第一章 「侵略者」
この世に神などはいない。
スラムにいる間は、この言葉を何度も聞いた。
だが、俺の意見は少し違う。本当に神がいるかどうかは知らないが、ただ単純に神という存在は、人間という生き物に対して慈悲なんてものを与えてくれないのだろう。
そう……この国にいる貴族たちと同じように。
クロイツ王国。それがこの国の名だ。
長い歴史を誇るクロイツは、幾多の戦争と内乱を繰り返し領土を広げ、今では人口が五千万人を超える大国である。
そして、国が大きくなり、人口が増えれば必ず出てくる場所。それがスラム街だ。
どの国でも貧富の差はあるが、戦で成長したクロイツは力をもつ貴族や王族を絶対のものとした貴族主義社会が生まれ、その影響で隣国ではありえない程の差別と迫害があった。
暴力と略奪、そして死が日常であるスラム街。
そんな場所で十六年も生きてきた。
少年の名はリヒト。
スラムでは珍しい、清潔感のある衣服をまとった黒髪に青い瞳の少年。
貴族や平民ならば、その後に家名が付くのだろうが、あいにくスラムの人間にそんなものはない。育ての親の名を借りるときはあるが、あくまでも仮なため自分の家名ではないだろう。
中には名前のない者もいるのだ。名前があるだけマシというものだ。
「今いる大人たちが我慢強い人間ならば、どうやら俺は違うらしい」
黒髪の少年。リヒトがつぶやく。
「もともとリヒトが我慢強い人間だなんて思わないけど……だったら、どうするのさ?」
少年の言葉に少女が答える。
こちらもスラムでは珍しく、清潔感のある身なりだが、持ち前の赤毛とスラムでは標的にされそうな可愛らしい容姿が、真っ先に目に付く。
名前はクー。歳は十四。
物心つくときからそばにいる兄妹のような存在だ。
「この国を変える」
リヒトはそう宣言した。
「……リヒトさ、ときどき思い出したようにそれを口にするけど、この場でそれを言ってもねえ」
クーはやれやれと、手を左右に広げて、呆れているポーズをする。
無理もない。なにせ、いま自分は――
「おい、静かにしろ! 自分の立場がわかっているのか!」
捕まっているのだから。
格子によって閉ざされた馬車の荷台に、二人して話をしていたのだ。
周りには自分たち以外にも、数名の子供たちがいる。皆、怯えながら自分の運命に絶望していた。奴隷として運ばれているためその将来は閉ざされたと言っていい、当然のことだろう。
その中でやけに二人だけ元気が良いのがいる。リヒトとクーであった。
二人は怯える子供たちとは対照的に、軽快に笑いながら話をしている。人売りと思われる者から注意を受けたのもこれで三回目であった。
「……ちっ、これだからスラムの生まれの連中は」
「――ああ?」
その言葉に反応し、クーが不機嫌そうに眉を歪ませた。
「やめろ。……ここで歯向かったって仕方がないだろう」
「わかってるよ……」
大人しく従い、浮かした腰をまた鎮める。
理解はしているが、納得はしていないと言う表情である。沸点の低い少女だ。いつ我慢の限界が来てもおかしくはない。
馬車は進み、市街地から大きく離れた森の中で止まった。
格子の外から覗いてみると、近くに小さな山小屋が見える。どうやらここが目的地のようだった。
「……着いたぞ。余計な事を考えるなよ。妙な真似をしたら腹を串刺しにしてやる」
男は剣を片手に持ち、子供たちを威嚇した。これから山小屋へ子供たちを誘導するつもりらしい。
すると先に、山小屋の扉が開き、そこから一人の男が出てきた。
「ずいぶんと待たせたな」
「すまねぇな、見つからねぇように町を避けていたんだ」
クロイツでは奴隷を違法としていないが、許可なくそれを行った場合は違法となる。
リヒト達を連れてきた男は、当然ながらも許可などは取っていない。違法による人身売買をしているのだ。
そして小屋にいた男は取引の相手。顔をみるとまだ幼さの残る少年であった。
「若いな……ちゃんと金は用意してあるのか?」
「取引を間違えるほど子供じゃねぇよ」
少年は懐から金貨の入った袋を取り出し、男に向かって投げた。
「おお」
男は歓喜し、金貨の枚数を数えだす。なんて大金だ。
スラムに赴き、子供をさらう。それだけの仕事で自分は大金持ちになれるのだ。
少年は格子に入った子供たち確認する。
「……これで全員か?」
「ああ、若い子供を十人……要望通りだろう」
「まあな……それにしても、よく短時間でこれだけ集められたな」
「この国じゃあ、人を攫うのは難しくはないさ。スラムに行って、『食べ物をやるからついてこい』と言うだけで馬鹿なガキは直ぐに集まってくる。ありがたい時代になったものだ」
「はっ、確かに」
少年は格子の中にいる子供たちを、馬鹿にするようにあざ笑った、
リヒトはにやけている少年と目を合わせ、何かを思うようにため息をついた。
少年はリヒトに向かって言う。
「……なかなか似合っているじゃねぇか」
「言っていろ」
リヒトは不機嫌に呟く。
「……もういいのか?」
「ああ、始めていいぜ」
リヒト達を攫ってきた男は、その会話に不審をよせた。どうも様子がおかしい。
「おい、さっきから何を言っているんだ?」
――ガチャン!
