第二章 「義務」
第二章 「義務」
人を殺した時、それが罪と思うならば、もっとも会いたくない相手は、殺した相手の家族なのだろう。
それも当然だ。なにせ罪の意識がありながら、その相手の家族に合わなければならないのだ。悲しみや怒りが自分に向かうのは当然であるし、もしかしたら復讐で殺されるかもしれない。
罪の意識もなく人を殺せるとすれば……そう、あのクリスとかいう少年のように、少女の目の前で父親を殺したのにも関わらず、ヘラヘラと笑っていられるのならば、心も傷まずに済むのだろう。
だが、それは同時に、人として何かを失ってしまう。そんな気がするのだ。
自分が人殺しであることは否定しないし、それが罪なのも知っている。ならば懺悔する相手は、やはりその家族や友人、恋人なのだろう。
そして今、そんな相手が目の前にいるのだ。
トレーネ・シュバルツブルグ。
自分の殺した少年の妹であり、公爵家の娘。
「どうしたの? 話の続きは聞かせてくれないのかしら?」
殺気や怒気も何も感じられず、唐突に現れた少女は、まるで世間話をしに来たかのよう話しかける。
「……兄の敵討ちか?」
その言葉に、少女は懸念な表情を見せる。
「何故、私がお兄様の敵を討たなければならないのかしら? 理解ができないわね」
「なんだと?」
トレーネの不可解な発言に、リヒトは耳を疑う。
「敵討ちをする価値がある男ではないでしょう」
「――なっ!」
敵討ちが目的ではない。それ以前に、今でも足元には、右腕がなくなり胸を貫かれたクリスの死体が横たわっているのだ。
気づかないわけがあるまい。それを見てなお、そんな台詞を言えている。
そういえば、この少女は最初から兄に対して好意的ではなかった。だからと言って、兄の死にここまで無関心でいられるとは……。
「因果応報……とでも言うのかしら? お兄様は自分で犯した罪を、自分の命で支払っただけのことだわ。罪とは裁かれるためにあるのでしょう?」
よく言う。
その台詞に、リヒトはわずかなイラつきを見せた。
「俺にとっては、黙って見ていたお前も同罪だがな……」
その言葉で、初めてトレーネの表情が崩れた。
何か申し訳なさそうな……辛そうな顔だ。
「だって……仕方ないじゃない。まさかお兄様が、あそこまで非道なことをするとは思っていなかったわ……」
「…………」
その表情はとても演技とは思えなかった。考え方が根本的に兄と違っているのだろか?
だが、その兄を見捨てているのは変わりない。善人ではないことは明白である。
「――私の力では、あの女の子を助けるので精一杯だったのよ‥‥‥」
「助けただと?」
何を言っているのだろうか?
あの場で救われたものなどいない。あの男も、その娘もクリスによって焼き殺されている。リヒトは言葉の意味が分からなかった。
しかし、それは前ぶりもなく、トレーネの後ろに姿を現す。
「――っ!」
それは、先ほどクリスによって殺された……。いや、殺されたはずの少女だった。
気絶……あるいは、眠らされているのだろうか?
身体にわずかな息遣いが見られるので、死んではいないようだが、間違いなくあの少女だ。
「これは?」
他に考えられない。神聖術である。
どのような能力かは不明だが、神聖術を使って兄から少女を救ったと言うのだ。リヒトは何か幻でも見せられた気分である。
ここまで接近されてリヒトが気づけなかったのも、その力なのだろう。
(幻術? いや、これはもっと別の……)
リヒトは直ぐに思考し、この状況を改善する案を出そうとするが、それは遠くからやって来た男によって中断される。
「――お、お嬢様! これは!」
護衛の男。ユリウスはクリスの死体を見て、驚愕した。
先ほどまで、自分のそばにいた人間が死んでいるのだ。この先、死人がでると確信していたが、まさか自分の主人が死ぬことなどと思いもしなかった。仮にも公爵家の次男である。その能力は折り紙つきであった。
犯人は考えるもなく、そこにいる少年であろう。
ならばユリウスの出す答えは一つだ。
「……っ、く、クリス様の敵!」
腰にある剣を抜き出し、リヒトに向かって突撃する。
リヒトは応戦するため、クリスを殺害したナイフを再び取り出した。
「やめなさい!」
「――うっ!」
トレーネの制止により、剥き出しになった刃はリヒトに届く前に動きは止まった。
「……今回の騒動、どちらに非があったか、わからないわけではないでしょう。彼は自分の身を守ったに過ぎないわ」
「し、しかし……」
ユリウスは戸惑いを隠せないでいる。
「それに、貴方は彼に助けられたのよ。その自覚はあって?」
「それは……」
まさかトレーネに止められるとは思っていなかったため、ユリウスは戸惑っていた。それはリヒトも同様であり、怪訝な顔でトレーネを見る。
先ほどは兄の敵討ちをしないと言っていたが、リヒトを生かす理由もないはずだ。
「まずは拘束しなさい。その男の処遇はそれからよ」
「……りょ、了解しました」
ユリウスと呼ばれた護衛は、腕にはめる拘束具を取り出し、リヒトにはめようとする。
クリスに言われ、犯罪者を捕まえるたまに用意したものだが、まさかクリスを殺害した者に使おうとは思いもしていなかった。
ユリウスはふるえる手つきでリヒトの腕に拘束具を取り付けた。
当のリヒトは、抵抗もせずにあっさりと受け入れることに、ユリウスは逆に不気味さを覚える。
「俺を殺さないのか?」
リヒトはそれをユリウスではなく、クリスの妹であるトレーネに問いた。
「さあ、どうかしらね。……これでも混乱しているのよ。いま貴方を感情のまま殺してしまうのもよくない気がするだけよ」
少なくとも、今殺すつもりはないと……。
その後のリヒトは、トレーネの言われるままに行動した。
ユリウスが乗ってきた馬車へと足を運ぶ。その従順さは逆にトレーネの眉を歪ませた。
「……抵抗どころか、逃げもしないのね」
「お前が今俺を殺すつもりなら、抵抗していただろうさ」
ここで逃げても事態は好転しない。スラムへの粛清が始まれば、より多くの人間が死ぬことになる。リヒトはそれだけは避けておきたかった。だからと言って、リヒトは自分が死ぬことを望んでいるわけではない。あくまでも優先事項は自分の命だ。
リヒトの考えは以外にも単純であった。殺されるまでは様子を見ることだけだ。この後、その判断が悪手となるかは運しだい。……もしくは、混乱しているのはリヒトの方だったかもしれない。
「……では、館に戻ります」
