助に「彼女を作らないのか?」と同僚や後輩が質問する度にねこの助は「いまは仕事が恋人」と返したが、ねこの助は大真面目にそうだと認識していた。
仮に本当に恋人探しをするとしても40歳を越えてからとねこの助は人知れず誓いを立てていた。
話を戻すが、ねこの助にとって最優先事項は仕事である。ねこの助が早退するのは何らかの限界を迎えて症状が悪化した時くらいであった。
例えば、風邪を引いた状態で仕事をして嘔吐などをした時などである。それ以外でねこの助が帰る事はほとんどなかった。
それ故にパートの限界労働時間を越えた際などは自主的なサービス残業などまでして終わらせる事を優先した。無論、これは本来ならば、企業にとっても違法行為である為に任意などはされていない。
しかし、当のねこの助にとって最重要なのは完璧な売り場作りであり、夜間作業に引き継げる状態を完璧に維持する事であった。
だからこそ、ねこの助の存在は企業に大きく貢献こそしただろうが、その人間性としての評価は危ぶまれるものであり、ねこの助が能力的に認められるのに5年の年月を有した。
実際、その判断は正しかったのだろう。仕事しか見ていなかったねこの助は退職してからも続く交流などは一切なかった。ごく一部と繋がっていたが、それも一年の月日で音沙汰がなくなった。
現役パート時代でも飲みに誘われる事自体も稀にあったが、
何よりもねこの助は飲みに誘われれば、自身の睡眠時間の限界を気にする程、神経質であった。
限界まで飲み明かすと言う行為はねこの助の中では禁忌に近い何かがあったのかも知れない。
そして、ねこの助はその禁忌を破る真似は会社を辞めてからも一切してこなかった。
時間になれば、有無も言わずに帰る。飲み明かしのコニケーションなどは当時のねこの助にとって苦痛でしかなかった。
ましてや、深夜まで飲み明かすなどの行為はねこの助には理解出来ない境地であった。
コミュニケーションは最小限であり、仕事に関しては一切の妥協を許さない──それどころか、仕事の為なら真に全て捧げる気でいた人間──当時の塁滝ねこの助とは、そういった部類の人種であった。
仕事こそが最優先事項で他の事は二の次であり、一番下に自分の命がある。
そういった生き方しか、ねこの助は知らなかったし、知ろうともしなかった。ある意味、脳が昭和初期のような世界で止まっていたのだ。
だからこそ、仕事に縛られていたねこの助は次第に心が壊れていったのだろう。
その生き方はねこの助が精神的に壊れていくまで結局、変わる事は一切なかった。