急に格子のカギが壊され、その扉が開けられる。
「――なっ!」
「捕まえたなら、身体検査くらいはしておくことだ。たとえ子供でもな」
リヒトの手には大きめなナイフが握られていた。どうやらこれで鍵を壊したらしい。
その姿を見て、男はようやく理解する。
……しまった。嵌められた
「クソォ!」
いくら相手が子供とはいえ、この人数相手では分が悪い。
リヒトが格子の馬車から降りると同時に、行動を起こして走り出した。
金は持っているのだ、もうここには用がない。
男は山小屋の方に逃げて行ったが、途中、何かにつまずき転んでしまった。
「うぉ――っ! な、なんだ!」
男は足元を確認すると、そこにあった物体に驚愕する。
そこには、大柄な男の死体が転がっていた。
「――ひぃ!」
「あーあ、見つかっちまったか」
にやにやと笑い、びびっている男をまるで見世物としている。
悲鳴は未だ格子から出ていない子供たちからも聞こえたが、少年の耳には入っていなかった。
「カルス。お前はまた勝手な真似を……」
「うるせーなリヒト、俺に命令するんじゃねえよ」
カルスと呼ばれた少年は、注意するリヒトの言葉を無視し、男の方へ歩いて行った。
「ま、まさかこいつは……」
「そう、そいつが本来の取引相手。せめて顔ぐらい知っておくべきだったな」
カルスはにやけた顔をやめて、リヒトと同様に胸にしまっていたナイフを取り出した。
「や、やめ……」
男は自分がこれからどうなるのかを知り、必死に助けをカルスに懇願する。先ほど金をもらって浮かれていたのが馬鹿みたいだ。
「やめろ、カルス。そいつには聞かなければならないことがある」
「あん?」
カルスはリヒトに視線を向け、右手で頭をかく。
その手には、先ほどまで持っていたナイフが握られていなかった。
「……おせーよ」
カルスのナイフは、男の心臓に突き刺さり、出血で服が赤く染まっていた。
「あ、あああ……ああ……」
男は苦悶の表情を浮かべ、やがて倒れた。
これでは処置のしようがない。まだ息はあるが助からないだろう。
リヒトは懐にナイフをしまい、カルスに責めるような視線を向けた。
「……そいつには首謀者を聞きださせると言っておいたはずだが?」
「うっせーな、命令するなって言っただろ。その判断もお前がしたことだ。俺が従う理由はねぇよ」
カルスは男の懐をあさり、先ほど渡した金貨を回収した。
リヒトは不満そうにその様子を眺めたが、これ以上は言っても無駄と判断し、子供たちにいる馬車に歩み寄る。
「リヒト、終ったの?」
「ああ、もう出てきていい」
クーは格子から出ると、その後に子供たちがぞろぞろと出てきた。
その様子ではまだ安堵はしていない。何が起こっているのかもわからず、ただおろおろとしているだけであった。
クーは男の死体を見て顔を青くし、その手で自分の口元を抑えた。
「……これ、死んでいるの?」
「別に無理して見なくていいぞ」
「いや、別に見慣れているから平気だけど……」
その割には顔を青くしたままだが、クーの言っていることは間違いではない。
スラムでは人の死が日常となっている。特に治安の悪い場所に行けば、病気や飢餓で死んだ死体がそのままにされているくらいだ。見慣れていると言う表現は間違っていない。
いや、真に治安の悪い場所は死体すら残らないか……人の肉ですら商品として盗まれる。
もうクーのような子供ですら、それを疑問としていないのだ。
(異常だ……この国は……)
そう思いながらも、死体を見て何も感じなくなった自分も異常だと自覚する。
クーは死体に十字を切ると、子供たちを見て疑問を感じた。
「それにしても、子供を集めて何をするつもりだったのかな?」
「さてな……貴族様の考えていることは分からねぇよ」
その質問にはカルスが答えた。
さりげない台詞であったが、リヒトは見逃さない。
「貴族? こいつの雇い主は貴族だったのか」
「――ちっ」
カルスは舌打ちした。
リヒトの言ったこいつとは、先に殺されていた大柄な男の方だ。
子供の奴隷を欲したのは大柄な男なわけではない。所詮は仲介役に過ぎないので、雇い主は別にいる。
「大丈夫なのだろうな?」
「問題ねぇよ。仲介役なら殺したし、実行役も今死んだ。一体誰が貴族様に伝えるっていうんだよ」
「死んだからこそ、不振がることもあるだろう」
「どうかな……貴族共が平民の死をわざわざ気にするとも思わねぇけどな」
カルスはあくびをして、そっぽを向いた。人を殺したと言うのに、そのことをまるで気にしていない。
「とにかく俺の任務は完了した。わりぃが、先に帰らせてもらうぞ」
「カルス……」
カルスは聞く耳持たずで、とうとう何所かへと姿を消してしまった。
クーはバツの悪そうな顔で二人の様子を眺めていたが、話に割り込めないでいたので、そのことは追従しないでおく。
「リヒト、カルスのことはいいからさ、子供たちはどうするの?」
「……そうだな」
リヒトもこれ以上は追従しなかった。カルスの単独行動はよくあることなので、これ以上気にしたところで何も進展しない。
「お前たち、親はいるのか?」
「…………」
何人かの子が首を横に振る。
それはリヒトの予想通りであった。こう言った安易な誘拐に乗ってしまうのだ。孤児の多いスラムではその可能性が低くはない。
リヒトは主不在となった馬車に乗り込むと、再び子供たちに中に入るように指示をした。見た目はアレだが、他に帰る方法がないので仕方がない。
「親がいる者はそこまで送っておいてやる。……それ以外の者は、俺の知り合いの孤児院に預けさせてもらうぞ」
「まあ、知り合いって言っても、アタシの両親だけどね」
だから大丈夫だよ……と、子供たちを安心させた。
ちなみに孤児院と言っても、ただの古びた教会を使ったたまり場に過ぎない。土地は広いので、寝るところはあるが、食料は近くの山からの自給自足。水道も通っていなければ、面倒を見てくれる大人の数も足りていない。
そんなところでも、スラムにしては上等と言える。というよりか、そんなところでもなければ、孤児が多いスラムでは、直ぐに多くの虎児が詰め寄りパンクしてしまうだろう。
クーは狭いながらも、後ろの格子ではなく、無理やりリヒトの隣に乗り込んだが、馬を扱いしづらいとリヒトからの抗議が来たため、しぶしぶ後ろの格子に戻る。
すると、十歳くらいだろうか? 小さな少女が声をかけてきた。
「あ、あの……ありがとうございます」
「あ、う、うん」
