ともに死んでと言いたかった②
普段ならとっくに寝てしまっているような時間帯。村で行われている大事な祭りに参加しているスミレは、事前に言いつけられた通り、電気を消した部屋の中、数人の大人たちと共にかたまって、音を立てないようにじっとしていた。
スミレは祭りの前に、大人たちから言われていたことを頭の中で反芻する。
一つ、祭りが始まったら家から決して外に出ない
一つ、家の中では電気をつけず、目を閉じて過ごし、何があっても音を立てない
一つ、玄関に厄除けを置き、何が来ても戸を開けない
漣の音しか聞こえない、静かな夜だった。
スミレはお祭りというのは、もっと賑やかで楽しいものを想像していたが、この村では違うらしい。
親代わりの男からは、神様をお迎えする大切な儀式だから、絶対に静かにしてなければならない、そうしなければ巫女をしているお姉さんにも迷惑がかかると、念を押された。
そう言われてしまえば、お姉さんのためにも祭りが成功して欲しいスミレは、少しも音を立てないように気を張っていた。大人たちがしていた会話から、少し前に急な来客があったようだが、それ以外は滞りなく祭りは進んでいるらしい。そうしてどのくらいの時間が経っただろうか、最近になって酷くなっていた生臭い臭いが、スミレには一段と酷くなっている気がした。
その時だった。スミレの耳に誰かが泣いている声が聞こえてきた。
誰か、そうは言ったが、聞き間違えるはずもない。
数日前にも聞いた泣き声。
お姉さんのものだった。
スミレがいる家は神社からすぐ近くにある。広場で巫女の仕事をしているお姉さんの声が聞こえても不思議ではない。
苦しそうな嗚咽、この世への絶望を漏らすような悲しい声だった。
何かトラブルがあったのかもしれない。思わず立ち上がりかけたスミレは、後ろにいた大人から押さえつけられた。
目を閉じていたし、大人が何かを喋ったわけでもないけれど、『静かにしていろ』そう言われているだろうことは、無言の圧力で感じていた。
そうこうしているうちに、外を誰かが走っていくような音が聞こえ、やっぱり何かあったのかもと、スミレの心配がピークに達しようとした時だった。
甲高い音が暗闇を引き裂くように鳴り響いた。ヤカンが沸騰した時になるような、細く、高い、どこまでも響いていきそうな音だった。
自分の心臓の鼓動が嫌に大きく聞こえる静寂の中、その音を聞いたスミレは、幼いながらに音を出した人物に怒りを覚えた。
何事も起きずに祭りが無事に終わればいいと思っていた。そのような中、巫女をしているお姉さんが泣いている声が聞こえ、さらに突然聞こえてきたヤカンの音のような騒音。いったい誰が仕掛けたのか、これ以上お姉さんに迷惑をかけないで欲しい。そんなスミレの願いも虚しく響き続ける騒音、騒音といって差し支えないほど五月蠅いその音は、一向に止む気配がない。
スミレは自分がソワソワと落ち着かなくなってきたことを自覚していた。周りの大人たちの反応も恐ろしかった。数日前から祭りの準備で大人たちはピリピリしていた。いつもなら怒られないような、些細ないたずらをしただけで、親代わりの男からは散々怒鳴られた。スミレが涙ぐんでも、一向に怒鳴りつけるのを止めない大人は狂気的で、まるで、何か別の存在に乗り移られたように思えるほどだった。
その異常な事実を、無理にでも納得するために、大人たちはそれだけ今日の祭りに真剣に取り組んでいるのだと、そう思い込むことにした。
それだけ鬼気迫る様子だった大人たちのことだ。大事な祭りの最中に、絶対に静かにしていなければならない時に、これだけ大きな音を立ててしまった者は、いったいどれだけ怒られてしまうのかと、殴られて、殴られて、死ぬまで痛めつけられるのではないかと、そう考えるだけでも怖かったのだ。
