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一、小宮牧穂という看護師

結婚なんかしなくても生きていけるようにと、いつの日からか私は頑張ろうと思った。

「だーもう! おのれ、ヘンダーソン! あんたが十四項目も作るから、私は今宵も眠れないんだよ!」


 看護学生時代の実習期間中、ヴァージニア・ヘンダーソン著『看護の基本となるもの』を開いたまま、牧穂はそうやってよく頭を抱え込んだ。

 看護学校に入る前、牧穂にとっての歴史上最も偉大な看護師と言えば、フローレンス・ナイチンゲールだった。しかし、入学して早々に牧穂の頭の中を占領し、慢性的な睡眠不足に陥らせるまでに悩ませたのは、他でもない、ヴァージニア・ヘンダーソンである。


 『看護であること・看護でないこと』『何が看護で何がそうでないか―What it is,and What it is not―』『看護と看護でないものを見極める』――出版社が違えば訳し方も異なるため、言い方はいくつかあるが、これらはフローレンス・ナイチンゲール著『看護覚え書』の副題である。



 はじめに


 この覚え書は、看護の考え方の法則を述べて看護婦が自分で看護を学べるようにしようとしたものではなく、ましてや看護婦に看護することを教えるための手引書でもない。(中略)私は、女性たちにいかに看護するかを教えようとは思っていない。むしろ彼女たちに自ら学んでもらいたいと願っている。そのような目的のもとに、私はあえてここにいくつかのヒントを述べてみた。



 このような出だしから、ナイチンゲールの看護覚え書は約二八〇ページに渡って続いていくのだが、実際のところ、牧穂が学生時代に真剣にページをめくって読んだのはここまでである。ところどころに線が引いてあったり、付箋が貼られていたりするが、以後はほとんどパラパラと流してしまって、卒業した今でも完璧に読破したことはない。

 ナイチンゲールは「病気を治すためには、身の回りの環境整備が大切」「患者を看るには相手の気持ちに立って物事を考えなくてはならない」と簡単に言ってしまえばそういうことを言いたいのだなと、そのような認識で今日まで来てしまっている。


 だが、もしもナイチンゲールがこの世に男性として生まれていたら、看護の歴史はまた違っていたであろう。また、もしも彼女が神を信仰していなければ、彼女の考え方はまた違ってきていたであろう。

 牧穂が看護師を目指した本当のきっかけは、あまり人に公表できるような内容ではないのだが……牧穂がナイチンゲールという人間を好きになった大きな理由は、彼女が神様を信じている人だったからだった。


 牧穂自身、神様大好き人間だった。中学生の頃、理科の授業で先生が三択でこんな質問をした。

 

・宇宙はどうして生まれたのでしょうか?

一、理由はわからないがいつの間にか自然にできていた。

二、神様が造った。

三、ビッグバンという現象により生まれた。


 牧穂は「そんなの決まってんじゃん!」という確信を持ちながら、堂々と二番で手を上げたのだが……まわりを見渡すと、牧穂以外は誰一人として手を上げている者はおらず、それで牧穂はすごすごと手を下ろした。そして「そうか、一般的にはそんなもんなんだな」と悲しくなった。


 日本には宗教というものが定着しにくい。キリスト教や仏教が伝わる前にはもう、「天照大神」とか「八百万の神」が定着していたし、それでなくても最近は特に無宗教の日本人がほとんどであり、むしろ「カルト、カルト」と恐れて敬遠しているくらいだ。


 牧穂の学校では病院実習においてヘンダーソンの看護理論が採用されていた。ヘンダーソンは『看護の基本となるもの』の中で十四項目を上げており、十一項目目に「自分の信仰に従って礼拝する」といった部分があったが、実際に患者をアセスメントするときには、「自分の大切にしていること、習慣とかそういったものが阻害されずに行われているか」に置き換えられていた。

 もともと、ヘンダーソンは在宅看護に携わっていた人でもあり、そういった看護の視点から立てられている項目のため、ある程度ニュアンスを変えて展開しなければ、当てはまらない項目は他にもあった。


 いろいろと感じること、考えることはあるが、牧穂は基本、勉強があまり得意ではないため、人一倍の努力が必要であった。「自分の看護観を確立させる」といったことよりも、解剖生理学や病態生理、基礎看護技術といった勉強のほうに必死で、とにかく単位を落とさぬようにと頑張っていた。そのためか、看護学校を卒業し、無事国家試験にも合格したときになっても、牧穂は「看護」がどのようなものか、はっきりとよくわからなかった。

 ただ、学生時代の恩師から勧められた、ジョイス=トラベルビーの『人間対人間の看護』に載っている『きいてください、看護婦さん』の一文に痛く衝撃を受けて以後、その本をたまに読み返している……のだが、やはり理論というのは難しいなと、途中で断念してしまう。