クーはお礼を言われるなどと思っていなかったため、照れながら頷いた。
こちらとしては、仕事としてやったことのためお礼を言われるとムズムズする。
「お父さんに言えば、少しくらいはお礼をしますので……」
お礼。……つまりはお金のことだろう。
お父さんと言っているのならば、この少女は孤児ではなく父親がいるようである。
見たところ、服はぼろいながらも、クーたちと同様に清潔感はある。他の子と違って、スラムの中では裕福層なのが予測できた。敬語を使っていることから教育も良いようだ。その時点でクーよりも教養は上である。(クーは敬語を習っても、二日で忘れてしまった)
「お礼? いいよ、こっちは仕事でしてるもん」
「ですが……」
「大丈夫、後で別のところからお金が出るし、……この馬車も売れば結構な金になりそうだからね」
「そう……ですか」
双方、スラムにしては珍しいやり取りであった。お礼をすることも、それを拒む者も、スラムではめったに見られない。
リヒトは二人の様子に苦笑しつつ、クーに向かって言う。
「帰るぞ」
馬車は来た道をゆっくりと戻り、帰路へと入って行った。
こうしてリヒトの一日は瞬く間に過ぎていく。
奪い、奪われ、殺し、殺されていく。……このような『日常』をすでに何年も続けていた。
リヒト以外は誰も疑問にすら抱いていない。こんな状況を異常ともせずにいるのだ。
誰かが変えなければいけないのだ。この『日常』を……。
翌日、リヒトとクーは買い出しのため繁華街に来ていた。
位置的に言えばややスラム寄りだが、多くの平民も利用する町である。
ここでは、昼は食品や雑貨が並ぶ市場ではあるが、夜は多くの酒屋がにぎわい、遊女が表に出て客引きをする。
クロイツでは売春は法で禁じられているため、スラム以外では娼館はない。逆に言えば、無法地帯であるスラムには娼館があるので、ちょっとした冒険心で訪れる平民は少なくないのだ。
人が多いため、ひったくりこそ無くならないが、比較的に安全である。いわゆる羽目を外しやすい町というのが一般的であろう。
「そう言えば……昨日、西の連中が貴族の館を襲ったみたいだね」
「そうか……ここにいる奴らの殆どが国を恨んでいるが、西の方は戦争の難民が住民の八割を占めている。恨みも相当なものだろうさ」
戦争で国を大きくしたクロイツは、多くの民族が集合されて出来ている。終戦した後もまだクロイツに馴染めず国を恨むものも多い。特にスラムに住むことになった住人は尚更だろう。
「それで、どうなったんだ?」
「詳しくは聞いてないけど、全滅じゃないかな……? 貴族も怪我人が出たみたいだけど、それだけだったみたい」
「それだけでは割に合わないだろうにな……」
もっとも、貴族にとっては怪我人が出ただけでも許されないことかもしれない。
貴族は国の汚点であるスラムの住人を徹底的に嫌っている。自分でその状況を作り出したにも拘わらず、それを嫌悪しているのだ。当のスラムの住人にしてはたまったものではない。
このように、スラムによる反乱は後を絶たないが、それが上手くいったことはないだろう。神聖術と言う絶対的な力が向こうにはあるのだ。人も装備も揃っていないスラムの者など、相手にもならない。
「あ、リヒト、あれ見て」
「ん?」
クーの指が、露店で油を売っている場所を射していた。
そこには小さな少女が真剣な表情で品物を見ていた。油を売っている場所は、食用品以外にも鉱山で使う物や道具に使う物もあるのだ。少女はどれが何のためにあるのかが分かっていないようだ。
「あれは?」
「昨日、馬車にいた子だよ。……ほら、一人だけ礼儀正しい子がいただろ」
「ああ、そう言えば……」
リヒトは昨日の様子を思い出した。
確かに見覚えがある。
記憶力は良い方だが、他に乗り合わせていた子供たちは、ほとんど見ていなかったので、少女に気がつかないでいたのだ。
「昨日の今日なのに、一人でいるなんて物騒じゃないのか?」
あるいは、その迂闊さゆえに誘拐されたのかもしれない。
「そうだよね……注意した方がいいのかな?」
「――あ、いや待て」
少女の後ろに、一人の大人の男性が近づいてくる。
すると、少女は笑顔で男性の手を握り、何か商品のことを話す。
雰囲気から察するに、少女の父親のようだ。一人で来ているわけではないらしい。
「そっか、お父さんがいるって言っていたもんね」
「そうだったな……」
クーは微笑みながら、その様子を眺めていた。
両親がいないリヒトに対して、クーの両親は存命している。人が簡単に死んでしまうスラムに対し、両親に恵まれた彼女は、何よりも家族を大事にしていた。
兄妹同然で育ったリヒトにもその情があるらしく、今もこうして付き添っている。リヒトが仕事として、ある組織……大蛇と呼ばれる構成員になると、自分もとばかりに数日後には同じ組織に入ってしまったほどだ。
昨日のそれはオロチからきた仕事の内容であった。許可なく不当に子供を集めている男がいると言う情報を聞き、その始末の任を受けたのだ。
仕事柄、よくパートナーとなるカルスとは同期にあたる。オロチの構成員は軽く一万人を超えるため、子供がいても珍しくはない。物心つく前からオロチに入っている者もいるのだ。末端の人間になると、その規模が大きすぎて幹部でもその数は正式に把握していないだろう。スラム最大の組織である。
いつまでもその様子を眺めているわけにもいかないので、リヒトはクーに呼びかけて買い出しの続きを行おうとする。
すると、ガヤガヤと繁華街の奥の方……スラムの住人ではない、平民が住む町の方から騒ぎがしてきた。
そのざわめきは次第に多くなり、クーもその様子に気づいて、周りの様子を確認しだした。
「……なに?」
気分が良いとこを邪魔されている気分であった。
クーは怪訝な様子で、騒ぎの元を探った。
「……馬車?」
騒ぎの元は、一台の馬車であった。
馬車と言っても、昨日リヒトが乗っていたモノとはまるで別のものだ。外観は色鮮やかで豪華な装飾品が飾りとして使われており、馬も毛並みがよく、貴族で愛用されている白馬であった。およそ、スラム街にはふさわしくない。
猛スピードで走っていた馬車は、広場のような場所を見つけると、その動きを止める。
スラムの住人は、物珍しさで円を囲むように集まってきた。
「なんだ、なんだ?」
「大道芸人でも来たのか?」
「道を間違えたんじゃないのか?」
周囲の反応は様々だったが、どれも違う気がする。