荷台と思われる場所にクリスの遺体をのせ、スラムの少女はトレーネの膝で寄りかかるように眠っている。
……よく見れば顔色が良くない。ただ眠っているのではなさそうだ。
まあ、無理なからぬことではあるが……。
今思えば、クリス等がスラムにやって来てわずか数時間の出来事だ。その短い時間で人が殺され、スラムは破壊され、クリスは死に、リヒトは捕まってしまう。
ユリウスは馬車を急がせ、スラム地域を抜け出した。
リヒト達が去った数分後、オロチのメンバーを数人連れたカルスが広場へとやってくる。
普段は賑やかな場所なだけに、本当にここがいつも通っていた場なのかが一瞬わからなくなる。辺りにはクリスが燃やした瓦礫と、人が逃げた際にできたゴミで、まるで戦争の跡地であった。
「……もう誰もいねぇのか?」
カルスは情報を聞きつけ、すぐに事件のあった場に向かったが、スラムは広く、この場までに駆けつけるのは時間がかかった。情報が散乱としていたのも大きい。正確な場所は伝わらず、ただ広場で人が殺されたと言う情報を聞いてきただけであったのだ。
「……クソが、任務を与えるなら正確な場所くらい言っとけよ。貴族どころか人ひとりいねえじゃねぇか」
カルスは文句を口に出し、イラつきを見せた。
もう終わったのなら用はないとばかりに、すぐに帰還しようとする。
「おい、カルス。ここに人がいるぞ」
「あん?」
カルスの手下の一人であるロマニが、壊されていない建物から人を一人見つけたらしい。おそらくは逃げ遅れであろう。ここで何が起こったかを聞くのにちょうどよさそうだ。
カルスはロマニがいる場所へ向かうと、毛布をはがされた少女が眠っていた。
外傷はないみたいだ。この様子では男に乱暴された形跡もない。本当にただ眠っているだけであった。
カルスはその少女の顔をのぞき見ると、唖然とした。
「―――って、クーじゃねえか」
ロマニが見つけた人は、カルスの知っている少女であった。何があったかはしらながいが、何故ここで寝ている。
カルスはクーがいたことにより、辺りにリヒトがいないかを確認した。この少女は常にリヒトに付きまとっており、単独で動くことはほとんどない。そもそもこれだけの騒ぎをリヒトが放っておくこともないだろう。
部下にも周囲を探らせたが、どうやらここにクー以外の者はいないようだった。ならば、この少女を起こす方が早い。
カルスは拳を握り、クーに狙いを定めた……。
「……り……ひと」
周囲に気配を感じたためか、クーはゆっくりと目を覚まし始めた。
カルスは頭をぶっ叩いて起こそうとしていたので手間が省けたようだ。
……悪運の強い女だ。
「おい、ここで何が起きた? 全部説明しろ」
目覚めたクーに、カルスは要求するのだった。
シュバルツ家の別邸。
別邸といえ、やはり公爵家の家。それなりの広さがあり、昔ながらの石造りではあるが、その分、貴族らしい趣があった。洗礼された彫刻は、見るものを楽しませる効果もあるのだ。
そんな別邸は、貴族の子供が管理するには不可能である。よって、当然のように使用人が存在し、日々の管理はその者たちで行われる。
しかし、使用人嫌いの……というよりか、平民が自分の家で動き回るのを嫌ったクリスは、メイドのアンリと護衛のユリウスのみを残し、すべて本邸に引き戻してしまった。その二人に対しても特別に気を許していたというわけではなく、妹であるトレーネが二人を気に入っているからである。形式上、二人はトレーネの従者ということになる。
使用人が二人……しかも一人は護衛のため、実質、屋敷を管理できるのはアンリのみで、食事、清掃、主君のお世話等、全て彼女一人で行われる。まさにいなくてはならない存在と言える。あまりにも多忙なはずの彼女なのだが、常に余裕のある表情で仕事をこなし、暇を見つけては市民で流行りの恋愛小説を読みふけっていた。
アンリと言う使用人は、一応、女性としては適齢期の二十四歳で、それなりの美貌を持っていたため、主人であるトレーネは「暇があるなら、素敵な殿方でも探してきたら?」と、余計ともいえる世話を焼いた時があったのだが、本人は興味がないらしく、未だ独り身を続けている。
性格的にはおっとりとしており、滅多なことではその表情を崩すことはないのだが、今回ばかりは驚愕を表すことになる。
「……クリス様が亡くなった!」
スラムから帰ってきたトレーネの突然すぎる報告に、アンリは悪い冗談かなにかだと思ったが、隣にいるユリウスの表情がそれが事実なのだと証明していた。
思わず失神しそうになるが、持ち前の気力で何とか持ちこたえる。
「地下に外側から鍵をかけられる部屋があったわね。まずはそこへこの者を入れてもらえるかしら」
鍵をかけられる部屋。
どういう経緯があって作られてかは定かではないが、部屋というよりも、そこは地下牢であった。
「この方は?」
見慣れない男がいることに気にはなっていたが、先ほどの話で頭が追い付かないでいた。
何故か拘束されており、ユリウスがじっと彼を警戒するように見つめていた。
「お兄様を殺した人よ」
……今度こそ、失神しそうになった。
「……本家にはまだ、お兄様のことは伝えないわ」
「お、お嬢様っ! それは本気ですか!」
トレーネは一人用にしては大きな椅子に腰を掛け、アンリに用意させた紅茶に手を付けながら発言した。
当然、ユリウスを大きく揺さぶりを見せたが、後ろにいたアンリも大きく目を開き、驚きを隠せないでいる。
「今の状況下で、お兄様は死ぬわけにはいかないのよ……。それに、そのまま本家に伝えてみなさい。ユリウス、貴方は護衛との責任を取らされて処刑されるわよ」
非情ともいえる一言であったが、役目を果たせない使用人をそのままにしておくほど貴族は甘くはない。むしろ当然とも言えた。
「そ、それは…………。いえ、覚悟の上です。事実、僕は護衛としての責務をこなせませんでした。そのことで処刑されても文句は言えません」
「相変わらず固い頭ね……貴方だけではなく、私もどうなるかわからないのよ」
「え?」
ユリウスは。一転して間が抜けた顔を見せた。その言葉を理解していないのである。
「殺されるかもしれないわね。貴方と一緒に」
「まさか……それこそお嬢様には責任のないことです。ましてや、本家がお嬢様を処刑なさるなどあるはずが……」
「そうかしら……。まあ、どちらにせよ報告はしないわ」
トレーネは表情を変えず、その決定事項だけを淡々と述べる。
さきほどの言葉も冗談などではない。本気の言葉だったのであろうか?
