困惑
「ただの抜け殻になにを語りかけているんだ。アイナ君」
心臓が止まりそうになる。それは紛れも無く俺が敬愛し、憎むべき大先生の声だったからだ。
壁に立てかけた男を一瞥してから背後の人物に視線を寄せる。
そこには幽霊のような立ち姿でぼんやりと浮かぶ顔色の悪い女がいた。記憶の通り、あのときのままだ。
まずは自分の正気を疑った。ただでさえ体調不良である。それだけでも幻聴、幻視の根拠になりうるだろう。
しかし先ほど耳に入った言葉は彼女に関する記憶のどこにも無かった。
そのことから考えるに、単純にそれが幻覚であるとは言いがたく、別の可能性の検討を余儀なくされた。
そうだ。別人の空似、あるいはこの薄暗さからの見間違いかもしれない。
俺は深呼吸をして女に語りかける。
「どちら様でしょうか。抜け殻とおっしゃいましたが、現状を把握しているのでしたら教えて下さいませんか」
その女は肩をすくめる。
「他人行儀なことだね。まあいいよ。君と私は以前とくらべて別の存在になってしまったのだから」
一瞬、考えるために呆けたように遠くを見る。大先生のいつもの仕草だった。
そして思い出したように続ける。
「そう、現状についてだね。君にはより正確に知っておいてもらわないといけないのだが。まずは、リアリティが上がったと考えてもらっていい」
聞けば聞くほど大先生のような気がしてくる。
俺はこの女を信用しようか迷っていた。
「リアリティですか? たしかにいつもよりも体が重いような気がしますね」
気づけば既に相手の話に乗ってしまっていた。
別にこの正体不明の女の言葉を聞いてやる必要はないのだ。
ウィンチからは、無闇に殺すのは勘弁してやってほしいといった旨のメッセージを受け取った。
しかしこの女は俺が殺した男の現状を抜け殻と表現した。ならば、その身で証明してもらうのがスジというものではないだろうか。
「君は重いと感じるのか」
「そうですが、なにか不都合でも?」
「普通の人は元の体に戻ったんだから、五感は拡張され身体動作は正確性を増すんだ」
「でしょうね。前からHOの中での方が動きやすいと思ってましたし」
俺が言うと、女は口角を上げむせ始めた。そして段々と大きな笑い声になっていく。
なにが面白いのか。俺の苛立ちはその笑い声の高まりと比例して加速されていく。何よりも、その姿が大先生であることが許せなかった。
「あなたは誰なんですか。どうやってここまで辿り着いたんですか。お答えいただけないなら、ここで……」
大量のまきびしを避けて通ってきたとは考えられない。対人マーカーには一度も反応は無かった。名前も確認しようと視界の中央に収めるが、表示されない。まるでそこに誰も居ないかのように。
「どうするんだい。私を殺すつもりなら諦めた方がいい」
思い出した。その後に続くのは『君では私を殺せない』だ。
つまり、この女は俺の記憶を元に作り出された、幻影であることが証明された。従って、次に俺が取る行動が決まる。
「さようなら。大先生」
かつてマダラメを通して大先生からもらったダガー。名前は皮肉にも真実の短剣だ。
俺はダガーを振るう。突き刺し、振り上げる数瞬後の未来を夢想する。
大先生、俺に真実を。
照らしだされた真実が明らかになる。
俺の体は一撃目にかけた体重を、そのままいなしかわされたため転んでしまう。
いや、かわされたのではない。文字通り空を切ったのだ。
体調不良で狙いを間違えたのかと思ったが、そうではない。
「この世界での私は、君と違って厳密な存在じゃないからね」
背中に意味のわからない理由付けをささやかれる。
それに応えるように俺は床に向けて言う。
「だから、あんたは何者なんだ」
「さっき叫んでたじゃないか。君のいうところの大先生だよ」
しくじった。こっちから先に呼んでしまっては、乗っかっているだけの可能性が否定できなくなってしまう。
「はあ。そうかい」
もうどの態度をとればいいかわからなくなってしまった。
投げやりな気分になってしまった俺は、相手を大先生とみなして話を進める。
「じゃあさ。今までどこ行ってたんだよ」
俺は重い体を引きずり、壁を背にして座り込む。
「なあに。ちょっと野暮用だよ」
「野暮用でどんだけの歳月が経ったと思ってるんだ。あれから一度もログインしないでよ」