リヒトは何だか嫌な予感がし、クーを騒ぎの中心から少し遠ざけた。
「何あれ? 貴族ってやつ?」
「……そのようだな」
リヒトは怪訝な顔でその様子を見ていた。
すると、銀の鎧を纏った騎手が馬車から降り、荷台の扉を開ける。
中から出てきたのは、二人の少年と少女であった。少年の方は、リヒトと同じ位の年齢だろうか? 顔つきや体格もどことなく似ている。
少女の方は一回り年齢が離れている感じだ。クーよりも少し年下と言ったところであろうか? 長い髪が印象的である。
二人とも、どこか冷たい眼をしていた。
「……なんだか臭いところだな。養豚場にでもいる気分だ。僕の肌には合いそうにないな」
「ならば来なければよいでしょうに……お兄様はわがままだわ」
少年のいきなりな物言いに対して、妹と思われる少女がその言葉に反論する。
周囲の人は、その様子に驚きを隠せない。
なにせ、自分にはまるで縁のない貴族がやって来たのだ。大道芸人よりも希少であろう。
少年は言った。
「僕の名はクリス・シュバルツブルグ。……先日、叔父の家の使用人が何者かに殺害されると言う事件があったので、その調査に来た。質問された者は真意をもって答えよ」
少年……クリスは自分の名を名乗り、周囲にその存在をアピールした。
「――シュバルツブルグだと!」
リヒトは言われた家名に驚愕する。
「知っているの?」
「知っているもなにも……この国の公爵家だ。なぜこんな場所にそんな奴が……」
「こ、こうしゃくけ?」
クーはその存在すら知らないようだ。……それくらい知っておけ。
ざわざわと、あたりが騒ぎ出す。
スラム街に貴族の人間が来ることすら珍しい……いや、皆無と言っていいのだ。公爵家の人間ならなおさらだろう。
「・・・・・・嫌な予感がするな。なるべく関わらない方がよさそうだ」
「そうみたいだね。早くパンを買って帰ろ」
「ああ……」
そんな予感を感じ取ったのは、どうやら自分だけではなく、ぞろぞろと逃げるように、人が離れていく。
「なんだ、なんだ? 公爵家の人間がわざわざこんな場所に来てやったのだぞ。誰も挨拶もしないのか?」
あたりの反応に、クリスは不満を述べた。
「どうやら反逆の意思が感じられるなぁ……全員クロでもいいんじゃないか?」
「それでは取り調べにならないでしょう……だから探知に優れたものに任せればよかったのよ」
貴族の少女は呟く。
「駄目だね。それじゃあ、僕の手柄にならない。わざわざ馬車まで使ってここまで来んだ。手ぶらじゃ帰れない。早く本家に戻るためにも、手柄は必要だろう」
兄の身勝手な台詞に、ため息をつき、呆れたような仕草を見せた。
「ならば、一人で行けばいいでしょうに。お兄様の点数稼ぎに付き合う気はないのだけれど?」
「はっ、毎日、毎日、家に引きこもっているだけの奴を、家から出す口実を作ってやったんだ。感謝して欲しいくらいだね」
「余計なお世話だと言うものだわ……」
再びため息をつき、馬車に寄りかかった。
どうやらこの少女は、何かをするためにここに来たのではないらしい。嫌々ついて来たことが表情に出ていた。
問題は兄の少年だろう。どこか嫌な雰囲気は、この少年から発せられる。
「そこのお前」
クリスと名乗った少年は、まだ残っていたスラムの男に声をかけた。
「……な、何か?」
声をかけられたのは、昨日助けた少女の父親と思われる人物だった。
近くに娘はおらず、広場で休んでいたところだったのだろう。
「さっきも言ったけど、実は僕の叔父の屋敷の使用人が殺されてね……状況から察するに、スラムの人間に殺されたらしいんだけど、いまいち全容が掴めなくてさ、犯人を捜しているんだけど、これがなかなか難しい。……なにせ、スラムの人に事情を聞きに来なければならないんだ。誰もやりたくはないのを、僕が直々にその仕事を受け持ったんだ」
「は、はぁ……?」
質問されているのか、自分の事情を聞いてほしいのか、よくわからない言葉に男は戸惑う。
「知らないかな? 犯人さんを」
「い、いえ……知りません」
「そうか、知らないか……」
少年は残念そうに頷く。しかし、その冷たい眼は、標的を逃がしていなかった。
「お前、庇っているな」
「……え?」
「罪人を庇っている。んー、そうに違いない」
わざとらしく、顎に手を構えて考える姿を見せる。
「クリスお兄様、いったい何を?」
妹が怪訝な顔つきで兄を見つめたが、それが驚愕に変わる。
「罪人を庇うやつも罪人。……死刑で良いよね?」
――突然、それは発現した。
クリスの右腕から赤い光が発せられる。
その光は赤い炎を生み、あっという間にクリスの身長の半分はあるかと言うほどの大きさになった。
神聖術。
貴族のみに許された、神なる力である。
その姿を見たクリスの妹は、とっさに身構えた。馬車の騎手をしていた男は唖然とその様子を見ている。
「お兄様――っ!」
「はっ」
クリスはそんな妹をあざ笑った。
すでに逃げる態勢に入っていたスラムの男は、その炎を見て、全力で逃げたす。
しかし、クリスの手の方が早かった。燃え上がる炎は男に追いつき、やがて火がつく。
「ああ……あ……かぁ…………がっ……」
めらめらと男は燃え上がり、炎が男の全身を包んだ。
「…………た、たすけ……て」
それ以上、もう男からは何も語らない。
この時、名前も知らない男が一人死んだのだ。
やがて男は……男だったものは、文字通り骨すらも残さず灰となり消えていった。
どれ程の熱量があったかは想像もできない。これが王族にもっとも近い、公爵家の力。
「ひ、ひどい……」
あまりにもな光景に、クーは思わず目を背ける。
「……殺す必要などなかったはずだ」
死が日常であるスラムでも、当然に秩序というものは存在する。餓えによる強盗を目的とした殺人はあれど、間違っても出会い頭に大した理由もなく殺人を犯すものはいない。カルスとてそんな真似はしないだろう。
『――うわあああああああ!」
誰かが唐突に叫び声をあげ、一目散に逃げ出した。それを拍子に残っていたギャラリーも一斉に逃げ出す。無差別ともいえる攻撃に対して、次に自分が標的にされてはたまったものではない。
「ははっ、いい声だったな」
「……悪趣味!」
妹のその瞳には、明らかな嫌悪と侮蔑があったが、兄であるクリスは気にもとめず、へらへらと笑う。
終始広場は静寂になる。自分やクーも逃げようとするが、広場の中心に一人の少女だけが残っていた。
(――逃げ遅れ!)