「お嬢様……」
ユリウスにはトレーネの言葉の真意は分からなかったが、この少女が発言を撤回するつもりはないのだけは理解した。
「お兄様がいない以上、この場での決定権は私にあるわ。これは命令よ」
「わ、わかりました」
そう言われてしまっては、使用人に過ぎない自分は決定に従うしかない。
どうやらアンリも同じのようだ。トレーネの決定に疑問はあるものの、それを反発する気はない様子だ。
「トレーネ様。あの少年はどうなさるのですか?」
アンリはこれ以上クリスの話をしても無駄と判断し、話を切り替えた。
こちらも十分に重要なことだ。
連れてきた少女はまだいい。事情を聞くと連れてくるのもやむをえないと思う。
しかし、同時に連れてきた少年はクリスを殺害した張本人。トレーネは彼を地下牢にぶち込むと、何も言わずそのまま食堂でアンリに紅茶の用意をさせた。
アンリは気が気でない。なにせ、今もあの少年はこの館の地下にいるのだ。自分もトレーネを主人とする身。主の身はなによりも優先しなければならないし、危害が及ぶようならば身を張って守らなければならない。
リヒトを見た第一印象は、そこいらにいる遊び盛りの子供と何も変わらない。本当にクリスを殺したのかどうか疑心に思ったほどだ。
クリスを殺害した理由も正当防衛のようだが、ならば「はい、そうですか」……と言うわけにはいかない。スラムの子供と公爵家の子供では身分が違いすぎる。あの少年には重い罰が下るであろう。
アンリは主の言葉を待った。何を言われてもいいように、心の準備だけはしておく。
「そうね……」
トレーネは何か考えだし、黙り込んだ。自分でも決めかねているようだった。
「アンリ、もしこのままお兄様の死が世間の知ることになったらどう思う? あのスラムの男は殺されるとして、その後のことよ」
「そ、それは……」
アンリは考えた。
クリスの死。それは公爵家ならず、いろんなところで大きな障害が出ることは間違いないだろう。
一番先に考えられるのは、スラムへの報復。
大勢の人が死ぬことになる。向こう側が反撃すれば、あるいはこちらの被害もさらに出てくる。
それだけならいい。中にはスラムの住人と繋がっている貴族がいると聞く。もしそれらやクリスの死を利用し、国のパワーバランスを覆す事態になれば、最悪は国の破綻である。
大げさかもしれないが、似たような前例はいくつかあった。戦争を軸に発展したクロイツ帝国では、貴族の派閥争いが後を絶たないのだ。
しかも今回死んだのは、国の重任を担っている。シュバルツブルグ家の次期当主。その可能性は格段に上がる。
「……申し訳ありませんトレーネ様。それは、考えたくもありません。……ですが、それがあの少年に関わりがあることとは思えません」
「そうね、関係のないことよ。……だからこそ、あの男を殺したところで利となることが何一つもないのよ」
確かに、あの少年を処分する理由は、あくまでもクリスを殺したと言う感情だけに過ぎない。殺そうが、殺さなくとも事態は一向に変わらない。
あえて言うのならば、リヒトがスラムに帰還することによって、クリスの死が世間に知られると言うことだが、クリスが居ない以上、それを知れるのは時間の問題なので、それも大した意味を持たない。トレーネは時間の先延ばしをしているにすぎないのだから。
しかも、向こうは完全な正当防衛だ。挑発をしていたとは言え、明らかに原因はクリスにある。少なからず、アンリはあの少年に同情の念はあると判断している。
「ならば……このままスラムに帰すのですか? それとも、このまま監禁しておくと……」
「……そうね」
トレーネは悩みだす。しかし答えが出てこない。
結局、その日はトレーネからの返答はなかった……。
スラムの騒動があった翌日。
地下の部屋などと呼ばれた部屋に押し込まれたリヒトは、思いのほか安らいでいた。
隣がワイン蔵を兼ねているので、温度が低く、人が寝泊まりするには肌寒い。
どうやら自分が来るまで何も手入れをしていなかったのであろう。歩くたびに誇りが舞い、そこら中にカビが生えていた。
徹底しているのが、この部屋は内側からドアを開けられないということだ。
鉄でできた扉は、内側に鍵などはついておらず、それどころかドアノブすら付いていない。外側からでないと開けられないように出来ているのである。
トレーネはこの部屋に入る際に、毛布と樽を近くの使用人に用意させていた。
樽の意味はこれで用をたせという意味であろう。涙が出てきそうな気づかいである。
一般の人間がこんな所に閉じ込められたのならば、鬱病にでもなりそうな雰囲気だが、リヒトはあえてこの部屋は快適だと考えていた。人の気配がまるでしないからである。
スラムで一番危険なものは何か?
飢餓、病気、伝染病、薬物……思いつくだけで色々あるが、実際にそこに住んでいる者はすぐに答えられるであろう。それは『人』であると。
年間何十万人という人がスラムでは命を落としているが、その八割は人的被害である。
だが、この部屋からならば人の気配を感じることはまずない。地下にあるせいか、窓などはついておらず、ここに来るためには奥にある階段を下りてこなければならない。足音も響くため、素人でも誰かが来たことが把握できるであろう。つまり、気を張らなくてもいいのだ。
スラムにいれば、常に外敵に対して警戒をしていなければならなかったので、安らぐときなどろくになかった。食事も睡眠も入浴も常に周りを警戒しなければならない。現に襲われることなど何度もあった。正直、部屋の内装などはスラムと大差ない。数少ないスラムの宿屋には、これ以上に最低な部屋もあるくらいだ。しかも金をとる。
ちなみに、スラムでもっとも豪華な宿は遊郭である。中には財力だけなら貴族に負けていない裕福層が泊まりに来ているくらいなので相当なものであろう。
……もっとも、そちらは使ったことがないので、実際はどのような部屋なのかは知らない。他人から聞いた感想だ。
あえてこの牢獄のような部屋に文句をつけるならば……。
「退屈だ……」
この部屋に入れられてすでに日は堕ち、翌日の昼である。
窓がないため、正確な時間は不明だが、腹の具合からして昼には間違いないであろう。
流石のリヒトでも、食事をしなければ生きていられない。いっそのこと、ドアをけ破り脱出を試みようかと思い至ったところで、足音は聞こえた。
――カツン、カツン
「…………」
一人、いや二人。
トレーネとアンリと呼ばれていた使用人であろう。足音の大きさから、少なくともユリウスと呼ばれていた護衛の人間は入っていない。
カチャカチャ
鍵を開ける音が聞こえた。
リヒトの考えていた通り、入ってきたのはトレーネとアンリの二人である。
護衛も付けず、リヒトの目の前に現れるのは、よほど自分の能力に自信があるのだろうか?