そう。この毒樹の森で大敗を喫した大先生は、それから二度とHOに来ることはなかった。
怒りが沸いてくるのを感じる。
「やはりそのことで怒っていたのか。それでこの森に居を構えて私を待っていたと」
「おいおい、うぬぼれないでくれよ。何も大先生、あんたを待つためにここを拠点としているわけじゃない。今はSOEと名前を変えているが、かつて俺たちを屠った守護の盾の連中を見返してやりたかっただけだ」
それに、と続けようと思ったが、女の言葉が先に入る。
「それは嘘だ。先日の試合、見ていたよ。アイナ君」
ようやくアイナと呼んでいることに合点がいった。
見てくれていたのか。わずかに喜色が出そうになるが、意識的に真顔に戻す。
「俺の試合を見て何がわかるんだ。あんたと違って俺は諦めなかった。そうして手に入れた勝利だ。あんたにとやかく言われる筋合いはないね」
後から後から、女の言葉が突き刺さる。
気づけば、大先生としてやりとりをしている。もう、疑う余地はないのかもしれない。
「我々を最も苦しめた毒を使っていること、敵を増やすようなやり方を未だに続けていること。以上から君が私のつくったギルド神殺しの丘に、未だに未練があることは明白だ」
頬に伝うものを感じる。俺はそれを悟られまいと出来る限り下を向く。
「あんたのつくったギルドなんかつまらなかったよ。弱い者いじめばかりの最低なギルドだ。ちょっと小突かれたぐらいで自然消滅しちまうギルドなんか、始めからつくらなければよかったんだ。抜けた瞬間思ったね。こんなギルド潰れて清々したと」
俺は吐き捨てるように言った。水分が床に垂れる度に声を張り上げた。
こんなにも格好の悪い自分が、未だかつて存在しただろうか。
そうだ、こいつがいるからだ。目の前にいるから俺はだめになってしまうんだ。
「もう、消えてくれよ。頼むから……」
俺は目の前の幻覚に向かって言う。
「そうはいかない。アイナ君、君にはやってもらわなくてはならないことがあるんだ」
「もうあんたとは同じギルドじゃあないんだ。あんたに従う義理はないよ」
今更頼み事だと。
「やっぱりあんたは馬鹿だよ」
「昔を思い出すね。だが、そうも言っていられない切迫した事態に陥っているのだよ」
俺が本当にあんたを求めたとき、あんたは居なかったのに、自分が困った時だけ俺を頼るのかよ。
自己中心的にもほどがある。
「だから言っているだろ、俺はパスだ。他のメンバーをあたってくれ」
力になってやりたい気持はある。しかし俺はもう、この女を信じることはできないのだ。
「私の言葉を素直に受け入れ難い気持はわかるが、これは君にしかできないことだ。否、できないのではなく、君にしか頼めないことなのだよ」
それほど俺は特別視されていたのか。光栄なことだ。
それでも、俺は。
「選ばれし者だとかいうのか? 馬鹿言うな。俺はあんたに見放された、見捨てられし者だろうが」
「私が見え、声が聞こえるのは君だけなのだよ」
「じゃあやっぱりあんたは俺の幻覚なんだ」
「そうとも言えるが、そうではない。私は私として自我をもち、人格を有している」
「口ではなんとでも言えるさ。かと言って実験しようとも思わない」
「そのとおり。証明する必要はない。君にしか聞こえない私の声で成してほしいことがあるんだ」
「俺が従うとは限らないが、言うだけなら勝手にしろよ。そうしたら消えてくれるんだろ」
「ああ。聞いてくれ」
そうしたやりとりの末、聞いた大先生の頼み。それを滔々と、俺に口をはさむ余地も与えずに述べ終えた後には霧散していた。
勝手なところは本当によく似ている幻覚だ。
「そういうわけだ」
俺は大先生から聞いた現状についての説明をウィンチにした。
「にわかには信じられないね」
天井には蜘蛛の巣のように縄が張り巡らされている。そこには布状の比較的軽い装備が吊るされている。
使えるスペースはすべてアイテムを置くために消費されていることがわかる。
外観の殺風景さと相まって物置のようにさえみえるこの屋敷が、ウィンチの持つ店である。
「HOにいた人間がHOの世界に変換された。なんて聞かされても現実感わかないよな」
「いや、私が信じられないのはお前の見たマスターの幻影だよ」
たしかに信じがたいが、受け取った言葉以上に何を考えればよいのだろうか。
