一〇粒目
弟と別れたシャスカの足は、まるで形を失ったように、ぼんやりと目の前を歩くトカゲを追いかけていた。左右に尻尾を振りながら進む青色に、なんとはなしについて行く。もちろん、家に帰る道の一つではあるのだが。
シャスカは知っていた。
母はもう、歩けないと。
最近は気まずさが間に挟まってこそいたが、シャスカは母の、子どもへの深い愛を知っている。その母が、ジャスパの見送りをしなかった。
兄のアジャパは戦士になったきり帰って来ない。ジャスパもいなくなった。母の体は日に日に壊れていく。
――そして私は、どうなるんだろう。
ふと、シャスカの足が止まった。青色のトカゲが歩みをやめたから。考え込んでいたシャスカの視界をこじ開けるようなけたたましい鳴き声に、はっと意識を現実に戻した。足元には、鳴き声を撒き散らしながら、嬉々として地面を舐めるトカゲたちがいた。彼らが舐めている砂は、赤い。
シャスカは、そこがここ数日通っていた牢屋だと気づいた。赤い筋を辿って見上げた門柱の上には。
囚人の首が据え置かれていた。
シャスカが何か言うたびに浮かべていた、なんとも言えない表情。コルミーの話をしていたときの激しい表情。外の世界のことを話すときのおどけたような表情。
全てを失って、ただ虚ろな目で虚空を睨んでいる。乾ききった唇が前歯に貼りついて、いやに生々しい凹凸の陰を描いていた。
じっとシャスカはその残酷を見つめる。凄惨から目を逸らさない。唇を噛んで、目を細めて。それでも、月の下で生きていた囚人の骸が、陽の下に晒されているのを見ていた。
「……じゃあね。来ちゃってごめん」
シャスカは物言わぬ頭に謝った。
牢の前にいた時間は短いものだった。それでも、囚人の姿は、シャスカに深い納得を与えた。はっきりと形になって口から出せるものではないが。
ああ、そうか。
と。
帰宅したシャスカを待っていたのは、床に臥せて浅い呼吸を繰り返す母だった。半開きの目はこの世界を捉えておらず、曖昧に動く口はうわごとを呟き続ける。すっかり意識が混濁した母は、シャスカが枕もとに来たことにも気づいていなかった。
母の手を握る。母に触れるのは久しぶりだった。
こんな手だったけ。
懐かしさは感じられない。かつての面影を失った、節々が大きく腫れ上がった手。生気が抜け落ちた冷たい手を温めるように、小さな指が包み込む。
「この子はシャスカ……幸せの鳥の名前よ。絶対に幸せにして見せるから……」
いつの記憶を泳いでいるのだろう。母は、はっきりと聞き取れる声で、そう言った。シャスカの手が、強く握り返されて。
「ありがとう」
震える声で、シャスカは呟いた。
かくん、と力が抜けていく。母の手が、急に重たくなる。
シャスカはぐっと涙をこらえた。
――泣いたら、だめ。だって……。
泣いたら、どうなるのだろう。私は、何なんだろう。まだ、我慢しなくちゃいけないのかな。
私は。
数年前。貧しい者たちが暮らしている、街のはずれには娼婦が住んでいた。夫がいないのに、子どもは三人も抱えていた。彼女の家は、寂れ、荒れ、濡れ爛れたその地域にあって、唯一明るい声の響く家だった。
ここのところは、遠慮がちにひっそりとしていたが――。
数年ぶりにその家から、子どもが泣く声が聞こえてきた。長く、胸の底から全てを吐きだすような叫びだった。
悲しみは、遠く。
砂漠の空は、それでも雲一つない。