今にも周りにいる大人たちが立ち上がり、音の発生源を目指して、怒号をあげて駆け出して行くかもしれない。スミレは手を耳に当てて、それでも聞こえるであろう大人たちの大声に備えることにした。
手で耳を抑えても、甲高い音はまだ聞こえている。大人たちの怒鳴り声は聞こえない。
音はまだ聞こえている。大人たちの声はまだ聞こえない。
音はまだ聞こえている。むしろ大きくなったきがした。大人たちの声は、まだ、聞こえない。
ここに来て、ようやくスミレも何かがおかしいと思い始めた。静かにしていなければならない祭りの最中、あれだけ大きな音を、ピリピリしていた大人たちがどうして放っておくのだろうか? そもそもあの音は何なのだろう、お姉さんの泣いている声は、騒音にかき消されて聞こえなくなっていた。これまでに感じたことのない様な不安を感じてたスミレは、言いつけを破り、目を開けて周りを確認したい衝動に駆られた。
それでもスミレが目を開けずにいられたのは、いい子として育てられたが故に大人に逆らえない体質が身についていたからだろう。約束を破って怒られるのが恐ろしかったスミレは、耳を塞いでいた手を目に当てて、押しつぶしてしまうほど力を込めた。
そうして耳から手を外した瞬間、騒音が一層大きく聞こえてきた。初めは、ヤカンが沸いた時の音に似ていると思った甲高い音。じっとしているしかないスミレは、ただただその音を聞いていることしかできない。
早く止まれと、願いながら注意深く音を聞く。すると、初めは気にも留めなかった事に気が付いた。何秒かごとに、一瞬音が止まる瞬間がある。ただし、一瞬だけですぐにまた甲高い音が聞こえ始める。まるで、熱唱している歌手の息継ぎのような……そこまで考えてハッとする。
音が大きくなっていた。
つまり、音がこちらに近づいているのだ。
何か、自分の知らない得体の知れないものが近づいてくる。そこでスミレは初めて恐怖を感じた。
もはや、騒音は何かの声にしか聞こえない。あれだけ静かにしろと言っていた大人たちも、誰も音を止めようとしない。異常なことが起きていると実感する。
目を閉じたままのスミレには、頼りになるのは耳から入って来る情報だけ、しかし、聞こえる音は外で少しずつ近づいてくる謎の音だけ、他には何も聞こえない。周りにいるはずの大人たちの存在を示すような音は何も聞こえない。まるで、今この場には自分しかいないのかもしれないという不安が這うように心を登って来る。音もだいぶ大きくなっている。鼓膜が破れてしまうのではないかと思うような騒音は、もう今いる家のすぐ外から聞こえているようだった。ここに来てスミレの恐怖心は限界を超えようとしていた。
その時だった。音が止んだ。
あれだけ五月蠅かった音が、急に途絶えた。
聞こえてくるのは、漣の音だけ、寄せては返す波の音が静かな夜を彩っている。
スミレは混乱しながらも、必死に言いつけだけは守ろうと、目を閉じて、じっとしていた。すぐ近くから誰かが唾を飲み込むような、かすかな音が聞こえてきて、思わず涙が出そうになるほど安堵する。何の情報もないまま、一人ぼっちになったような気がしていたけれど、実際にはしっかりと大人たちもいたのだ。祭りが始まってから誰も動いていないため当然ではあるが、それを実感できただけで幼いスミレは泣きそうになった。
「ごめんください」
緊張が緩んだ瞬間、玄関から聞こえてきた声に、思わず口を割って悲鳴が飛び出しそうになり、スミレは目を覆っていた手を動かして、瞬時に口を塞いだ。
「誰かいませんか?」
聞き覚えのある声だった。
というか、スミレにとってはよく知っている声、お姉さんの声だった。
先ほどまで、何故か泣いていたお姉さん。
神社で巫女の仕事をしているはずのお姉さん。
巫女の仕事がどのようなことをするのか、スミレには分からなかったが、神社を離れられないとは聞いていた。
そのお姉さんが何故か今、祭事の場を離れて、玄関の外にいる。
どうしたのだろう?