「逃げ出してはいないようね。……と言うより、そこから動いた気配もないわね」
リヒトの様子を見て、そう判断する。
「……俺をどうするつもりだ」
冷たい口調でリヒトは言葉を投げた。
「そうね、貴方……『どうされたい?』」
……質問の意図が分からなかった。
「実はね、私は貴方を持て余しているのよ。訳があって、お兄様を殺した罪人として王宮に報告するわけにもいかないし、もちろん貴方をこのまま返すわけにはいかない。処刑がお望みならばこの場で叶えてあげてもいいのだけれど?」
牢屋の様な部屋出され、食堂と思わしき場所でリヒトはトレーネと対面していた。
「まるで決定権が俺にあるような言い方だな。それに、処刑とやらもお前が望んでいないように見える」
「確かに、死体を片付けるのは面倒ね。お兄様の件で実感したわ」
「…………」
そんな事をあっさりと言ってのける。
リヒトに冷血と思わせるには十分な態度であった。
「変な女だ……いったい俺に何を求めている」
「私に言わせれば、貴方の方が変だわ。どうして逃げないのかしら? このまま処刑されてもおかしくないのよ」
トレーネは質問を質問で返す。
どうあっても主導権を自分におく為だろう。
「俺は死ぬ気はない。お前たちが俺を殺す気ならば、お前を殺してでも逃げていたさ。……だが、少なからずお前の兄を殺した責任をとれるのでならば、それに従おうと思っただけだ」
その解答は予想していなかったのか、トレーネは少しだけ驚いた顔を見せたが、すぐにまた冷たい表情に戻した。
リヒトは嘘を言っていない。もしも自分が殺されるような事態になれば、目の前にいる少女を殺してでも逃げていたことだろう。たとえ、どんな神聖術を使ったとしてもだ。
だがもし……少ない確率ではあるが、自分に罪を償うことが出来るのならば、それに従わない理由がない。ほぼ殺されると分かってはいたものの、昨日のこの少女の反応を見る限り、その可能性がないわけではないと判断した。
「……そう、責任感が強いのね」
トレーネはその言葉を信じているわけではないだろうが、疑うつもりもないらしい。
「なら質問を変えましょう。貴方は何ができるのかしら?」
トレーネは簡単な質問をリヒトにした。リヒトという人物を見定めるつもりである。
「……俺の仕事は、スラムの強盗団や人売りを捕まえ、秩序を保つことだ。一種の警備隊と思えばいい。もっとも、犯罪を防ぐために犯罪を犯すこともある。正義の味方なんかではないがな」
「おかしな話ね。スラムの秩序を守るだなんて。そんなことをして意味があるのかしら?」
「あんな場所だからこそ、秩序が必要なんだ。もし全員が無作為に犯罪を犯せば、スラムなんかはすぐにでも崩壊するだろう。あそこには平和に生きたいだけの人もたくさんいる」
スラムの住人が全て犯罪者ではない。当たり前のことだが、それを知らない貴族は多い。もともと多くのスラムの住人は、戦争で家や家族を失った者たちの集まりであった。自分の国をクロイツに侵略され、そのまま国がスラムになった例もある。
「そうね……そうだったわね」
以外にもスラムの状況に詳しいのか、トレーネはあっさりと納得した。
「ようするに、貴方は蛇の群れ……『大蛇』に所属しているのね」
表情にこそ出さなかったが、リヒトはその言葉が出たことに驚いた。
「知っているのか?」
「ええ、スラム最大の犯罪集団。目下政府が目の敵にしている天敵ね」
犯罪集団。間違っていないだけに、そのことは反論しなかった。
スラムの秩序を守るなどと聞けば聴こえは良いが、クロイツの法にあてれば間違いなく犯罪。
政府がらみの暗殺、強盗、人身売買。数えればきりがない。
先ほどは、そういた者を捕まえると言ったが、ようするに自分の管轄内で余計なことはするなと言う意思表示に過ぎない。スラム全てを自分たちの指揮下におきたいのだ。
幹部の中には政府打倒を目論む者もいる。クロイツの政府が目の敵にするのも無理もなかった。
ちなみに、貴族の中には『オロチ』と呼ばず、そのまま『蛇』と呼ぶものも多くいる。ただの呼び方の違いだが、騎士たちなのかではあえてこちらを使う物が多い。
「知っているのならば話は早いな。俺に出来ることなんて、そう言った犯罪だけだ」
「そう」
リヒトはトレーネの言葉を待った。
さて、この少女は、自分をどう使う?
それとも、オロチに所属していると判ったことで、やはり始末しようとするだろうか?