まずいと思った。
あの少年が子供だからという感情があるとは思えない。間違いなく、次の標的が決まるだけだ。殺されるかどうかは知らないが、ろくなめにはあわないだろう。
「何だ、僕に用事かな?」
残った人間がいたのが嬉しいのか、さっそくと言わんばかりに、少女へと視線を変える。
「……お父さん?」
少女から出た言葉は、少なからずリヒトに衝撃を与えた。
そこにいたのは、今まさに父親と買い物を楽しんでいたはずの少女であったからだ。
(……目の前で父親を殺されたと言うのか!)
その事実にクーは怒りを見せながら、少女を助けるため、クリスの元へ駆け寄ろうとする。
リヒトはクーの腕をつかみ、それを制止した。
「放して!」
「ダメだ! お前じゃどうすることもできない!」
「……だけど!」
それでも少女の元へと駆け寄るクーを、羽交い締めで止める。クーを引っ張り、建物の路地裏に入って行く。貴族に見つからないように姿を隠した。
リヒトとて飛び出したい気分であったが、いくらなんでも分が悪い。それに、少女が殺されると決まったわけではない。
しかし、そんな希望をあざ笑いながら、クリスは少女に向かって神聖術を発動する。
少女は逃げ出さない。
唖然と……目の前に起こったことが信じられないのか、放心しながら、ただ、父親がいなくなった場所を見つめていた。
「お、おやめくださいクリス様! このようなことが知れれば、シュバルツブルグ家の名に傷が付きます!」
それを止めたのは、一緒に来ていた騎手の男であった。鎧を見るに、騎士のようだ。二人の護衛なのだろう。
「うん? スラムのゴミを何人殺そうが誰も困らないよ」
「し、しかし……」
「……ちっ、ユリウス、君は博愛主義者だったけか?」
クリスはそのユリウスと呼ばれた護衛の男に舌打ちをした。
(くだらないな……)
クリス・シュバルツブルグは、明言した通りに、叔父の使用人を殺した者の調査に来たわけではない。
虐殺という名の『狩り』を楽しみに来たのだ。
クリスにとってスラムの人間は、自分の趣味を活かす絶好の標的でしかなく、いなくなっても困らないものである。いや、多くの貴族がそう感じていてもおかしくなかった。
クリスはユリウスの言葉を無視し、少女の髪の毛をそっと撫でた。
「いま、お父さんのところへ連れて行ってあげるよ」
「…………」
少女は何も言わない。言わないまま、ただ父親を探すようにやがて空を見つめていた。
……そして、何も言わないままクリスの炎によって燃やされていった。
「な、なんてことを……」
護衛の男は思わず目をそむけた。口に手を当て、吐き気さえ起こしている。
遠くで見ていたリヒトとクーは、止めなかったことに後悔をした。
「……リヒト!」
「わかっている!」
クーを止めたのは自分だ。自分があの少女が殺されているのを眺めているように指示したようなものだ。
それでも、あそこで飛び出さしたのならば、クーは殺されていた。
命は平等なのではない。リヒトは名も知らない少女よりも、クーの命を優先したのだ。
だが、これ以上好き勝手をやらせるわけにはいかない。それは正義感ではなく、リヒトを動かしている、ある行動理念であった。
おそらく、この件はオロチによって鎮静化されるであろう。オロチの任の一つとして、町の警護も兼ねているのだ。この件が伝わることは確実である。
しかし、そのオロチのメンバーを待っているわけにもいかない。相手は公爵家だ。オロチとて直接関わり合いは避けたいだろうし、戦闘になったらオロチのメンバーが勝てる保証はまるでない。
むしろ、貴族のご機嫌取りのため、好き勝手やらせる可能性すらあった。貴族とはそんな存在なのだ。
リヒトは貴族の恐ろしさをよく理解している。だからか、リヒトはクーに貴族に係ることは止めるよう、毎日言っているくらいだ。
だが、今回は自分からその忠告を破ることになる。
許せないのは、リヒトも同様なのだから……。
リヒトは何か使える物があるか周囲を見渡した。
そこには、あらゆるものが落ちている。もともと繁華街でモノは沢山あったのに加え、逃げ出した行商人が落とした物が多く散乱していたのだ。
リヒトは落し物の中で、茶色い小包を拾うと、ある決心をする。
「……さっきから煩いなあ」
クリスはユリウスから小言を言われ続けていた。
その様子が気に入らないのか、クリスはご機嫌だった表情が、再び不機嫌な表情へと変わった。
ユリウスのせいで、いい気分が台無しである。
妹の機嫌も悪いようだ。さっきから黙っているが、こちらに殺気を飛ばしている。
「トレーネ、何か文句でも?」
「別に」
トレーネと呼ばれた貴族の少女は、口でそう答えるも、反抗的な視線は止めていなかった。
それに対し、ますますクリスの機嫌が悪くなった。
「…………」
何かを無性に燃やしたい気分である。
こんな時は、神聖術を使ってストレスを発散させるのが一番良い方法だ。
しかし、周囲には誰も残っていない。皆、すでに逃げ出していた。どうやら歩いて標的を探さなくてはならないようだ。クリスは軽くため息をつく。
クリスは人を求めて歩き出すが、数歩歩いただけで足を止めた。
