8話 認知症のモンスター、コボルトと出会う。
「認知、症? どんな病気、なのですか?」
初めて名を聞いたラウラは首を傾げた。慈善は少し思案し、
「正確には病気というより、特有の症状を表す言葉です。これは主にアルツハイマー病、血管性認知症、レビー小体型認知症、ピック病という四つの病気に大分されていて」
「あ、ある? け……れび?」
専門用語の数々にラウラは目を回した。
認知症とは、人間の行動をコントロールする司令塔の脳が、細胞の減少や働きの鈍化によって記憶や判断力に障害が起こる症状の事である。原因となる疾患により症状は異なり、
アルツハイマー型は脳にアミロイドβやタウと呼ばれる特殊なたんぱく質が溜まり、脳細胞が死んでいく事で海馬の働きが悪くなる疾患。
血管性はくも膜下出血や脳梗塞と言った病気で、脳が深刻なダメージを負う事で脳の働きが悪くなる疾患。
レビー小体型はレビー小体というたんぱく質が溜まる事で神経細胞が破壊され、認知症症状が現れる疾患。
ピック病は前頭葉にピック球という異常構造が溜まる事で発症する疾患。
と、大きく分けて四つのタイプに分かれている。
(問題はこのコボルトが、どのタイプの認知症なのか、だな)
慈善は【心電図】を使った。コボルトの心電図は青、やや不安を抱いている状態だ。
「おばあさん、こんにちは」
「おやこんにちは、少し涼しいけど、今日はいい天気だねぇ」
慈善が腰を下ろし、にこやかに挨拶すると、コボルトもにこりと挨拶を返した。
同時に心電図が青から緑に変わる。慈善の挨拶で気持ちが楽になったのだろう。
(挨拶を普通に返すか、それにちゃんと現在の様子を理解している。幻視や妄想をしているような様子がないって事は、レビー小体型の可能性は低いな。普通に行動しているから脳血管性の線もない。ピック症に関してはビフォーアフターが分からないから何とも言えないけど、この様子だとアルツハイマー型認知症とみていいだろうな)
アルツハイマー型認知症は日本人に多くみられる認知症の一つで、全体の六割を占めている。二番目に多いレビー小体型は男性に多くみられ、現実を上手く認識できない妄想等の症状が出るため、症状としては省いていいだろう。
脳血管性疾患ならば体のどこかに麻痺が出るので除外。ピック症は人格・性格に変化が出るタイプの症状なので、現時点で断定する事は不可能だ。
(要介護1か、2って所かな。性格も穏やかだ、これならコミュニケーションを取れるぞ)
「そう言えば、おばあさんって何てお名前でしたっけ?」
「おや忘れてしまったかい? レジーだよ」
「あっ、そうでした。すみません忘れてしまっていて。ところでレジーさん、頭に落ち葉がついていますよ?」
「えっ? 本当かい」
レジーは慌てたように頭を押さえた。実際にはついていないので、ラウラは首を傾げた。
(どうしてジゼンさん、嘘ついたのかしら?)
ラウラがそう思う間に、慈善はこっそり落ち葉を握ると、レジーの頭に触れて取るふりをし、彼女に見せた。
「ほら、折角の毛並みが台無しですよ。一度ご家族の所へ戻って体を綺麗にしませんか?」
「そうだねぇ。里にはあったかーい温泉があるんだよ、あんた達も入っていくといいよ」
「本当ですか? でしたらご一緒しませんか、私達も温泉に入りたい所だったので」
「あっはっは! 男だってのに大胆な事だねぇ」
レジーは楽しそうに笑い、慈善の肩を叩いた。心電図はより鮮やかな緑となり、彼女がとてもリラックスしているのが分かった。
コボルト相手に見事なコミュニケーションを取っている。ラウラは感心し、胸に手を当てた。
(これも、介護技術なのですか?)
(ええ。コミュニケーションは介護の基本にして極意ですよ。身なりを見るに、綺麗好きな印象を受けたので)
認知症を発症していると、脳の機能が低下する事によって、身だしなみに気を使わなくなることが多い。
だがレジーは、しっかりと丁寧に毛づくろいをしている。慈善の嘘への反応からして、家族ではなく毎日自分で整えているのだろう。
(半ば経験則による勘ですが、上手く相手の心を刺激できたようです。介護のコミュニケーションは、相手の気持ちに寄り添う事から始まりますので)
(成程……勉強になります。それに今、里とおっしゃいましたよね?)