 何はともあれ、牧穂は現在、念願の看護師として働いている。学生のときもそうだったが、病院では辛いことや悲しいこともあるけれど、そのぶん嬉しいことや面白いこともたくさんあり、だから、こうやって仕事を続けていくことができるのだと思う。


 しっかりしていると思っていた患者さんが、実は軽度の認知症があって、たまにとんちんかんなことを言ったりする。たとえ認知症がなかったとしても、環境が変わることで混乱してしまい、まるで人が変わったように落ち着きがなくなってしまうこともある。


 この間のある患者さんは、「腰が痛い」「起こして」「トイレ行きたい」といったコールが頻回で、そのときのコールも大体その類だろうと思いながら行ってみると、まったく予想外な発言をされた。

「やっと人間になれました」

「そ、そうですか……それは良かったですね」


 また、帰宅願望の強い患者さんは「先生がもう退院しても良いとおっしゃっていました」と言って、さっさとどこかに行こうとしてしまう。

「あの、こちらのほうではまだ、主治医からそのような許可が下りているとは、きいておりませんが」

「まぁ、そうなんですか……それはそちらのミスですね」


 あるときには、病室に入ると入院してきたばかりの患者さんが全裸になっており、

「ちょっと! 私が着てきた服を返してちょうだい! 隠すなんて酷いじゃないのよ!」

「ちょ……」

 牧穂は慌ててカーテンを閉めると言った。

「覚えていませんか? 着てきた服は汚れてしまっていたので、お家のかたに持って帰ってもらったんです」

「嘘つかないでよ! さっきまで着てたじゃない。おかしいわよ、この病院……私、無理やり連れてこられたんだから!」

 顔を真っ赤にさせながら、その患者の声は徐々に大きくなり、表情は険しくなっていく。この患者には高血圧の既往があるのだが、今まさに血圧がバーンと跳ね上がっているんじゃなかろうかと、牧穂は心配になってきた。

「落ち着いて……あなたは骨折してしまっているので、安静にしていないと……」

 すると全裸の患者は突然、

「痛たたたた! 何すんのよ、痛いじゃないの!」

 ――いや、私まだ何もしていない……カーテン閉まっているんだから、誤解を招くようなこと言わないでくださいよ……

 まだ起き上がってもいないのに、急に痛がりだした患者に牧穂もあたふたとしてしまう。

「と、取りあえず服を着ましょう。裸では外にも出られませんよ」

「嫌よ! こんな変なパジャマ着たくないわ!」

 そして、これまたいきなり牧穂のナース服の胸ぐらをひっつかむと、

「あんた、これ良いじゃないの。貸しなさいよ!」

 ――いやいやいや!? できませんって! 二人して全裸になってどーするんですかっ!


 そのときは必死でも、あとから思い返してみると、とても可愛くて面白いことをする患者さんがたくさんいるから、そして、そんな患者さんたちが最後には笑って帰って行くから、どんなに嫌なことがあっても、牧穂は笑って頑張っていけるのだと感じた。


引用文献


「看護覚え書―看護であること・看護でないこと―」

フローレンス・ナイチンゲール著

訳―湯槇 ます

  薄井 坦子

  小玉香津子

  田村  真

  小南 吉彦

株式会社 現代社

2010年 第6版第12刷発行

P.1-2



『きいてください、看護婦さん』


ルース=ジョンストン


ひもじくても、わたしは、自分で食事ができません。

あなたは、手のとどかぬ床頭台の上に、わたしのお盆を置いたまま、去りました。

そのうえ、看護のカンファレンスで、わたしの栄養不足を、議論したのです。


のどがからからで、困っていました。

でも、あなたは忘れていました。

付添さんに頼んで、水差しをみたしておくことを。

あとで、あなたは記録につけました。わたしが流動物を拒んでいます、と。


わたしは、さびしくて、こわいのです。

でも、あなたは、わたしをひとりぼっちにして、去りました。

わたしが、とても協力的で、まったくなにも尋ねないものだから。


わたしは、お金に困っていました。

あなたの心のなかで、わたしは、厄介ものになりました。


わたしは、1件の看護的問題だったのです。

あなたが議論したのは、わたしの病気の理論的根拠です。

そして、わたしをみようとさえなさらずに。


わたしは、死にそうだと思われていました。


わたしの耳がきこえないと思って、あなたはしゃべりました。

今晩のデートの前に美容院を予約したので、勤務のあいだに、死んでほしくはない、と。


あなたは、教育があり、りっぱに話し、純白のぴんとした白衣をまとって、ほんとにきちんとしています。

わたしが話すと、聞いてくださるようですが、耳を傾けてはいないのです。


助けてください。

わたしにおきていることを、心配してください。

わたしは、疲れきって、さびしくて、ほんとうにこわいのです。


話しかけてください。

手をさしのべて、わたしの手をとってください。

わたしにおきていることを、あなたにも、大事な問題にしてください。


どうか、きいてください。看護婦さん。


(American Journal of Nursing,1971年2月号より)

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