「やっぱり幻覚だと思うか……。しかし内容もやたらと具体的だったし、単に俺から生まれた幻覚とは考えづらいんだよな」
ウィンチは聞きながらアイテムの整理をしているようだ。
「ふむ。それでマスターは今見えるのか?」
「いや、話し終えたらすぐに消えた」
ウィンチは眉をへの字にする。
「それじゃあ証明しようがないじゃないか。HOに現れた新しいシステムかもしれないと思ったのに」
なるほど。その考え方があったか。
それは世界観を構築するための大先生似のNPCだったかもしれない。で、あるならば俺にだけ見えるとうそぶいている、もとい、プログラムされたテキストを読んでいるのかもしれない。
「その仮説から考えれば俺の記憶が生み出した幻覚かあるいは、HOの生み出した幻影か。手がかりのため、判断する必要がありそうだな」
「そうだねえ」と心ここにあらずといった具合で返事が返ってくる。
ウィンチもログアウトできなくなった現状に対して、危機感はないようだ。
外では一向にまとまらない話し合いを延々とやっているのにだ。ウィンチも最初はそれに参加していたが、呆れて戻ってきたらしい。
「ウィンチはこのまま、帰れなくなったらどうする」
俺の話題には興味がなさそうなので、より現状について現実的な話題に切り替える。
「困るね。今のHOでは気軽に死ねないのに、武力は現実世界よりも簡単に振るえる。こんな世界で生き抜いていこうと思ったら、いままでどおりやってたんじゃ保たないだろうね」
ウィンチはカウンターの向かいに座ると、今度はインベントリをいじり始めた。まるで携帯をいじりながらしゃべる若者のようだ。
「じゃあどうするんだ?」
ウィンチの意見を求める。大先生の言葉を加味した上でこれから俺がどう行動するか。その参考がほしかった。
「食べ物でもたくさんためこんで立て篭もるとかどうだい」
「それ、食べ物腐らないか?」
現実的に考えればそうだ。どこまで現実的な世界になってしまったのか、俺の主観ではわからない。
それでも、ウィンチやここに来るまですれ違った人々の反応を見るに、この世界は現実らしい。
「どうだろうね。そのことさえも、これから時間が経たなければわからない。例えるなら、集団で島流しに遭ったようなものだからね」
島流しか。そうかもしれない。みんなどこか現実から目を逸らした、逃避的な人間が集まっているのかもしれない。
広場で話し合いを続けている者たちもそうだ。そうすることでしか、現実を受け入れられないのだ。
「俺はどうすればいいと思う?」
つい口をついて出てしまった。
彼女は怪訝そうな顔で俺を見る。
俺は焦って取り繕う。
「わかってるよ。自分のことは自分で決めろとか言うんだろ。そうだけど、なにか参考がほしいんだ」
「まあそうなんだろうさ。変なものまで見ちゃったんだから混乱ぐらいはね。それでも私なら言うよ。好きにやってみればいいんじゃない。とね」
それは、俺がギルドを抜けて途方に暮れていたときの言葉とまったく同じだった。
しばらくの沈黙が辺りを包み込む。
俺は言葉を探す。好きにやれと、突き放された俺がウィンチにかけることができる言葉を。
しかしそれは見つからず、沈黙を破って俺は宣言する。
「じゃあ、行ってくるよ」
「ああ、またきなよ」
ウィンチはいつもの言葉で俺の背中を押す。
どんな非常事態でも、平静を装おうとするウィンチらしい台詞だった。
それは偽りだと俺は知っている。
なぜならウィンチはまるで夜逃げのように、大量の荷物を詰め込んでいたからだ。
俺は朝霧の中を走る。ぼやけて曖昧に、遠慮がちな自己主張をする陽の光は俺の道を照らさない。足元さえも見えないその地面を、ひたすらに蹴り続ける。
現実の体のように重く感じる体は、馴染みのあるマナの見た目をしている。だが、刺激される五感はひどく鈍い。
視界が遮られ、思考に集中できる。
大先生はHOからプレイヤーを追い出せと俺に命じた。つまりは殺してすべてを抜け殻にするのだと。
接触がどうした、コンバーターがどうした、記憶のバックアップがなどとしきりに言っていた。
俺に細かい理屈はわからない。それでも、俺にはこの世界で生きることと死ぬこと、両方を考えなければならなくなった。
大先生は最後に言った。
「もしかしたら、君はもう死んでいるのかもしれない」