(認知症を患っているから、目的の場所かどうかは分かりませんが……聞いてみましょう)
「レジーさん、里は何年前に出来た場所なんですか?」
「一年くらい前かねぇ、帝国に住んでいたんだけど、突然兵隊達が私達の村に襲ってきたんだよ。それで皆で一生懸命逃げて……ようやくこの土地にたどり着いたってわけなのさ」
ビンゴだ。認知症患者は過去の記憶を鮮明に覚えている、この情報は信憑性が高い。
「どんな場所なんでしょうか。レジーさんの里を見てみたいですね」
「なら一緒に来るかい? 若いのが来てくれれば里の皆も喜ぶよ」
レジーはそう言うと、慈善とラウラの手を引いた。
「で、でも道に迷っていたのに、大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。服の汚れが目立っていないので、里から出て一時間以内でしょう。これなら、足跡を見ながら誘導できます」
慈善は目を凝らし、地面を注意深く観察した。
(新卒の時、二次大戦時徴兵された人から話を聞いたんだよな。アメリカ兵が足跡をたどって追いかけてきたって。って事は、彼女の足跡を探れば……)
思った通り、レジーが残した足跡が地面に散乱している。これを辿っていけば、亜人の里へ向かえるはずだ。
「レジーさんは、エスケープをしてしまったのでしょうね」
「エスケープ? 逃げる、って意味ですよね?」
「はい。認知症の方は過去の記憶を鮮明に思い出します。特に故郷が遠くにある方の場合、帰宅願望が働いて、今住んでいる場所から出て行ってしまう事があるのです」
「そ、そっか。亜人の里は、戦争から逃げるために作られた物、元々住んでいた場所じゃないから……それじゃあ、ご家族はきっと心配されていますよね」
「当然です。急いで里を見つけて、安心させないといけませんね」
◇◇◇
レジーと会話をしながら、慈善とラウラは亜人の里を目指した。
話してみると彼女は随分明るく気さくで、よく笑う人だ。慈善としてもコミュニケーションのしがいがある老婆である。
ただ、何度か繰り返し話す事があった。
「最近は歯が弱って、食べ物がおいしく感じなくてねぇ……焼いたレインボートラウトが好きだったのだけど、あれは焼くと固くなるから……」
「そうなのですね……」
レジーはしきりにその話をしていた。よほど好物だったのだろう、レインボートラウトの話をすると目を輝かせるが、話の最後にはがっくりと頭を垂れてしまう。
(食の楽しみがない、高齢者で一番多い悩み事だ。施設によっては食事も粗末な物だったりするし……)
慈善が働いていた施設は他の施設よりも食事の質に力を入れており、週一で入居者にお楽しみメニューと言う豪華な食事を提供し、更には月一で入居者参加での調理レクも行っていた。
食は、人生を明るく過ごすために必須の物だ。
考えてもみてほしい。自分の好きな物が今後一生食べられない苦しみは、想像を絶するものである。それだけ食事は生きる上での根幹を握っている物なのだ。
(もし里に入れたら、何とか焼き魚を食べさせてあげたいな……)
「ああ、ここだよここだよ。ここに里の入り口があるんだよ」
レジーははた、と足を止めた。
彼女の足跡は確かに途絶えている。しかし周囲には相変わらず森と靄が広がっており、人里らしき物は見えない。
「本当に、ここに亜人の里が? 何もありませんけど……」
「いや、もしかしたら」
慈善は【心電図】を使った。この魔法は壁を透過する副作用がある。
それならば、結界を見破る事も可能なのではないか?