それでも、なお小言を言うユリウスに、クリスにある考えがよぎった。
(ああ、いるじゃないか)
標的が……。
自分が燃やしても、何も問題ない者が……。
クリスはにんまりと、ユリウスに笑顔を向けた。
「く、クリス様……?」
その様子にたじろぎ、ユリウスは足を一歩後退させる。
そして、悟ってしまった。
自分がどうされるかを……。
「お、おやめください。家の名に傷が……」
「そうでもない。ここはスラムだろ? 平民の町にいないような凶悪な犯罪者がいっぱいいてもおかしくないんだ。護衛のお前が何かあっても不思議じゃない」
「そ、それは……」
「父様には僕が直々に伝えてあげるよ。『護衛のユリウスは立派に戦って死にました』ってね」
「クリスお兄様!」
黙っていたトレーネだが、自分の護衛が殺されようとしているのを見て、流石に兄を止めようと腕を伸ばす。
しかし、兄には届かない。この人は、自分の意見など聞いたこともない。
「じゃあね。護衛騎士様」
「やめっ――」
――ドゴォ!
「ぐぁっ!」
唐突に、何か石のようなものをクリスの顔にぶつけられた。
それは思いのほか柔らかく、周囲に泥のようなものが散乱とする。小包のようなものが地面に落ちた。どうやらこの中に入っていたらしい。
「……誰?」
トレーネは投げられた方向に目を向けた。
「なかなかこの町に似合う顔になったじゃないか」
そこに一人の少年が立っていた。間違いなく、この少年が投げつけた物だろう。
「な、なんだこれは! く、臭い!」
クリスは付着した泥のようなものから発せられる臭いに、思わず咽かえる。
少年……リヒトはそれに答えた。
「牛糞だ。そんなものでもスラムでは金の元なんでな。少しもったいないことをしたか」
「ぎゅ、牛糞! 貴様、僕の顔に牛の糞を投げたと言うのか!」
クリスはふつふつと浮かび上がる怒りをあらわにして、神聖術を発動する。
リヒトはそれを確認すると、踵を返し逃げ出す。
リヒトの足は速かった。成人男性が逃げる速度を簡単に追い越すクリスの炎だが、リヒトの足には追いつけず、屋台のような場所に当たり火柱が出来た。
「あいつ……よくもぉ! 殺してやる!」
クリスのその表情には、先ほどの余裕はまるで感じられず、怒りでひどく歪んだ。
自分の上着を脱ぎ、顔にかかった牛糞を拭い取る。庶民には一生着ることは無いであろう、高価な服だったが、クリスは躊躇わず自分の炎で服を燃やした。
クリスは先ほど燃やそうとしていたユリウスをもう見ていない。すぐさまリヒトが逃げていった方向へ走って追いかけて行った。
「じ、自分は生きているのか……?」
ユリウスと呼ばれた護衛の男は、命をとりとめたものの、その標的が自分からあの少年の切り替わっただけであり、この先、少年が殺されてしまうであろうと悟った。
「何をしているの、ユリウス」
「お、お嬢様!」
「お兄様を追うわ。この辺りを廃墟にしたくなかったらね」
「は、はい!」
言われてすぐ立ち上がる。確かに、この状況でクリスを一人にするわけにはいかなかった。
それに、クリスの手にかかれば、この辺りを全て燃え散らすのはたやすいことであった。それはいったい、どれほどの被害が出るのかは想像したくもない。
「……あなたもついて来なさい。まだ歩ける気力があるならだけど」
「え?」
「貴方に言ったのではないわ」
主である少女の言葉はよく分からなかった。
「クソ! 何所に行った!」
そう遠くに入っていないはずだ。
あたりは見晴らしがよく、隠れる場所も少ない。あるといえば倉庫らしき建物が何か所に建っているだけだった。
「つまり、そこにいるってわけか!」
クリスは今までで一番大きい炎をつくり、その炎を倉庫に向けて放つ。
途端に火柱が上がり、建物全体が赤い炎に包まれた。
クリスは中に入って探すような手間はかけない。そんな必要はない。
自分の炎は、視界に入るモノ全てを燃やす力を持っているのだから……。
「そこか!」
クリスは倉庫から逃げ出す影を捕らえ、今度は威力を抑えた小さめの炎を無数に生み出し、その影へと放つ。
器用にも、それはすべて避けられ、辺りに黒煙を残すだけの結果になった。
その人影……リヒトは回避するしか手段しかなく、今度は廃墟のある場所へと逃げ出した。
「大人しく死ねよぉ! 虫けらの分際で!」
全ての炎が避けられたことに、憤怒し再び追いかける。
リヒトとクリスの命がけの鬼ごっこは、まだ終わることを知らなかった。
リヒトはスラムの廃屋に追い込まれ、先に居合わせていたクーと合流した。
「なんて火力だ……建物ごと燃やしてあぶりだす気か……。周りの被害など関係なしだな」
肩で息をして、全身が汗を拭きだしていた。
リヒトの方は余裕がない。疲労により追い詰められて、火弾一つでも当たれば終りだ。
クーはリヒトの姿を見て、動揺を隠せないでいた。
なんだかんだで、リヒトはスラムでも『強者』の部類にあるだろう。喧嘩で負けるところを見たことがないどころか、大人が数人かかって来ていてもリヒトには勝てない。普段は利便性の高いナイフを携帯しているが、剣を使ったのなら、騎士ですらリヒトは圧倒するはず。