あるいは、それを利用して何か犯罪めいたことをさせるのか……。
「なら、まずは屋根の修理でもしてもらいましょうかしら?」
使用人としてこき使うつもりであった。
「僕にはお嬢様の考えがわからない……」
「まあ、突然でしたものね……」
部屋の間取りにして、一階の端に使用人の休憩室なる部屋があった。
部屋の広さはあまりないが、もともと数十人の使用人を抱える想定をしていたため、広さはなないと言っても、二人だけならば十分である。室内には休憩用のティーセットと、簡単につまめるお菓子が置かれていた。
アンリは自分の分とユリウスの紅茶を入れ、肩を落とすユリウスの前にそっとカップを置いた。
「お嬢様は彼のことをなんとも思わないのだろうか? 仮にも自分の兄を殺した相手だというのに、どうにかしているとしか思えない……」
「トレーネ様にはお考えがあるのよ……。それに、こう言っては反逆になってしまうのでしょうけど、私はクリス様があまり好きではありませんでした。それは貴方も同じではなくって?」
「それは……」
アンリの言葉に、ユリウスは何も言えなくなる。
クリスという少年は残虐性が強く、貴族以外の全ての人間が少年にとって能力の実験台としか思っていなかった。
ユリウスは、クリスが人を殺したのは昨日で初めて見たが、手口や殺しに躊躇いがなかったところを見ると、とても初犯とは思えない。影で人を殺したことのある動きだった。
貴族も人を殺せば、当然、罪になる。だが貴族が平民やスラムの住人を殺害しても、死罪になることはない。それどころかお金さえ払ってしまえば、簡単に釈放されてしまうのだ。
クリスはそれを良いことに人を殺害した。そんな人間を、正義感の強いユリウスが好きにはなれないのも当然のことだった。
さらに、スラムの人間には市民権すら存在しないので、例え故意に殺害したとしても、クリスがそれを罰せられることはまずないであろう。
それに、ユリウスはリヒトと呼ばれたあの少年には少なからず恩がある。
「貴方も彼に命を助けられたのでしょう?」
「…………」
その通りだ。
あのままリヒトの静止がなければ、おそらく自分もクリスの手によって殺されていた。偶然ではないだろう。リヒトは自分を助けるために前に出てくれたのだ。いわば、命の恩人であり、自分のせいでクリスを殺してしまったとも言える。
「……彼には感謝しているさ。だけど、僕はシュバルツブルグ家の護衛騎士なのに、このままクリス様の死をなかったことにして良いわけがない」
「なら、貴方はどうしたいの?」
「…………」
言葉につまる。
結局のところ、自分がわがままを言っているだけなのかもしれない。
「アンリさんは彼のことをどう思いますか?」
「……そうね」
アンリは自分のカップを机に置き、少し複雑な表情を浮かべた。
「最初に思ったのは『かわいそう』かしら」
「かわいそう。彼が?」
アンリから出たのは意外な言葉であった。
「ええ、彼がスラムにいたからではないわ。……もっと根本的な、何か深い闇を持っている気がしたの。どうしようもない何かを背負って……それでも諦められないような……」
「やけに具体的だけど、何か思うことがあるのかい?」
ユリウスの言葉にやや苦笑し、ためらいながらも答えた。
「彼の瞳は、どこかトレーネ様に似ているのよ」
「お嬢様に?」
意外な言葉を言われ、ユリウスは思考した。
正直、ユリウスはアンリの言っていることが分からない。だけど、彼女なりの感情があるのであろう。その意味を否定することはしなかった。
ユリウスは自分の剣を握り、その重みを確かめる。
この剣は……自分の誇りは何のためにあるのだろうか?
主の敵討ちもできず、自分の身を守ることすらできない。厳しい鍛練によって磨き上げた剣術は、ただの飾りとなってしまっている。
(それでも僕は……)
このままでいることなどできない。
その感情だけがユリウスを動かしていた。
それは正義感からか、あるいは別の何かか……。
カーン、カーン、カーン
シュバルツブルグの別邸で、釘の打つ音が聞こえる。
「…………」
リヒトは無言で二階の屋根の修理をしていた。
「次はお風呂場をお願い。最近水栓の調子がおかしいのよ」
リヒトはそのお願いは聞こえないふりをした。
確かに、自分はトレーネの兄を殺したことにある種の責任を感じてトレーネの命には従うつもりであったが、このような使用人まがいのことをするつもりはなかった。
「夕飯までには終わらせなさい。逃げ出すような真似をすれば、スラムまで殺しに行くわよ」
逃げ出さないことに疑問を感じた物が、何故そんなことを言う?
「……あの、トレーネ様」
話を切るように、使用人のアンリが主人に話しかける。
「何かしらアンリ?」
「例の少女が目を覚ましました」
「……わかったわ」
例の少女。
おそらく、昨日クリスから標的にされ、トレーネによって逃れた少女であろう。
自分の目の前で父親を殺され、次はそのまま自分を殺されかけた。その極度のストレスと緊張でいままで気絶していたのだ。
リヒトは屋根の修理を終えると、その道具を抱えたまま屋根から飛び降りた。
「あの少女をどうするつもりだ」
「……どうしようもできないわ。ただ、あの子の身内を殺した責任が取れるのならば、可能な限りは答えてあげるつもりよ。今の貴方のようにね」
そう言ったトレーネは何か悲しそうな眼をしていた。
「貴方、あの子を知っているの?」
知り合いではあるが、知っていると言うほどのものではない。
リヒトは否定することにした。
「いや、スラムは広いからな。オロチのメンバーですら全員把握できていない」
「そう……ならば他に身内がいるかどうかを聞かなければならないわね」
トレーネはリヒトに修理道具を片付けるように命令し、あの少女のいる寝室へと足を運んだ。
寝室の戸を開けると、確かに例の少女が体を起こし、目を覚ましていた。ひどくやつれた様子だが命に別状はない。アンリの言葉であった。
トレーネは近くにあった椅子に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「貴女の名前を教えてもらえるかしら」
「…………ぅぁ」
その少女は何かを答えるように口を開けたが、トレーネの望むような答えは返ってこなかった。
あきらさまに様子がおかしい。トレーネが来たことにより、緊張して喋られなくなったのだろうか?