(ここは異世界、魔法のある世界だ。って事は当然……結界を張れる人が居ても不思議じゃない)
事前の予想は的中していた。
何もないはずの空間に、無数の心電図が浮かび上がったのだ。その数は数百にも及ぶだろうか、相当な数の人間が、目の前のどこかに隠れているのである。
「間違いありません、ここが目的の、亜人の里です」
「ほ、本当ですか? じゃあレジーさん、私達を入れて頂けることは……」
「ああ勿論さ。呼べば家の連中が来てくれるよ」
レジーは大きく息を吸い込むと、「入れてくれ!」と大声で叫んだ。
すると本当に声が届いたのか、霧の中から突然、毛むくじゃらの腕が伸びてきた。
慈善とラウラが驚く間に、目の前に亜人、屈強なコボルトが現れた。
上半身裸で雄々しい狼の頭を持つ、灰色の毛のコボルトだ。背中には大斧を担ぎ、がっちりとねじり鉢巻きを締めていて、まるで木こりのようである。厳つい顔立ちだが、目元はレジーに似た優しそうな印象だ。
「か、母ちゃん!? どこ行っていたんだよ、探したんだぞ!」
コボルトはレジーを見るなり抱きしめた。
余程心配していたのだろう、目から涙がこぼれている。彼の様子を見て慈善はほっとした。
(家族のエスケープ程心配な事はないもんな……よかった、家族に会わせる事が出来て)
「あんた達が母ちゃんを見つけてくれたんだな……感謝してもしきれないよ、ありが……」
コボルトは二人を見るなり顔をこわばらせ、レジーを背中に隠した。
「に、人間……! なんで人間が、こんな所に!? か、母ちゃんに何をした!? ま、まさか里の場所を嗅ぎつけられて……ぐ、軍が来たのか!?」
警戒心をむき出しにし、コボルトは斧を突き付ける。慈善とラウラに対し、強い敵意を向けていた。
咄嗟に慈善は両手を挙げた。予想はしていたが、悪い事に的中したようだ。
(亜人の里は戦火から逃れるために作られた物みたいだし、人間は警戒されて当然だろうな。直前になるまで対策を考えたけど、結局思いつかなかったし……)
(なんとか、私達に害意が無い事を伝えられればいいのですけど……)
「これクロム! 何乱暴な事をしているんだい、人にそんな物を向けちゃだめだろう!」
レジーがコボルトの頭をぴしゃりと叩いた。
突然の事に二人は勿論、クロムと呼ばれたコボルトも目を瞬く。
「な、母ちゃん、こいつらは人間だぞ! 俺達をこんな山奥に追いやった張本人なんだ、母ちゃんだって嫌ってただろ!?」
「何言ってんのかねこの子は。この二人は私の友達だよ、失礼な事して私の顔に泥ぶっかけるつもりかい。いいからそれを下ろしな!」
「か、母ちゃん……人間の肩持って、どうしたんだよ」
認知症であるはずのレジーに助け舟を出され、ラウラも戸惑っている。
勘違いして欲しくないが、認知症だから何もかもが分からないわけではない。嫌な事をされれば嫌だと思うし、良い事をされれば嬉しいと思える、きちんとした心がある。
慈善が丁寧に接したからこそ、レジーは彼らを助けようと自分なりに考え、行動してくれたのだ。
「私はこの子らに里の温泉を入れるって約束したんだよ、早く通してやんな」
レジーはしきりにクロムをせかした。クロムは難しい顔になり、ガリガリと頭を掻いた。
「……匂いからして、他に人は居ない。軍人でもなさそうだし、母ちゃんに乱暴した様子もないみたい、だな……あんた達、どういった理由でここに?」
慈善は詳しい経緯を話した。一通り話を聞いたクロムは腕を組み、
「……ようは、亡命って事か。よく帝都からここまで、徒歩で来たもんだな」
「生きるのに必死でしたから。それでその……」
「分かってる、里に入れるか否かって話だろ。……うーん、そうか。そのお嬢さんは、レンハイム家の……よし。ちょっと待っていてくれ」
クロムは少し考えると、レジーを連れて里へ入ってしまった。
待つ事一刻、再びクロムが出てくる。
「待たせたね、里長に話を付けてきた。里の皆にも、一声な。……俺の監視付きだけど、許可が下りたよ、おいで。それと遅れたけど……母ちゃんを助けてくれて、ありがとな」
「いえ、その言葉だけで充分、嬉しいです」
クロムから礼を言われ、慈善は柔らかく微笑んだ。
彼が呪文を唱えると、霧が急に晴れていく。どうやらこの森に漂う霧が、里を隠すための結界だったようだ。
「この霧は里長の魔法でね、入った相手を同じ場所でループさせる物なんだよ。たまたま母ちゃんがループの切れ目に声をかけたから気づけたんだ」
