人生の終着に着いた①
「あ~急なことなんだが、桑野が転校した」
チャイムが鳴り、ホームルームが進む教室で、アヤノは教師から隠れるように机の下でスマホを操作していた。いつもならこのような事をしないアヤノだが、今日は事情が違ったのだ。
毎日アヤノより早く登校していて、教室に入ると迎えてくれる満面の笑顔が今日はなかった。初めは珍しいこともあるものだと、そこまで深刻に考えてはいなかった。
スミレのSNSにメッセージを送る。
既読がなかなか付かない。
少し待ってみる。
おかしいと思い始めた。
いつもなら、二分と待たずに返信が来るのに、今日は既読すら付かない。
寝坊かもしれない。
もう一度メッセージを送る。
待てども既読は付かない。
始業が近づいてくる。
一度着信を入れた。
『この電話は、電源が入っていないか、電波の入らない場所に……』
繋がらない。
焦り始める。
寝坊ならまだいい。起きたらゆっくり学校に登校すればいいだけだ。しかし、それ以外の何かが起こっていたら?
例えば、事故。あるいは、事件。
そこまで考えたアヤノが思わず立ち上がりかけた時、チャイムと同時に教師が入って来た。
それから、流石に教師の目の前で抜け出すわけにもいかず、見つからないように連絡を取ろうとしていたアヤノに先ほどの言葉が降ってきたのだ。
「あ~急なことなんだが、桑野が転校した」
と、アヤノには理解できない言葉を教師が言ったのだ。
スマホを操作していた手を止めて思わず視線を上げる。
教室は一瞬の静寂の後、喧騒に包まれた。
あの教師は今なんと言った?
桑野が転校、した?
桑野という苗字の人間は、このクラスには一人だけだった。桑野スミレ。アヤノのただ一人の友達。
その桑野スミレが、転校。しかも、することになったではなく、したと言った。過去形だ。その言い方では、もうすでにスミレは転校してしまったということになる。
でも、それはおかしな事だった。何故ならアヤノは何も聞いていなかったからだ。
転校するかもしれない、なんて話しは一度もされたことがなかったし、すでに転校しているだなんて、到底信じられることではなかった。
とりあえず、過去形の部分に関して、アヤノは先生が言い間違えたのではないかと考えることにした。
「先生! 桑野さんはもう転校してしまったんですか?」
「ああ、今日からはもうここには来ない」
その現実逃避は、最前列に座っていた明るい髪の色をした男子生徒の質問によって、早くも失敗に終わった。
どうやらスミレは、本当の本当に転校してしまっていて、もうこの教室では会うことはできないらしい。あまりにもふざけた現実だった。よく分からなすぎて、逆に笑えてくる。
「急じゃないですか? 私、何も聞いてないんですけど!」
次はアヤノの左斜め前の女子生徒が、食って掛かるように発言した。
その生徒に、アヤノは心の中で、何も聞いていないのは、至極当然のことだと悪態をつく。何せアヤノも何も知らないのだ。何も教えられずに転校されて、その上他人には知らせていたなんてことになれば、間違いなくアヤノはその人物を嫉妬でどうにかしてしまうだろう。
「急な家庭の都合だそうだ。こればかりはな、それぞれの家の事情があるからなぁ。桑野にも分からんかったのかもしれない」
家庭の都合。教師はそう言った。それぞれの家には、それぞれの事情がある。親の転勤とか、離婚とか、入院とか、上げて行けばキリがない様々な事情が、家庭の都合という中身の見えない箱の中に詰め込まれている。家庭の都合とはある種のパンドラの箱だ。そう言われれしまうと、部外者は気を遣わなければならなくなり、おいそれと踏み込むことが出来なくなる。
それも、今回はさらに特殊だ。まるで夜逃げのように、スミレは急に学校から姿を消した。箱の蓋を開けてしまえば、どんな暗い事情が出てくるか分からない。凄んで教師を睨んでいた生徒も、その言葉を聞いて、罰が悪そうに席に座りなおした。その姿を見て、他のクラスメイトたちも同じく屈してしまい、教室は静けさと気まずさがごちゃ混ぜになったような空気に支配された。
「どこに行っちゃたんですか」
今度はすぐ近くで声がした。ずいぶんと小さな声だったが、静まり返った教室にはよく響いた。今度は誰が言ったのかと、辺りを見回すと、クラスメイトたちがアヤノを見ていた。どうやら先ほどの質問は、自分の口から漏れ出たものらしい事をアヤノはその時に気が付いた。
「う~ん、それは個人情報だからなぁ。先生からは何とも」
「そうですか」
「ああ、というか蓮実も何も聞いてないのか? いつも桑野と一緒にいたから、お前なら話しを聞いてると思ったんだがっ⁉」
喋っていた教師が慌てたように口を噤んだ。
その時、アヤノは自分の表情がどうなっているのか、自分でも分からなかった。ただ、大人の男性である教師が怯えたように固まってしまうような、そんな顔をしていることは想像できた。
何も聞いていない。何で転校したのか、いつから決まっていたのか、どこに行ってしまったのか、何も知らない。
小学生の頃に出会って、高校二年生の昨日まで、スミレと一緒に過ごした。アヤノにとってスミレは唯一の友達で、友達がたくさんいるスミレは、それでも自分を特別に見てくれていたと、アヤノはそう思っていた。
けれど、それは自惚れだったのかもしれない。特別な友達なら、何も言わずに転校なんてしないと思う。少なくともアヤノなら前もって伝える。
スミレにとって、自分はいったい何だったのか。考えれば考えるほど、アヤノは自分の意識が暗い穴に落ちて行くような気がした。泣きそうな気もするし、イライラしていて爆発しそうな気もする。それまで教師にあたるように、睨みつけていたことを無性に虚しく感じ、無言のまま教師から視線をそらして俯いた。
「ま、まぁ本当に急だったんだろうな、昨日も急に親御さんだけが来て、急いで手続きしていたったよ。桑野も誰にも言う暇がなかったんだと思うし、気にするな、な! そうだ、連絡先くらい皆知ってるだろ、個人情報は先生からは教えられないが、本人から聞くぶんには問題ないから、それぞれ連絡してみてくれ」
教師はあわあわと擬音がしそうなほど慌てながらその場を閉めて、ざわつく教室を後にした。
周りでクラスメイトたちが騒ぐ中。アヤノはただ茫然とすることしか出来なかった。
教師は連絡して自分で聞けと言ったが、返事がない場合はどうすればいいのだろう。
アヤノはもう何度もメッセージを送り、着信を入れている。
いまだに既読は付かないままだ。