まさか、先ほどの音が原因で、祭りが続けられなくなるような、大きなトラブルが起きたのかもしれない。こうしてはいられない、けれど、大人たちから言われた祭り中の約束がある。動けない。
それでも、いつもお世話になっているお姉さんの力になりたい。少しの逡巡の後、意を決したスミレは、立ち上がろうと足に力を込めた。
「おはようございます」
――が、立ち上がる前に聞こえてきたお姉さんの声に、動きを止めた。
お姉さんは今「おはようございます」と言った。それは変だ。何せ今は夜だからだ。夜分に人の家を訪ねる際に挨拶にしては、見当違いにもほどがあることは、スミレにも分かった。
さらに思い返せば、一言前もおかしいのではないだろうか、「誰かいませんか」などと、どうして聞いたのだろうか?
ここは祭事の場に一番近い所にある民家で、祭りの最中、村人の数人がここで待機することになっていた。これはスミレや、他の村人全員が知っていることであり、当然お姉さんも知っているはずだった。
「こんにちは」
お姉さんは相変わらず玄関から声をかけてくる。
ここで、考えることに夢中になっていたスミレは鼻につく臭いを感じた。
腐敗臭。
船着き場の近く、寮の網にかかった雑魚や、ヒトデを漁師たちが護岸に捨てて、乾燥させて殺していた。その付近からは生ものが腐ったような酷い臭いがして、スミレは思わず鼻を抑えたことを思い出していた。その臭いを何十倍も凝縮して臭いを強化したような臭さだった。それが玄関の方から漂ってくる。
また誰かが唾を飲む音が聞こえた。
それは、スミレ自信が唾を飲んだ音だった。
「おはようございます」
「こんにちは」
「こんばんは」
「こんばんは」
「誰かいますか? ここを開けてください」
「開けてください。誰かいるなら開けてください。私です。分かるでしょう。私ですよ。開けてください。私には開けることができません。だから中から開けるべきです。手がありませんからね。そうです。私です。開けてください。入れません。開けるべきです。私は入れません。だから開ける必要があります。私を招き入れるべきです。これを外してください。そうです。開けてください。待てません。早く開けてください。もう待てません。私です。開けてください」
お姉さんの声を録音して流している。そう聞こえるくらい抑揚のない声だった。支離滅裂に話し続けるその声に、スミレは先ほど以上の恐怖を感じた。声は間違いなく、いつも自分を気にかけてくれたお姉さんのものだ。でも、外にいるのはお姉さんではない、他のもっと別の何かだと、そう確信せずにはいられなかった。
すぐに、声に混じって、何かを叩きつけるような音がしてきた。何か柔らかい物が玄関にぶつかっている。
「開けて……ください。私で……す。手がありません」
玄関が揺れるたびに声が途切れ、卵が潰れたような音がする。繰り返し、繰り返し、お姉さんの声と玄関が揺れる音がする。そのうち、お姉さんの声は段々と小さくなり、玄関が揺れる音は大きくなっていった。もはや家ごと揺らされているような振動に、ここまで懸命に耐えていたスミレの心は限界を迎えようとしていた。
「す、スミレ、ちゃん」
「……あ」
いつものお姉さんの声だった。
スミレは、不意に呼ばれた自分の名前に反応して思わず目を開けてしまった。
玄関のすりガラス越しに見えたお姉さんは、玄関に張り付いていた。
白いはずのすりガラスを、自分の血で真っ赤に染め、激しくぶつかった衝撃で手足をあり得ない方向に曲げたまま、顔にいたっては半分ほどぐちゃぐちゃになっていた。
声が出なかった。意識が虚ろになっていく、目の前が徐々に暗くなっていき、何も見えなくなる間際、スミレの視界に最後に映ったのは、何かに引っ張られるようにして後ろに消えて行ったお姉さんの姿だった。