そんなリヒトが、何もできないで回避に徹する。貴族の力とは、それほどのものなのか……。
「り、リヒト、これからどうするつもりなの? いくらなんでも、あの貴族と戦うなんて言わないよね」
「……俺の顔は見られている。それに、今さら逃げ出してもここの被害が増すだけだ」
それは戦うと言う言葉であった。
クーは自分とリヒトの立場が逆転していることに、自分の代わりにリヒトが動いたのではないかと言う錯覚に陥った。
ひどく顔が青ざめる。この状況がどういうことか、貴族とはどんな存在なのか、身をもって知ってしまったのだ。
「だが、お前の顔を見られなかったのが救いだな」
「どういうこと?」
何か手があるのだろうか? そんな希望がクーの中で生まれる。
リヒトはそんなクーの後ろ髪に優しく振れた。
「ちょ、ちょっと……」
こんな状況にも拘わらず、クーは赤面して照れだした。
リヒトはそんなクーに苦笑すると、何かを思い、そしてその手に力を入れた。
「――なっ」
リヒトはクーの後ろの首を強くつかみ、数十秒握り続けた。
絞め技の一種である。心臓から脳への血流を断つことによって、意識を混濁とさせる。
「リ……ヒト……」
やがて力なく、項垂れる。気絶した証拠だった。
リヒトはクーを抱きかかえ、近くにあった毛布をクーにかぶせて、その存在を消した。
「あんな奴と戦うのは俺一人でいい……」
スラムに気絶させた女を放置しておくのは危険だが、神聖術を使う貴族と戦うよりはマシだろう。幸い、先ほどの騒ぎで、あたりに人はいない。人が戻ってくるころにはクーも目が覚めているはずである。
この戦い……たとえ自分が勝利したところで、おそらく……。
だがリヒトとて、このまま殺されるわけにはいかない。あちらこちら走り回ったおかげで、いろいろと道具を調達できた。
足掻くなら、最後まで足掻いてやる。
地の利は完全にこちらにある。……が、あのようなやり方をされては、ここが燃え散らされるのは時間の問題だろう。直ぐに場所を移動する必要があった。
リヒトは廃屋をでると、クリスにわざと見つかるように動いた。
次第に疲れて、動けなくなるように……、やがて追い詰められて、逃げ場をなくすように……。
そんな状況を、リヒトは作ろうとしていた。
繁華街から廃墟へ、そしてまた繁華街に戻るような形で、ついにクリスはリヒトを追い詰めた。
そこは行き止まりであり、逃げ場はもうない。路地裏に駆け込んだのが失敗なのだろう。周りはクリスの神聖術で、如く破壊されている。見晴らしい景色となってしまっていたのだ。
当然だが、もう誰もいなくなってしまった。ここにはクリスとリヒトの二人だけ取り残されている。
「見つけたよ。ゴキブリのように動き回るのは止めたのかな?」
「…………」
リヒトは答えない。
クリスはその追い詰められたような表情に、言い表せない快楽を感じ、思わず顔がにやける。
これだから狩りは止められない。今までのことも帳消しになりそうだ。
快楽に身をゆだね、もっとその感覚を味わおうと、その距離を詰めようとした。
――ちゃぷ。
「うん?」
足元から水音がしたので、足元を見る。
あたり一面の大量の液体。この匂いと粘り気は、ただの水ではなかった。
クリスはこの水を知っている。おそらく、ごく一般的な家庭にもありふれたものだ。スラムには珍しいものだったが探せば無いわけではないだろう。
クリスはリヒトの狙いが分かると嘲笑した。
「なるほど、油ね……」
あたり一面の油に対して、迂闊に火を使えば当然引火する。この油の量ならばリヒトおろか、クリスまで焼け死ぬことになるだろう。クリスの能力を逆手に取った行動である。
つまり、自分はここに誘い込まれていたということだ。
(何やら、こそこそ動いていると思えば……)
リヒトは逃げる際に、どこかでこの油を調達していたのだ。相当な量があるので、どこか料理屋からにでもくすねてきたのだろう。
「これでお前は、能力の使えないただの人間だ」
「はっ」
クリスはそんなリヒトの作戦をあざ笑う。
所詮は知能の低い虫けら、スラムの住人の考えそうなことだ。
「よく考えたと言いたいけれど、お前はなにか僕の力を勘違いしている」
「…………」
リヒトは何も言わない。その代り、ゆっくりと歩き出した。
逃げるのでもなく、立ち向かうのではなく、ただ自分に最適な位置を探す。
「僕はなあ、火を『出す』能力者じゃないんだよ」
クリスは、そんなリヒトの動きに気づいてすらいなかった。今、クリスの中では、どうやってリヒトを嬲ってやろうとしか考えていない。
「火を『使う』する能力者なんでね。つまり、油を使おうが使うまいが、僕自身を避けて、お前だけを焼き殺すことが可能ってわけだよ!」
クリスは笑った。
こいつは愚かしくとも、追い詰めたのは自分だと思っているのだ。その傲慢さは命で理解させなければならない。
「神様からの慈悲だ! せめて痛み、苦しむようにじわじわ焼いてやる!」
「……やめておけ」
これはリヒトの最後の忠告であった。
このような事を言っている。
馬鹿らしい。自分の立場を弁えろ!
「やめておけ? ……やめてくださいだろおおお!」
――ドォン!