クロムはそう説明してくれた。
やがて霧が消えると、二人の目の前に、山村が広がった。
険しい山にあるとは思えない程、なだらかな土地だ。中世ヨーロッパを思わせる石造りの家々が並び、周囲には広大な畑が広がっている。牛や山羊、羊と言った家畜が自由に放牧され、思い思いに草を食んでいた。
そして住んでいる人々は、当然ながら全員、亜人である。
畑を耕すのは力仕事に長けたオークやギガント、水車小屋で穀物を脱穀しているのは手先が器用で知性の高いエルフ。家の修繕をしているのはお馴染みのドワーフだ。
「ジゼンさん、見てください。あの人、空を飛んでいます」
「えっ……本当だ」
二人の頭上には、空を走って荷物を運ぶマーメイドが居た。他にも、炎を出して野焼きをしているスライムや、雨を降らせて畑に水やりをしているアラクネ等々。各々が持つ魔法を駆使し、自分の仕事に励んでいる。
(多分、魔法で空間を捻じ曲げて、箱庭を作ったんだな。それを結界で隠して……大がかりな魔法だよ。俺の小手先魔法よりずっと強いや。上には上が居る、って事だな)
「そう言えば、君ら人間は、魔法が使えないんだっけ?」
「ジゼンさんは、母から魔法を受け取っていて使えますけれど、私は……」
「そっか。でも気にする事はないよ、元々使える種族じゃないんだし」
「ですが、亜人の皆さんは、色々な魔法を使えるんですね」
「うん。でもそのせいで、帝国の人間に追われたんだけどね……ここは、里長が張った結界に守られている。戦争だって、ずっと続く物じゃないだろ? 俺達は皆種族が違うけど、皆で出来る事をして、外の騒動が終わるのを待ち続けているんだよ」
様々な種族が身を寄せあい、助け合いながら暮らしている。牧歌的でのどかな光景に思わず安心し、慈善とラウラはため息を吐いた。
間違いない。ここがエレノアの示した隠れ場所、亜人の里だ。
「ここに居るのは全員、帝国に住処を追われた人ばかりなんだよ。この里に居る人数はざっと、五百人ってところかな」
「この里、って事は、他にも里が?」
「うん。国境沿いを中心に、帝国や他の国が手出しし辛い場所にね」
クロムは険しい顔をした。
「俺達を徴兵しようとしたのは、何も帝国だけじゃないんだ。リンドバーグ共和国と、レムリア法国。この二国も帝国に対抗するため、激しい「亜人狩り」を行ったんだよ」
「亜人狩り……想像に、難くないですね」
思わずラウラを見やる。するとクロムは察したのか、
「エリュシオン公国はそんな事はして無いよ。というより公国は、俺達亜人に対して好意的な国だったんだ」
「そうなんですか?」
「ええ、公国は大陸の主要四国の中で最も亜人との交流を築いていた国なんです。帝国に真っ先に狙われたのも、亜人を効率よく搾取できるから、というのがあったからでしょう」
「俺も一時は公国に居てね。父ちゃんの仕事の都合で帝国に移住したんだけど、公国がどれだけ亜人に優しかったのか、痛感できたよ」
エレノアがどうして亜人の里を頼るよう言ったのか、そしてラウラが素直に亜人の里へ向かおうとしたのか、ようやく理解できた。
(多分、説明する時間が無かったんだろうな。あの空間は、制限時間があったみたいだし)
「その公国四大貴族の一角、レンハイム家のお嬢さんとなれば、保護しない訳にはいかないな。君達の事は皆聞いているよ、さぁおいで。里長に挨拶に行かないと」
クロムに案内され、二人は里を歩いていく。
道中、亜人達が二人を目にするたびに、びくりと体を震わせた。
仕方がない。いくら害がないとしても、彼らは人間に住処を追われた存在だ。警戒心を抱いて当然、里に招かれただけでも、運が良かったと思わなければ。
やがて里の中で最も大きな家に着いた。
「ここが、里長の」
「そうだよ。なるたけ失礼のないようにね」
クロムはノックし、静かに扉を開けた。
広々としたリビングの中央に、女性が座っている。長く尖った耳に、透き通るかのような金髪を持った、エルフの女性だ。
切れ長の涼やかな目をしていて、知的な印象を感じる人である。濃い紫の服を身に纏い、足首までかかるロングスカートが優雅に揺れていた。
「ようこそ、人間のお二人。クロムの母を保護して頂いたようですね」
エルフは立ち上がると、朗らかに微笑んだ。
「私の名はユミル・エバーライト。まずは、貴方方のお名前をお聞かせ下さるかしら?」