「これは?」
トレーネはその答えを、少女でなく看病をしていたアンリに聞いた。
「おそらく、極度のストレスにより失語症になりかけています。ゆっくりと喋れば問題ので、日常会話には支障はないのですが……」
「……わかったわ」
自分の兄が行った行為は、当然ながらこの少女に良い影響は与えなかったようだ。
トレーネはその事実に、ずきりと胸の痛みを覚えたが、どう頑張ってもこの少女が失ったものを反してあげることはできない。取り返しのつかないことなのだ。
トレーネは先ほどした質問を、優しい声で再び繰り返した。
「ゆっくりでいいわ。話したくなかったら話さなくても構わない。……貴方の名前を教えてくれるかしら」
「…………エーデル」
「エーデル……そう、いい名前ね」
エーデルと名乗った少女は、弱々しくも答えた。
「エーデル。貴女のお母さんや、身内の方はいるのかしら?」
トレーネは「どこにいるのかしら?」ではなく、「いるのかしら」と口にする。
それは小さな配慮である。スラムの住人でいる限り、ある事実が浮かび上がっているからだ。
「……いない。……お母さんも……ずっと前に死んだ」
「…………」
トレーネは自分が想像したことが当たっていたことに胸を痛めた。
つまり、この少女は天涯孤独の身となってしまったのだ。
スラムに戻っても、この少女に居場所はない。その居場所は自分の兄が奪ってしまった。
「お兄様が……私が憎いかしら」
トレーネは覚悟を決め、その質問を口にした。
「……それは違う」
エーデルは首を振った。
「え?」
「お父さんがあの男よりも弱かった。それだけだから……」
「……そう」
トレーネはその言葉を聞き、悲しい気持ちになった。
自分の父親が弱かっただけ。だから殺されても仕方がない。
異常とも言える考え方だが、実のところ、スラムではそのような考え方をする者は少なくない。あまりにも死が日常としすぎているのだ。肉親の死すら当たり前のこととすら思えるほどに。
エーデルは恨みを抱いていないと答えたが、父の死を思い出させてしまったのか、静かに涙を流した。
「恨みなんてない。ただ悲しいだけ……」
そう答えた少女は、再び瞳を閉じて眠りに入る。
まだ身体の調子が良くないのであろう。看病はアンリに任せるのが一番いい。今ここに自分がいても邪魔になるだけだ。
トレーネはエーデルを起こさぬよう、静かに寝室を後にした。
寝室を出たトレーネは、階段を向かって反対方向のある部屋を見つめた。
自分の兄である。クリスの部屋だ。
極度の使用人嫌いのため、アンリすらろくに入ったことはない。自分などは関わりたくがないため、その廊下を通ることすら避けていた。
トレーネはエーデルの姿を思い出す。
肉親の死に深く悲しみ、涙する。
今の自分の姿と重ね合わせるのは無理のないことであった。なにせ、同じ日に自分の兄も死んでいるのだ。
大嫌いであった。
お世辞にも真面目な性格と呼べず、常に人を見下し、妹である自分でさえも、まるで虫けらのように扱う。おそらく、人を殺めたのも先日が初めてではないだろう。
兄を殺したあの少年は完全な正当防衛だ。そこに恨みなどはあるはずがない。
だから……。
だからこそ……。
この自分の瞳から流れるしずくは、気のせいでほしかった。
自分の弱さを痛感する。覚悟などとうの昔に出来ていた筈だった。
こんなことではいけない。
もっと心を強く持たなければ、おそらく自分の心は壊れてしまう。
「さようなら。クリスお兄様」
何かを決別知るために、静かに呟くのだった。
リヒトがシュバルツブルグ家の別邸に来てから、すでに三日の日が過ぎていた。
あれから一向に事態が進展していない。未だに使用人を続けていた。
(まさか、本気で使用人として過ごせとは言わないよな……)
などと思っていたが、当のトレーネが何も言わないので、それも冗談でなくなってきた。
そろそろ直接本人に打診しなければならない。そう考えていたときに、珍しくトレーネ以外の人物が話しかけてきた。
「少し『稽古』に付き合ってもらおうか。……君が強いことは、普段の動きを見ればなんとなくわかる」
「『稽古』だと?」
護衛騎士のユリウスである。
監視するような視線は常々感じていたが、まさか話しかけてくるとは思わなかった。
「ああ、クリス様を倒した腕を、僕に見せて欲しい」
ユリウスの目からは強い意志が感じられた。何かを思ってのことだろう。
「……構わないが」
「決まりだね。中庭へ行こう」
中庭に行くと、ちょうど稽古に適している広場があった。
周りは花や木が生い茂っており、その手入れの良さが目立っている。使用人であるアンリが毎日手入れしているのだろう。
ユリウスは、通常の騎士の訓練で使用される木刀を持っておらず、鞘に入ったロングソードを二本持ち出していた。
「真剣を使うのか?」
「構わないだろう。正規の騎士でも真剣での模擬稽古は何度も行っている」
ユリウスはリヒトに剣を渡し、間合いを取った。
「いいのか? 俺に武器を渡しても」
「君がその気になれば、いつでも剣なんかは手に入れられてだろう」
確かにその通りであるが、自分から渡すのとでは意味が違ってくるだろう。それを理解していないわけではないはずであるが……。
「……ユリウス、いったい何の用かしら? 主を呼び出すなんて良い度胸ね」
不機嫌そうな声が中庭に響く。館からトレーネがこちらにやって来たのだ。
その言い方からして、ユリウスが呼んだらしい。
「すいません。実はお嬢様には立会人になってほしいのです」
「立会人?」
トレーネは二人の様子をみて、怪訝な表情をした。
「まさか決闘をするなんて言わないでしょうね?」
「稽古ですよ」
ユリウスは即答する。
「……まあ、いいわ。暇つぶしにはなりそうだもの」
トレーネはそう答えたが、怪訝な表情は消していなかった。
ユリウスの言葉をそのままの意味で捉えていないのだろう。何かを疑心に感じている。
「じゃあ、始めようか」
ユリウスは剣を構え、『稽古』が始まる。
それにつられてリヒトも剣を構えたが、どこか力が入っていない。ユリウスと対照的であった。
誰かが合図したわけではない。リヒトが剣を構えてから数秒経つと、ユリウスはリヒトに向かって猛攻なる突進をしだした。
「はあああああ!」
「――っ!」
ユリウスの猛攻に、リヒトは剣を強く握りしめ、半歩だけさがり受け流すように受け止めた。
リヒトが想像したよりも早い。真剣での重みも伝わり、振動で手が震えた。力はあちらの方が上のようだ。
だが、そんなことを考えている場合ではない。
「今の攻撃……殺意がこもっていたな」
「ああ、僕は今、君を殺そうとした」
偽らず、堂々と言ってのける。
主であるトレーネは、その言葉に過敏に反応した。
「ユリウス。これはどういうつもりかしら?」
