温もりが欲しかった
準備に没頭していたアヤノは、外がすっかりと暗くなっていることに気が付いてカーテンを閉めた。
机の上には明日着ていく、動きやすそうな衣類。持っている鞄の中で一番丈夫そうだったリュック。中身は最低限にして、財布と小型水筒、ポーチに財布、スマホ充電用のモバイルバッテリーのみとした。大荷物は邪魔にしかならない。備えとして持っていけるのはこれくらいだろう。
時計に目を向ける。あと二時間とちょっとで日付が変わるところだ。
少し遅くなってしまったが、アヤノはスマホを取り出して、あるところに電話をかける。
ワンコール。
ツーコール。
「こんばんわ、有村です」
相手はこんな時間にもかかわらず、ツーコールで電話にでた。相変わらず仕事熱心な人だとアヤノは感心する。相手の名は有村。現在、アヤノはとある団体の支援を受けて生活しているが、その団体でアヤノの担当を務めている女性が有村だった。アヤノ自身、有村と直接会ったことは数回程度しかない。容姿は、少し茶色がかったセミロングの髪に、穏やかそうな目元。身長が高く、細く長い脚をパンツスーツに包んだモデルのように綺麗な女性。年齢は一見しただけではよく分からない。二十代前半のような若々しさを感じさせつつ、三十代ほどの大人の妖艶さも持ち合わせている。不思議な女性だった。
実際に面談した際は、電話での対応と同じく、いつでも丁寧な口調と態度を崩さず、年下の子供であるアヤノに敬意を持って接してくれる。それほど業務に忠実な人だという印象を、アヤノは有村に抱いていた。
「こんばんわ、蓮実です。夜分にすみません」
「いえ、お気になさらず、蓮実さんのサポートが私の仕事です。何かあれば早朝でも深夜でも、遠慮なくおかけください」
決まり文句のようなセリフを、綺麗な声でよどみなく伝えられる。マニュアル通りではあるのだろうが、勤務時間外だろうこの時間に、これほどまでも感情を出さずに喋れることは素直に関心した。
「何か緊急ですか?」
「はい、申し訳ないのですが、急遽お金が必要でして」
「……蓮実さん。お辛いことを聞いてしまいますが、昔の事と関係が?」
有村の声色が、気遣うようなそれに変化する。アヤノの過去は、有村が担当になる際に、洗いざらい話しをしてある。有村が言う昔の事というのは、小学生の頃にいじめられていた事だろう。暴力で脅して金銭を要求するなんてことは、あるところでは、常習になっているものだ。アヤノの過去を知っている分、余計に心配なのだろう。もっとも、それが、アヤノ自身を心配してのことか、団体の資金の心配かは、電話越しの声だけでは判断できないが。
「いえ、そういうのではないので、大丈夫です。ただ、今度の休日、友達に旅行に誘われてしまいまして、準備の費用をお願いしたかっただけです」
「……そうですか。そういうことであれば安心です。蓮実さんは、ほとんど予備の出金をなされないので、かなり余裕がありますよ」
「とりあえず、移動費も含めて五万ほどお願いします」
「かしこまりました。すぐに蓮実さんのネットバンク口座へ振り込みます。今日中には済みますから、明日にでもすぐに使えるはずですよ」
「助かります。お手数おかけしました」
「いえ、先ほども言いましたが、これが私の仕事ですから。いつ如何なる時にでも、困った時はご連絡ください。いつでも蓮実さんからの連絡をお待ちしております」
「そう言っていただけると助かります。それでは」
「はい、おやすみなさいませ」
電話を切ったことを確認して、ふーっと大き目の息をつく。
アヤノにとってスミレ以外のほとんどの人間は、さほど重要性もなく、見わけも付かないほど同じ姿に見えるが、この有村はほんの一握りの特別な方だった。
業務上の必然なのだろうが、一回りも下の小娘に、下手に出る丁寧な姿を一切崩さず、本当にいつ電話をしたとしてもツーコール以内には電話に出るのだ。ガチのいい人なのか、ガチガチの仕事人間なのか、判断に困る。しかし、有村の支援を受けてから、アヤノの生活環境は激変するほどの改善を遂げており、そこに感謝していることは本当だった。
今回その有村に嘘をつくことになったことは、アヤノにとっても少し心が痛い。もし、何事もなく、スミレの無事を確認して帰ってこれたならば、何か手土産でも買うべきかと考えた。
そうしているうちに、有村からSNSにメッセージが入る。
『振込が完了しましたので報告です。旅行、お気をつけて行ってらっしゃいませ』
流石の速さだった。
スマホで口座を確認すると、希望の金額が入っていた。これで、明日の新幹線などの移動費を賄える。
準備が整ったことで安心したアヤノは、身体の力を抜いてベッドに倒れ込んだ。
部屋の電気を消して、ベッドわきのスタンドライトの電源を入れる。
暗闇の中で、ぼうっとオレンジ色の優しい明りに照らされたまま目を閉じてみる。
こうすることで、いつものアヤノならすぐに寝ることができるのだが、今日はそうもいかないようだった。
動悸が激しい。心臓の鼓動が、耳元で嫌に大きく聞こえて不快だ。
目が冴えていて、瞼を閉じると思考が止まらなくなる。
こういう時は、ただ目をとじて横になっていてもいたずらに時間を消費するだけだ。それを経験から分かっていたアヤノは、起き上がって机に手を伸ばし、写真立てを手に取る。
薄暗い明りに照らされて、そこにははっきりとスミレの姿が見える。
写真の中でカメラを構えているアヤノに向けて、飛び切りの笑顔を見せているスミレ。
高校の入学式。
沢山の同級生たちが親と写真を撮っている中、お互いの親が来なかった二人は、お互いの姿を、お互いが写真に収めた。
その時の記念写真。スミレの写真はアヤノが、アヤノの写真は、今は分からないがスミレが持っている。
いつでも一緒にいられるようにと、スミレの提案だった。
「スミレちゃん。明日会いに行くから」
写真のスミレに向かって声をかけてみる。
当然返事はなかったけれど、ただそれだけで、思った以上に安心する自分にアヤノは気が付いた。
思えば、今日は一度もスミレを見ていないのだ。
穴が開くほど写真を見つめていると、あれほど五月蠅かった動悸が、今はもう落ち着いていた。
スミレ分が足りなくなった禁断症状だったのかもしれない。そんな冗談を考えられるくらいには余裕ができていた。
心地よい眠気を感じ、満足して目を閉じるアヤノ。
あと少し、あと少しで眠れそうだった。
「スミレちゃん、声も聞きたいよ」
もう瞼が重くて開かない。
暗くなった世界に意識が落ちていく、その間際。
『アヤノ』
名前を呼んでくれるスミレの声が聞こえたような気がして、そのままアヤノは安心して意識を手放した。