突然、何かがはじけた。
それは爆風として、容赦なくクリスの右腕を粉々にはじけ飛ばし、周囲に肉片を飛び散らせた。
「ぎゃああああー!」
悲痛な叫び声があがる。
クリスは一瞬、自分に何が起こったのかが理解できなかった。
惨めにも地面に横たわり、顔に土埃がついている。
頭を揺らしたので、とっさに思考できないでいる。
立ち上がろうと、腕を上げたところで気づいてしまった。
右腕が…………。
ない。
ない。ない。
ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない。ない――。
僕の腕がない。
それを理解した瞬間に、強烈な痛みがクリスを襲った。
「あがああああ――ああああっ!」
クリスは動物のような悲鳴を上げる。
「火は操れても、爆風までは防げないか……。その油はただの油じゃない。気化が早く、一度火をつければ爆風と熱で辺りを一瞬で燃えたらすものだ。鉱山でよく使われるものなのだが、貴族様は知らなかったらしい……」
液体ではなく、気体。牛糞をぶつけられて、鼻が利きにくくなったクリスには分からなかったのだろう。いろんな液体を混ぜることによってガスも発生していたが、特殊な状況下でそれを知ることはなかったのだ。
リヒトは言葉を続けた。
「炎を操るのが得意というのは本当みたいだな。あれだけ燃えていたにもかかわらず、自分や衣服はほとんど焼けていない。……実際、大した力だ。無意識のうちか、周りの火も消えている……」
リヒトは昏倒するクリスに対して、皮肉ともいえる称賛を口に知る。
位置や風向きを計算し、リヒトは自分が最低限のダメージで済むようにはしていたが、ある程度のダメージは覚悟をしていた。
しかし、爆発した瞬間にクリス自身が防いだのか、それ以上の爆炎もなく、あたりの炎は消えていた。リヒトにとってはありがたい誤算である。
あるいは、意識していれば爆発さえもコントロール出来ていたのかもしれない。
クリスが自分の作戦に気づいていれば、それだけで立場は逆だったのだ。
「う、腕がっ! 僕の腕がぁ……っ!」
クリスは右腕を失い、痛みと恐怖で悶絶する。リヒトの言葉など聞こえてはいなかった。
リヒトは無言でクリスに近づくと、腰にあったナイフを取り出す。無論、止めをさすためだ。
クリスはその様子を見て、ようやく自分がどのような状況に置かれていることに気づいた。
慌てて立ち上がり、逃げようとするが、リヒトが選んだこの道に逃げ場所などはなかった。壁にぶつかりながらも、なお進もうとする。
完全に先ほどと形成が逆転していた。
「や、やめろ。……やめてくれ!」
「……そう言った人に対して、お前は一体どうした?」
やめてくれなどと、先ほどクリスが殺した男の人も言っていたことだ。
しかし、クリスに慈悲はなく、名も知らない男はその場で殺されることになった。
「金ならっ――」
――ザシュ!
クリスが言い終わる前に、ナイフを胸に突き刺す。
鋭利なナイフは思いのほか簡単に、心臓まで進んだ。
「……あが……そんな……な、なんで僕が……」
「貴様の言う、神様の慈悲とやらがなかったのだろうさ」
ナイフを抜き去ると、わずかに血しぶきが飛ぶ。それと同時に、クリスの身体が地面に倒れこんだ。
「――ぅぁ」
そして、しばらく痙攣したあと、完全に動かなくなった。
クリス・シュバルツブルグと言う少年が死んだ瞬間であった。
「…………」
貴族を殺した……殺してしまった。
こんな場所に何年も住んでいるのだ。リヒトは人殺しが初めてなわけではない。
自分の身を、仲間の身を守るには時には人を殺す必要さえある。このスラムはそんな場所なのだ。
しかし貴族を殺したとなれば、必ずその家、もしくは国からの報復があるであろう。殺したとなればなおさらだ。
そして、この少年は公爵家の人間。
王族にもっとも近い貴族。この報復は必ず血が流れることになる。
それもおそらく自分だけではないだろう。仲間や、関係のないスラムの住人が死ぬことになる。
貴族では同胞の仇討ちは「義」とされる。そのためには犠牲などは関係なく、町の住人をすべて皆殺しにすることもあるのだ。
(……この国を出る?)
そんな考えが一瞬よぎったが、すぐに考えを止めた。
一体どこに逃げると言うのだ? 自分一人ならともかく、これはスラム全体を巻き込む事件だ。それだけで何人が死ぬかは想像もしたくはない。被害が逃げ出した先に行くだけではないか。貴族の中には、遠くを一瞬で探知するような能力をもった人間がいるのだ。
逃げられないのなら戦うしかない。正確には、どのみち死ぬのなら戦ったほうがいい。そんな考えも頭の中でよぎった。
(馬鹿な……それこそ、あり得ない……)
リヒトは今まで考えていたことを否定する。戦ってどうにかなるようなものではない。今はどうするか考えるのが先決である。可能な限り思考は停止させるものではない。
だが、どうすれば……。
「…………この国を変える」
自然と、いつもの口癖を言ってしまった。
この数年間……あるいはもっと以前から思っていたことだ。
この国は根本的におかしい。根元から変えなければならない。国が変われば、人も変わってくるだろう。このおかしな貴族主義もなくなる。
この国さえ、変えることができれば……。
「――なかなか面白い事を言うのね」
バッ!
突然聞こえた背後からの声に反応して、咄嗟に距離を取る。
そこにいたのは、先ほどクリスと共にいた少女。……トレーネと呼ばれた、貴族の少女だ。
この、今殺した男……クリス・シュバルツブルグの妹。
「とても興味が湧くセリフだわ。詳しく話してくれないかしら?」
冷たく、そしてどこか挑発的な口調で、トレーネは言葉を続けた。
この日……運命の分かれ目などという、俗なものがあるとするならば、まさにこの日だったのだろう。
スラム育ちの少年。リヒトの運命は、ここから大きく動きだすことになる。