「申し訳ありませんお嬢様……。けれど僕は、シュバルツブルグ家の護衛騎士なのです」
覚悟と、謝罪が混じる声。その意思は本物であった。
再び剣を構え、攻撃の姿勢に入った。先ほどとは違い……やや距離をとり、間合いを調整する。リヒトの動きを見て近接戦では不利と感じたのだろう。
「一応、聞いておくが、クリス・シュバルツブルグの件はどうするつもりだ? 世間に知られるとまずいのだろう」
「……それを知っているのか?」
「予想くらいはつく」
考える時間は沢山あったのだ。
殺す理由、殺さない理由……トレーネの態度からも察した。
それよりも、ユリウスの今の行動だ。
このままリヒトを殺せば、クリス・シュバルツブルグの死が世間の知ることになる。主のトレーネはそれを望んでいないだろうし、ユリウス自身、護衛不足の責任として処刑される恐れがある。
つまり、ユリウスは自分の死を受け入れている。
「その時は、僕がクリス様を殺したことにすればいい! そうすれば裁かれるのは僕だけで済む」
「ユリウス、貴方……」
護衛の者が主を殺す。確かに、それならばスラムやリヒトの仲間には貴族の制裁が来ることはないだろう。だが、主を殺したユリウスの名誉は穢され、あるはずのない罪で処刑されることになる。
クリスを殺されて三日間。ユリウスの出した答えはそれであった。
「……大した忠誠心だよ」
若いうちに、このような覚悟をできる者はそうはいない。称賛すら覚えた。
「……忠誠? 違うよ、これは――」
何かを思うように、言葉を返す。
「義務だ!」
言葉と同時に、リヒトに向かって斬撃を浴びさせる。
寸前で全て回避しているが、一度でも受ければ致命傷は避けられない。それ程までの威力の攻撃だ。
「……義務だと?」
「そうだ、これは義務だ! 僕がシュバル家の護衛騎士として与えられた義務。殺されたクリス様に対し、僕が果たさなければならない義務だ!」
ユリウスの攻撃をギリギリのラインで回避していく。
トレーネはそんな様子をみて、止めはせず二人の行く末を傍観していた。
(神聖術を使えば、この場は簡単にしのげるけど……)
ユリウスに、別の何かをリヒトと思い込ませればいい。
しかし、それでは死を覚悟したユリウスの意思が無駄になる。物事が解決したわけでない。後のことを考えると、このまま好きにやらせたほうが良いのかもしれない。
(いいわ、ユリウス。……貴方の覚悟を見せてもらいましょうか)
自分の考えが正しいかを見極める必要もあった。
トレーネはここ数日、ずっと考えていることがあった。
あの少年……リヒトをどうすれば良いかを。
考えるうちに、トレーネはある無謀とも言える答えに行きついた。
兄を殺した責任をとると言うのならば、存分に利用させてもらおうではないか。トレーネは自分の目的のため、何よりも使える駒を探していたところなのだから……。
リヒトという少年。この程度で死んでしまうのならば、いずれは自分の足枷にしかならない。非情かもしれないが、自分に今必要なものは非情にも堪えられる心なのだ。先日、そう覚悟したばかりである。
トレーネは静観を決めると、ただ今の光景を目に焼き付けた。
「――はあっ!」
カキンッ!
激しい切り合いが、庭に響き渡る。
もうすでに五分は斬り合っただろうか? 徐々にこの決闘の結末が見えてきた。
そして、その結末はトレーネの考えていた不安が、杞憂であったことを理解する。
「……はぁ、はぁ」
「…………」
体力が尽きかけているユリウスに対し、リヒトは息の一つも乱していない。
そもそもユリウスの攻撃に対して、リヒトは受ける、避ける以外の動作をしていない。完全な防御のみに集中している。リヒトが反撃をするスキがないのではなく、攻撃をしていないのだ。
「なんで……どうして攻めてこない!」
「お前を斬る理由がないからな」
「――っ!」
なめられている。
そう感じたユリウスは、感情の思うままに鋭い一撃を放つが、それも当たらずに空を斬る。
「想像以上ね……」
ユリウスは決して弱くはない。むしろ、若くして公爵家たるシュバルツ家の護衛騎士になるのだ。同年代の騎士と比べても相当の実力者だ。
しかし、リヒトは完全にそれの上を行っている。素人目で見ても、明らかなリヒトとユリウスの実力差が見えた。
「くそぉっ! 戦え!」
「…………」
自分でもそれが解っているのであろう。ユリウスの剣に苛立ちが見えた。
そして、リヒトはユリウスにとって、信じられない行動を取る。
――カランッ
向かって来るユリウスに対し、防御や反撃ではなく、剣を捨てた。完全な無防備である。
「――なっ!」
寸前ともいえる位置で、ユリウスの剣が止まる。あともう少し止めるのが遅ければ、リヒトを頭から切り捨てていただろう。
「何故、剣を放した!」
「何故、剣を止めた?」
…………。
両者がにらみ合い。短い沈黙が訪れる。
「……結局のところ、お前に無抵抗の人を斬れない。稽古などと言いつつ、俺に剣を持たせたのが証拠だ。ただ俺を殺すだけなら、武器を持っていない時に後ろから斬ればいいし、食事に毒を持ってもいい。……お前はどこか、自分が斬られることを望んでいる。護衛としての責任感が成せているのだろうが、死にたがりをわざわざ殺してやるつもりは俺にはない」
「死にたがり……僕がそうだというのか?」
「……お前の進む道は、全て自分の死だ。俺がお前を殺すか、お前が俺を殺して処刑されるかの道しか選ばなかった。他の選択肢もあっただろうにな」
「……違う……僕はただ、義務を果たそうとしただけだ!」
なお否定し、足掻くように剣を持ち直した。
「自分が死ぬことが、お前の言う義務なのか?」
「…………」
その言葉をきっかけに、今度はユリウスの剣が地面へと落ちる。
「僕は……だけど、僕は……」
納得はできていない。しかしユリウスにはリヒトの言葉が正しく思えた。もともと自分が間違ったことをしていると理解しているからだろうか?
「……ここまでのようね」
「お嬢様……」
「ユリウス、今回の件は不問にするわ。これからは貴方のやるべきことは、自分で考えなさい」
「…………」
無言の肯定。
トレーネはユリウスを責めることをなかった。反逆をした使用人など、ここで解雇することもできたし、それこそ本家に受け渡すことも可能だろう。処刑すらこの男は受け入れる。
だからこそ、トレーネはユリウスの想いを無駄にしたくはなかった。彼の気持ちもまた、理解できてしまうのだ。
理解できないとすれば、この男。
逃げることもせず、自分を人質にとるのでもなく、金品を狙った強盗もしていない。ただ言われるままに時間を過ごしている。様子を見るために、あえて泳がせておいたが、何もしないことがこれほど不気味に感じたことはない。
もしかして本当に兄の死の責任をとりたいだけなのだろうか? だとするのならば、自分がこれから彼に要求する言葉をどう反応する?
トレーネは迷いながらも、ついにそれを口にした。
「貴方の処遇が決まったわ。これから貴方は『クリス・シュバルツブルグ』と名乗りなさい」
「――どういうことだ?」
突然の台詞に、リヒトは驚きながらも疑問を口にする。
「そのままの意味よ。公爵家の次男が急にいなくなっては、世間で大騒ぎになるわ。事情を知っているものがその役目に付くのが効率的でしょう」
つまり、トレーネはリヒトにクリスの身代わりをしろと言っているのだ。
「身代わり……そんなものがうまくいくと思うのか?」
「まあ、思わないわね」
「…………」
自分で提案したにもかかわらず、あっさりと否定した。
その余裕の表情は、自信があるのかないのかがよくわからなかった。
「そうしなければいけない事態なのよ。貴方が作った因果よ。責任は取りなさい」
「……そう言われると、俺に選択肢はないな」
リヒトはトレーネが何を思って、自分にそれを命じたのかは分からない。だが、少なくともここで殺されるわけではないようだ。安堵とはまた違った表情をうかべた。
「…………」
ユリウスは何も言えない。
所詮、自分は反逆した身だ。もともと、その決定に逆らうことすらできない。
地面に落ちた剣を見る。
結局、自分の起こしたことでは、何も変えることが出来なかった。自分の誇りもまた、この剣とともに捨ててしまったのだろうか?
せめて、お嬢様が自分を罰すればまだ、それで救われたのかもしれない。だが、そんなことは逃げ以外の何事でもないだろう。
「……何もしない強さと言うものがあるわ」
「――え?」
突拍子もなくトレーネに言われ、ユリウスは頭が空っぽになる。
「貴方は何もできないではなく、何もしないを選んだ。それは確かに一つの選択だったのよ。それは誇りに思う出来だわ」
まるで心を読まれたかのような言葉であった。
トレーネはユリウスに、自分のやるべきことは、自分で決めろと言った。
それはもしかして、罰もまた、自分で決めろと言うことだったのか……。
だとしたら、これは何ともきつい罰だ。
「はは……」
ユリウスは思わず笑ってしまった。
考えても見るがいい、これはすでに目の前にいる男が行っていることなのだ。
彼もまた、何もできないではなく、何もしないを選んでいたのだ。自分への罰を決めるために……。
なるほど、これは勝てないはずだ。何せ彼は自分の先の行動をすでに起こしていたのだから。
「それでは朝食にしましょうか……誰かさんの所為ですっかり遅くなってしまったわ」
トレーネは皮肉交じりに呟いた。
ユリウスの長い朝に、終りが来た時であった。
「あたしは……信じない」
クーはカルスに向かって、そう宣言した。
二人はスラムによくある廃墟の一つにたむろっていた。
比較的リヒトがよく使っていたアジトの一つなので、もしかしたらここにいるかもしれないと淡い期待をクーは抱いていたが、その思いも虚しく、廃墟にはリヒトの姿は見えず、代わりにカルスが待ち伏せていたのだった。
「ふん、もうリヒトの奴が姿を消して三日も経つのにか?」
「たった三日だろ! 今まで半年近くいなくなった時だったあるんだ。それをたった三日で帰らなかっただけで死んだなんて、どうして言えるんだ!」
「だが、あの貴族。クリス・シュバルツブルグは帰還して、リヒトの姿が見えない。つまりはそう言うことだろ」
「――っ!」
あの傲慢な貴族がリヒトを殺さずに帰還するとは思えない。
つまりは目的を成した……リヒトを殺したということだ。
「いくらリヒトとは言え、公爵家との戦いは無謀だったと言うことだな」
「だまれ!」
クーはカルスの顔面に向かって拳を振るが、あっさりと受け止められる。
「おいおい、俺だって悲しいんだぜ。上の年寄りどもだってそうだ。せっかくの幹部候補が突然いなくなって、今頃は一から厳選しているだろうさ」
そんなことは聞いていないとばかりに、もう一度手を上げるが、またしても受け止められた。
「あんた、アタシを怒らせに来たのか」
「まさか……仕事だよ、仕事。それもデカいやつだ。少しでも人員が必要でな」
どうやらカルスはリヒトではなく、クーに用があったらしい。
「仕事……? 今はそんなものを受ける気にはならないよ」
「まあ、話を聞いてからでも遅くはないだろう。いいから聞けよ」
カルスは他に誰もいないにも関わらず、クーの耳元に小声で話す。
話を聞いたクーは、その内容に驚愕した。
「――なっ! そんなこと、リヒトが許すはずないだろ!」
「だから、そのリヒトはいないんだよ」
「アンタは……」
わなわなと拳が震える。
もう一度手を出そうかともったが、怒りで単調になった拳ではこの男に届かないだろうと理解し、踏みとどまるところで止まった。代わりに、拳を握る強さだけが大きくなる。
「怒りを向ける相手が違うだろ? それに、今回の作戦はリヒトの敵討ちでもあるんだぜ」
「どういうことだよ?」
リヒトが生きていると信じていても、その『敵討ち』という言葉には反応してしまう。
「この宴には、クリス・シュバルツブルグが呼ばれているらしい」
「…………」
「真相を知るにしたって、直接合ったほうがいいだろう? この機会を逃せば、公爵家の貴族様なんて永遠に会えないぞ」
確かに、自分にはそんな縁ない。
単独でシュバルツブルグの家に乗り込んでも、捕まって殺されるのが目に見えている。
ならば、確かにこの話はチャンスなのだろう。
「……リヒト」
クーはその名を呼ぶが、返事は返ってこない。
もし、カルスの話が実現されるのならば、大勢の人が死ぬことになる。それはリヒトにとって……いや、クー自身にとっても考えたくはないことだ。
リヒトはここにはいない。自分で決めなければならない。いままでどれ程までにリヒトに頼っていたのかを実感する。
クーはリヒトの想いを胸に残し、決断するのだった。